ぼくは高校の頃、ありとあらゆるコンテンツを手当たり次第見まくっていた時代があって、その時に気づいた「名作のセオリー」というものがあった。それは「劇中劇」があるということだった。あるいは劇中に「コンテンツ論」をくり広げているということだ。そういう作品に、なぜか名作が多いのである。

代表的なのが「ハムレット」と「ドン・キホーテ」だ。この二つはどちらも400年くらい前の同じ時期に書かれたのだけれど、前者は今でも戯曲の最高傑作といわれているし、後者は小説の最高傑作といわれている。
そうして、この両者はともに劇中で「コンテンツ論」に言及しているのだ。「ハムレット」では劇中劇を演じる役者たちが「演劇論」をたたかわせるし、「ドン・キホーテ」でも主人公のドン・キホーテとサンチョ・パンサが、やっぱり小説をめぐってあれこれ議論をたたかわせる。


それで、「なぜ名作にはコンテンツ論を取りあげるものが多いのだろう?」と考えたのだけれど、答えは意外と簡単であった。
というのは、コンテンツというのはその作者が最も時間をかけて考えていることを扱うのが一番面白いのだけれど、戯曲や小説の作者が何を一番考えているかといえば、それは「コンテンツ論」なのだ。コンテンツの作者ほど、「コンテンツとは何か?」を真剣に考えている人はいない。彼らは、その人生のほとんどの時間を、コンテンツのことを考えるのに割いている。

だから、コンテンツ論を取りあげれば面白いに決まっているのである。その作者が最も深く考えている事柄なので、豊富な知見に満ちていて読み応えがあるのだ。
そこでぼくは、もし自分もコンテンツを作ることになったら、コンテンツ論をくり広げることは、一つのメソッドとして使えると考えるようになったのである。

ところで、そんなぼくが今一番考えているのがブロマガのことである。寝ても覚めても「ブロマガをどう運営していくか?」ということについて考えている。それは、「ぼく以上にブロマガに時間や労力をかけている人間は他にいないのではないか?」と思えるほどだ。
そうしてぼくは、考えた。
ということは、ぼくが今一番書いて面白いのは、「ブロマガ論」ではないか?
そのため、今回はブロマガ論について書いてみたい。


つい先日、ブロマガを経営するドワンゴさんと打合せをした。彼らは、ぼくの不人気振りを心配し、会員数を上げるためのさまざまな施策や考え方を提供してくれたのだ。
それらは、ぼくにとって目から鱗の、非常に示唆に富む考え方だった。そこでぼくは、これまでのぼくの運営方針や施策を少し見直して、これからブロマガを変革していこうと考えた。

ぼくのブロマガの一番の弱点は「固さ」にあるということだった。妙にかまえているのだ。
記事も、大上段から振り下ろして、読者との間に距離がある。言説ががっちり固まりすぎていて取っつきにくい。
それが、会員数増加を妨げている一因だということだった。

ブロマガというコンテンツは、これはスタート当初から言われているが、ファンクラブ的な性格が強い。このことは、成功している(会員数が多い)どのブロマガを見ても、共通している要素だという。
筆者と読者とが、ブロマガを媒介につながり合っているのである。そこで筆者は、コンテンツを大上段から振り下ろすことはせず、むしろ読者に寄り添うような形でそっと差し出しているというのだ。

成功しているブロマガの筆者は、津田大介さんなどはその代表なのだが、Twitterの方がむしろ大上段で読者との距離がある。Twitterの方が文章が固いというのだ。
そうして、ブロマガで一転、柔らかい語り口になるのである。そこでは、公の場では示さない親しげな言葉遣いや表情を、どんどん開陳していく。そうして、読者との間の垣根を下げ、そこに親しげに交われるコミュニティを構築しているというのだ。

「ハックルさんのブロマガは、そういう要素がないんです」とのことだった。
これは、言われてみれば確かにそうだった。ぼくは、ブロマガをそれこそ本を書くような感覚で書いていた。人様に読んでもらう物はどれも完成原稿なので、生半可なものは出せないと考えていた。読んでもらって面白いということにこだわるあまり、どこか押しつけがましいところもあった。

もちろん、それにはそれの良いところもある。しかしながら、ブロマガというフィールドにおいては、それはあまり相応しくない。読者は、ほとんどの人が本とは違う読み方をする。
多くの読者は、ブロマガにコミュニティを求めている。同好の士が集まって、そこで楽しげな雰囲気を味わったり、刺激を受けたりする場を求めている。