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今年で47歳のぼくが見てきたデジタル文化とその変遷(2,712字)
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今年で47歳のぼくが見てきたデジタル文化とその変遷(2,712字)

2015-02-13 06:00
    この記事に触発されて、書いてみました(ただしぼくは、はてなの人ではないですが)。


    ぼくは1968年に生まれた。今年で47歳だ。
    47歳はどんな光景を見てきたのか?
    2000字くらいでまとめてみたい。

    ぼくは、生まれて1ヶ月くらいでボストンに渡った。そこで2年暮らした。
    1969年(1歳)のアメリカは、ヒッピーとかウッドストックとかアポロの月面着陸とかベトナム戦争とかイージーライダーとか、それはまあすごい状況だった。文化が爛熟して、歴史にも稀な活況を呈していた。
    そのとき、ぼくはボストンにあるハーバード大学の学生用宿舎に暮らし、その空気をたっぷりと吸っていた。

    デジタルツールがぼくの周りを変え始めたのは、70年代後半だろう。
    1978年(10歳)、最寄り駅である京王線・高幡不動駅の駅ビルに入っていたゲームセンターに「スペースインベーダー」が導入された。そして、子供たちがそこに怒濤のように押しかけた。小中高はもちろん、大学生もいたと思う(ただしぼくは、お小遣いをもらってなかったので遊べなかった。ただ指をくわえて見ていただけだ)。
    これをきっかけに、コンピューターが徐々に生活の中に浸透し始める。

    1980年(12歳)、ぼくは「ゲーム&ウオッチ」がほしくてたまらなかった。それで買ってもらった。「ファイア」というゲームだった。これで、ようやく電子ゲームを自由にできる環境を手に入れた。すると、それを死ぬほどするようになった。
    もう一つ、「デジタルインベーダー」という数字合わせのゲームが内蔵されたカシオの「ゲーム電卓」も買ってもらった。これも死ぬほど遊んだ。

    それから、父親がコンピューター好きで、シャープのポケット電訳機IQ-3000を買っていた。それも12歳でぐりぐりいじり回していた。
    子供が「家のコンピューター」で遊ぶ、おそらく最初の世代がぼくらだったように思う。その意味で、デジタルネイティブでもあるし、またデジタルネイティブではないともいえる。なにしろ、11歳までそれはなかったのだから。11歳まで、ぼくは普通にコマ回しやメンコをして遊んでいた。

    1980年を境に、時代は大きく変わった。80年代の初頭、ぼくは中学生だった。
    その頃のぼくを直撃したのは原宿文化だ。まず原宿ファッションが大ブームとなった。原宿ファッションとは、パステルカラーのダボッとした服をモードに着こなすという感じだ。髪は刈り上げが流行っていた。キョンキョンが刈り上げにしていたのが象徴的だった。ラフォーレ原宿にとんでもない行列ができた。時代がどんどん軽佻浮薄になっていった。
    そんなふうに、みんなが浮かれる中で、青春真只中のぼくは、もう3台目くらいのウォークマンで、カセットにダビングした歌謡曲ばかり聞いていた。その頃の歌謡曲は、ピコピコとした電子音に溢れていた。そういう電子音を、浴びるように聞きながら成長していった。
    その頃に聞いていたのは、主に「ベストテン」にランクインする流行歌だった。「探偵物語」「時をかける少女」「艶姿ナミダ娘」「君に、胸キュン。」「涙のリクエスト」「ワインレッドの心 」など。

    高校生になる頃には、パソコンが本格的に普及し始める。うちにも1984年(16歳)、98(NEC PC-9801M)が来た。
    学校にもコンピュータールームができ、「パソコン部」が創設され、最初期のオタクたちがそこに蝟集した。ぼくはオタクではなかったので、そうした人たちとは距離があった。パソコンもそこまでのめり込まなかった。だから、そういうオタク少年たちに「うちに98があるよ」というとギョッとされた。それはプリンターも含めると75万くらいしたので、おいそれと買えるものではなかったからだ。

    ぼくは、環境が整っていたにもかかわらず、プログラミングにはちっとも手を染めなかった。パソコンは、ぼくにとって長い間「ゲームをするための機械」だった。特に「ロードランナー」を死ぬほどやった。弟は「ザナドゥ」をよくやっていたが、ぼくはあまりやらなかった。この頃から(いやそれ以前から)ぼくはゲームを死ぬほどやるというのが一つの特徴となっていた。

    うちにビデオが導入されたのは、1985年(17歳)のときだった。比較的遅かった。ソニーのSONY SL-F3だったように思う。つまりベータだった。
    そのときから、ビデオはぼくの相棒となった。その機械で、ありとあらゆる番組を見まくった。
    中でも好きだったのがNHKのドキュメンタリーとフジテレビのバラエティだ。NHKのドキュメンタリーを見てずいぶん勉強したし、フジテレビのバラエティを見てずいぶん笑った。それらは、ぼくにとっては知とエンタメを象徴していた。この二つの併存が、ぼくという人間のベースになっていると思う。

    同じ頃、家にファミコンが来た。パソコンよりだいぶ遅れてきたし、うちにあった98よりだいぶ性能が劣ったけど、その代わりソフトの品揃えが素晴らしかった。特にやっぱり任天堂のゲームが素晴らしかった。ぼくは「スーパーマリオブラザーズ」を死ぬほどやった。おかげで任天堂信者になった。もちろん「ドラゴンクエスト」も死ぬほどやった。

    90年代初め、大学生になったぼくは、ゲームを死ぬほどやった。「メトロイド」を死ぬほどやったし、「リンクの冒険」を死ぬほどやった。「中山美穂のトキメキハイスクール」を死ぬほどやったし、「マリオゴルフ」も死ぬほどやった。つまり、ディスクシステムを死ぬほどやった。
    特に「マリオゴルフ」に関しては、死ぬほどやって全国で100位以内に入り賞品として金のディスクをもらったくらいだ。確か30位くらいだったように思う。スコアは4ラウンドで72アンダーだった。

    この頃、レンタルビデオ店が身近になったので、映画も死ぬほど見た。映画は一日一本見ていた。この頃はパチンコも死ぬほどやっていた。当時すでにセブン機もあったが、ヒコーキ台もまだまだ存命していた。パチスロは2.5号機くらいで、バニーガールをよくやった。

    大学時代のぼくの生活は、朝起きてパチンコに行き、午後3時頃に終えて本屋に行って本を買い、帰りにビデオ屋でビデオを借りて、それから死ぬほどゲームをする。ゲームに行き詰まると映画を見たり、ビデオに録画したテレビ番組を見たりした。それが終わると本かマンガを読んでそのまま寝た。そんな生活をずっとくり返していたから、学校も行かなかったし、人間関係はおそろしく希薄だった。世の中にはおそろしくコンテンツが溢れていて、それらを消化するには死ぬほど頑張らないとダメだった。学校の勉強をしたり、人に会ったりしている暇はなかった。


    2000字にまとめるつもりだったが、大学生まででその文字数に到達してしまった。
    大人になってからのことはまた記事をあらためて書きたい。
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