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村上隆さんの個展を見ることの価値(2,670字)
村上隆さんの個展は、美術に関心、興味がある人にとってはもちろん、そうでない人にとっても非常に高い「価値」がある。今日は、そのことの理路について書きたい。
村上隆さんの仕事の本質は、一言で言えば「価値とは何かを探ること」である。そうして、探ったそれをもとに絵を描き、立体を造形する。そこでは、村上さんが探った「価値の高さ」が作品に根付くことを狙っている。
「価値の高さ」が村上さんの狙い通りそこに根付けば、その絵や立体は高く売れる。なぜ高く売れるかといえば、もちろんそれが「価値の高さ」を有しているから……ということもあるが、しかし実は、それだけではない。そこにはもう一つ、オマケがついてくる。
それは、「価値とは何かを知る」ということである。村上さんの作品は、買うのはもちろん見るだけでも、「価値とは何か」ということについて、いろいろ知ることができるのだ。
「価値とは何かを知る」というのは、非常に価値が高い。それは、もしかしたら「この世で最も価値が高い」といえるかもしれない。
なぜなら、それは「金の卵を産む鶏」のようなものだからだ。「金の卵」も、もちろん価値は高いのだが、それを定期的、継続的に産んでくれる「鶏」は、もっと価値が高いというわけである。
「価値とは何か」を知ることができれば、まずビジネスが上手くいく。自分が作る商品やサービスに価値を根付かせられるようになり、大きな売上が見込める。
また、周囲との関係も良くなる。周囲の人々にとって価値が高いものを、自分が提供できるようになるからだ。
ビジネスが上手くいかなかったり人間関係で失敗したりする人というのは、たいてい「価値」というものがよく分かっていない。だから、価値のない商品やサービスを売り出したり、周囲にも価値がないものを押しつけたりする。
例えば、友人の誕生日にプレゼントを贈ったとして、その価値が低ければ、相手とは関係は上手くいかない。しかし、そのプレゼントの価値が高ければ、相手との関係は上手くいき、お互いにハッピーになれる。
ところで、世の中の多くの人は、この「『価値とは何かを知る』というのは、非常に価値が高い」という道理を、あまり理解していない。なぜなら、多くの人は、「価値なんか簡単だ」と思っているからだ。
「価値なんか簡単だ」と思っている人は、たいてい「価値」を二つのパターンでしかとらえられていない。
一つは「お金」。彼らは、お金をかければかけるほど、価値が高いと思っている。
もう一つは「真心」。彼らは、真心を込めれば込めるほど、価値が高いと思っている。
しかし、これはよくある話なのだが、例えば数十万円もするブランド品を片思いの相手に贈ろうとして、断られたりする。それは、そのプレゼントが高価すぎて気後れさせてしまった、ということでもあるのだが、言い換えれば、相手にとって「価値」が高くなかった、ということでもある。それは、受け取るに値しなかったものなのだ。
あるいはその逆に、恋人に真心を込めて描いた絵を贈る人、というのもいる。これも、著名な画家などでない限り、相手から喜ばれたという話を聞いたことがない。
価値の高さは、値段が高かったり、真心が込められたりしていればいいというものではない。それほど単純ではないのである。もっと難しいのだ。
だから、多くの人が失敗する。実績のあるすぐれた実業家でも、誰からも見向きされない不必要な商品やサービスを売り出したりする。あるいは、過去にいくつもの名作を生み出した映画監督でも、不入りの全くつまらない作品を作ってしまったりする。
だから、「価値とは何か知る」というのは、非常に価値が高いことなのである。これは、社会のあらゆる階層の人々にとって価値が高いといえよう。なぜなら、どんな階層の人でも、そこでビジネスが上手くいったり周囲を幸せにできたりすれば、ハッピーになれる可能性が広がるからだ。
そして、現代美術、中でも村上隆さんが戦っているフィールドは、その「価値とは何か」ということの答えを、プリミティブに提示することを競っている。もとはそれほど価値が高いとはいえない「絵の具」や「画板」を、どうやって価値の高いプロダクトに変換させるか、その腕を競っている。「価値とは何か」という概念の神髄に、いかに迫れるかを競っているのである。
だから、村上隆さんは自身の日常を「価値とは何かを突き詰めること」に置いている。彼は、世界中の誰よりも「価値とは何か」ということを研究することに明け暮れようとしている。世界中の誰よりも、価値のあるものに触れ、価値とは何かを考え、そこで得たインスピレーションや研究の結果を、自分の作品に根付かせようと試行錯誤しているのである。
ところで、「価値とは何か」を知るということには、一つ、独特の難しさがある。それは、価値が高ければ高いほど、それを味わうのが困難になる――ということだ。
人間というのは、何でも実際に経験してみないと分からないということがある。
例えば、1000万円する高級外車の価値というものも、実際に買ってみないと分からない。買う前にいろいろ想像していても、いざ買ってみると、その想像を大きく覆される。そこで1000万円が高く感じられるときもあれば、その逆もある。
あるいは、オリンピックに出場するといった経験も、とても価値が高いことなのだが、これもこれで、実際に出てみないと分からない。そこで得られるさまざまな感情は、事前の想像を絶するものであろう。
そういうふうに、「価値とは何か」を知るためには、自分であれこれと体験してみる必要があるのだが、そこで価値が高くなればなるほど、経験することが困難になるのだ。
しかし村上さんは、その領域にも果敢にトライしている。そうして、その経験をもとに「価値とは何か」ということの分析をさらに押し進め、その考察結果を創作にフィードバックさせているのだ。
だから、彼の作品に触れることは、エベレストの山頂に登った人から「そこでどのような景色が見えたのか」を聞くようなものだともいえる。普通に生きていたら絶対に味わえないような体験から得られる感覚というものを、そこで教えてもらうことができるのだ。
しかもそれは、「価値とは何か」という、誰にとっても価値の高いものなのだ。そのため、たとえ美術に興味がない人にとっても、価値が高いというわけである。
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