ハックルベリーに会いに行く
石原莞爾と東條英機:その25(1,708字)
近代化によっていわゆる生産性が爆発的に増大した。そうして「新聞」というものが生まれた。ものづくりの生産性が上がって、印刷物を大量に、しかも短期間に作り、配れるようになったからだ。それで、毎日印刷物を発行して配るという、それまでは夢でしかなかったソリューションが徐々に、しかし確実に構成されていった。
日本における新聞は、明治維新以降徐々に浸透していった。しかし大正に入る頃まで、まだそれほどの巨大産業ではなかった。なぜかといえば、新聞を作ることはできるようになったものの、まだ読者が育っていなかったからだ。
当時の日本には、新聞を読むリテラシーと財力のある人が限られていた。特に維新からしばらくは、そもそも文章を読むことのできる人が少なかった。確かに識字率は高かったが、それは単に名前を読み書きできるくらいで、難しい文章を読解できる人は少なかった。
ところが、そんな新聞に驚くばかりの追い風が吹く。そ
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