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そこで今日は、「なぜこの本を企画したか?」ということについて書きたいと思う。この話は、おそらくブロマガだけでしかしないことになるだろう。なぜなら、この本の読者のほとんどは、本そのものには興味を抱いても、その舞台裏には興味を示さないだろうからだ。この本は、読者が主役の本なのである。著者や企画者は、あくまでもその黒子に過ぎない。
まず、この本を企画したきっかけだが、それは、「もしドラ」以降のぼくの本が、なかなか売れなかったことにある。
「もしドラ」以降、ぼくはいくつかの本を出してきた。小説も出したし、実用書も出した。新書も出したし、対談集も出した。
いずれも内容には自信があり、また読んだ方からの評価も高かった。しかし、いずれの本も売上においては芳しい結果を残すことができなかった。有り体に言えば売れなかった。ビジネスにはなかなかならなかったのだ。
それでぼくは落ち込んだ。著者としての自分の能力を疑うこともあった。
しかしながら、冷静に周りを見渡した時、世の中にはなかなか芳しい売上を記録している本がないということが分かった。あるいは、出版業界自体が大きな構造的不況に陥っていた。
それは、売上の大きな割合を占めるマンガにしてからがそうで、「天才 柳沢教授の生活」で知られる山下和美さんのエッセイマンガには「出版恐慌」と表現されていた。要は、ほとんどの本が売れていなかったのだ。
それで、ぼくは考えた。
本が売れないのは、必ずしもぼくばかりのせいではない。それ以上に大きいのは、出版を取り巻く時代や状況の大きな変化だ。
本は、もう以前のような作り方をしていては売れなくなった。それはもう、「もしドラ」のようなやり方さえ通用しない。ほんの3年前なのに、業界の様相は一変してしまった。
それでぼくは、今の時代に売れる本は何か?――ということを考え始めた。
出版もビジネスである。利益を出さなければ、継続はできない。それは、良い本を作るかどうかということとは別の問題だ。もちろん、粗悪品を作ったり読者を騙すようなまねをしてはいけないが、少なくとも利益を上げるということについては、何よりこだわる必要がある。
そう考え、もう一度本の企画と向き合うことにした。
そうして出てきたのは、「結局、今は『役に立つ』本が一番求められている」というシンプルな考えだった。
今、本の主役は著者ではない。読者だ。これが、昔と少し違うところだ。
コメント
コメントを書く此方そなたっていう言葉の文化、なんというかありがとう有り難うの語意は有り難し、ありがとうは有難いことだのありがとう。
人は、この記事に即すると、人に近かった故の小説の尊敬、それは距離感。
時に荒れる、コメント距離感の近さというか、人には制空権というか間合い、、名乗らずに踏み込めば切られる感覚の欠如は人が遠いの裏返しなのか?
いずれにせよ、書く人は書くしかないし、止められても書くのが書く人なんでしょうね。
応援します(^^)dお金お金気持ちを乗せるに便利です。
>>1
ありがとうございます。
本当に過ぎたるは及ばざるが如しで、人々の距離が近すぎるようになったため、失われた社会システムはいくつかあって、小説はそのうちの一つだと思います。いつかまた人々の距離がもう少し離れると、小説も復権すると思います。
お金はだいじですね。こればかりは今も昔も価値を持ち続けているのが逆に面白いです。
うわ、、自分で書いたときはまったくの疑問を持たずにイメージをピピッと書いたつもりが、、次の日読むと一瞬あれー?って思いましたが、、ハックルさんのコメントが補助になってイメージを思い出せました。
人が近いから此方其人と信愛の度合いが高いほど他者を遠くの尊称を使い、、日常に人が遠いからの叫びが荒れたコメントという近さを産み出していたと仮定すると辻褄が合うのですが、、ぼくスナックや居酒屋でも喧嘩しちゃうタイプで、、田舎には腕力で仕事着を生きてる人が多くて、だけど、心は乙女のように柔い人がよく夜に飲んでいるので、、いつか病院送りになるんじゃないかと思うんですが、ギリギリのその人の臨界を線引きして楽しむのが好きで、それは中毒というかパンチドランカーなのでしょうが、、きっと人が恋しいんでしょね。人は体温があって人を元気にするので、、好きですね。
このブロマガは体温があるっす。