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 星新一については、前にも「宇宙の男たち」という作品についてご紹介しました。
 その知名度に反して真価が理解されているとは言い難い作家の、あまり知名度のない作品についてすくい上げることができたと思っております。
 それに比べ、本作は殊にネットの世界では有名な作なのですが……。



 ご存じない方は是非上をごらんになっていただきたいのですが、大体のあらすじを記しておくと、以下のような感じです。
 ネタバレされたくない方は、お読みにならないようにお願いします(なお、以降太字は小説の原文の引用部分です)。

 小さなサーカス小屋で、コビトのショーが行われていた。
 身長20cmほどの、本物のコビト。
 ショーと言っても曲芸をするでもなく、座長がただコビトをいじめるというだけの残忍なもの。
 すぐに問題になるが、座長はコビトを自分の所有物と言って譲らない。コビトもまた、ここで働かせてもらえなければ飢え死にだと状況を甘受している。
 人々はことを裁判に訴えた。
 しかし座長は孤軍奮闘、詭弁を弄し裁判費用を都合し、最終裁判所まで持ち込むが、当然そこでも敗訴。
 ついにコビトは我々と同じ人権、選挙権なども持った存在として認められた。 
 と、その次の瞬間、コビトが勝ち鬨を上げる。
「かつてなら力も武器もない我々は問答無用で一掃されていたことだろうが、時代は変わった」。
 各地で一斉におびただしい数のコビトが姿を現した。
 ここに至れれば、流血もなく合法的にコビトが地上を支配するのは、もはや時間の問題にすぎない。

 僅か5pの、ショートショートの中でも更に超短編。
 その中に極めて優れた寓意が圧縮されています。
 ネット上では外国人参政権に絡めて語られることが多く、上の動画もまた、保守派のグループによって作られています*1
 ――が。
 ぼくは最近、本作をトランプ現象と共に思い出したのです――と書くと、みなさんいかが思われるでしょうか。
 まずは、もうちょっと詳しく本作を分析していきましょう。
 星新一が本作にいかなる風刺意図を込めたかは、判然としません。
 そもそもが現在の視点からは「コビト」という言葉自体が「ヤバい」ものであり、ミゼットプロレスをつい、連想してしまいますが、本作が書かれたのは1968年。まだ「コビト」そのものにヤバさはなかったはずです*2
 設定に「コビト」が採用されたのは、言うまでもなく「弱者性」を表現するためと、ラストのどんでん返しで「わらわらと湧いて出てくる」場面を連想させたいがためでしょう。事実、コビトは前半ではオドオドとした卑屈な態度を取り続けますし、また、動画ではコビトがすごく可愛く描かれ、大変効果を上げています。
 逆に座長は実に憎々しげに描かれ、更にはコビトを助けようと奮闘する人々をト書きで「問題にすることで快感を味わう同好の士」、その活動を「だれもが、リンカーンや清水の次郎長、慈悲ぶかい王妃さまなどになったような気分になれる。」と極めて突き放して描いています。敢えて反感を覚えるような書き方をすることで、読者を逆にコビト側に肩入れするように、リードしているわけですね。
 これを外国人参政権そのものと結びつけることがどこまで妥当かはわかりませんが、「移民」の問題が描かれていると見ることは容易にできます。
 また、先にも書いたコビトの弱者性はまさに「女災」の理念と合致する、「被害者とされる者の発揮する加害者性」そのものでしょう。その意味で、この「コビト」を女性そのもののメタファーと見て取ることも、不可能ではありません。均等法前後のフェミバブルは、まさにぼくたちにとっっては「コビト」であったはずです。
 が、これは星新一作品全体に通底する特徴なのですが、あまりにもフラットでスペキュレイティブな作風が、すぐさま「○○が元ネタ」との「認定」をすることを拒絶するのです。
 例えばですが、このコビトは何故、地底からわらわらと出て来たのでしょうか。
 当時はSFブームの最盛期で、『ウルトラセブン』では毎週、いろいろな宇宙人が地球の侵略を目論んでいた頃です。ホンネを現したコビトがUFO――否、「空飛ぶ円盤」――を呼び、「我々は○○星人だ」と宣言するオチも、考えられたはずです。
 そう、或いは特撮オタクであればここで、「ノンマルトの使者」を思い出したかも知れません。これは『セブン』の中でも名作にして異色作と呼ばれる話で、「海底人のノンマルトが攻めてくるが、彼らは自分たちこそが原地球人で、今の地球人こそ自分たちを海底に追いやった侵略者だ」と主張する話です。
 これは(異説もありますが)どうしたって当時の「原日本人説」の影響を思わせます。「ノンマルト――」の脚本家とは別人ですが、『セブン』でも執筆していた佐々木守はホームドラマでも、また別な特撮作品『アイアンキング』でも「原日本人説」を扱っておりました。
 つまり、当時のそうした流れを鑑みるに、地底から現れた「コビト」はまた違ったニュアンスで解釈されていた可能性も大いにあるわけです。何しろ、星新一の祖父である人類学者・小金井良精がアイヌ人原日本人説を提唱していましたし、時代は下りますが『ズッコケ山賊修行中』でもまさに土ぐも一族が地底に潜んでいましたよね。

*1 ここでも外国人参政権に絡めた解釈がなされていますが、作品そのものは極めて原作に忠実に(言い回しなどは変えてはいるものの、イデオロギーにあわせた改変などはせず)映像化されています。
*2 本文中に「小人型チョコレート」という言葉が出て来ますが、当時はコビトチョコレートというブランドが存在しており、それが意識されていたことは想像に難くありません。

 ともあれ、そうした本作のフラットさ(換言するならば、どのようにも解釈しうる優れた寓話性)を確認した上で、もう一度、内容に検討を加えてみましょう。
 コビトは「かつてなら問答無用で一掃されていたろうから、時代が変わるまで長い時間雌伏していた」と語ります。
 つまり、何よりも「民主主義」こそが彼らの勝因であったのです。
 大体わかってきたのではないでしょうか。
 ここに着目した時、本作は「移民」の物語とも「女性」の物語とも(或いは「原日本人」の物語とも)取れると同時に、トランプ現象の話にもなり得るのです。
 本作において、確かにコビトは「敵」「異邦人」として描かれてはいます。
 が、そこにひとまず目をつぶれば、コビトは「男性」に見えてくるのではないでしょうか。
 ぼくたちは「コビト」です。「居ないことにされていた人々」です。
 リベラル寄りの人々は「女性」であるとか「セクシャルマイノリティ」であるとかを「居なかったことにされていた」と称し、そうした人たちを担ぐことが大好きですが、じつはそうした人たちは、「ずっといた」。
 オカマなどすらも別に、いないことにはされていませんでした。もちろん、一般的な社会で彼らが語られる文脈は、彼らにとっての望む形ではなかったにせよ。
 その、彼ら彼女らに付されていたネガティブなレッテルが「PC」という裏技で全部ポジティブなものにひっくり返った。それが、ここ数十年の動向であったはずです。
 フェミニストは「歴史」は英語で「history」、即ち「his story」だ、などと言います。近年、有村悠師匠が真顔でこう言っていた時は頭がクラクラしました
 が、それはそうではありません。
 ぼくたちはずっと、「心の参政権」を剥奪され続けて来たのですから。
 このことをファレルは

男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった、男性が司令官になったのは守れという命令のためだったこと。


 と評し、ぼくは男性心理の「三人称性」と形容しました。
 もっと言うと「選挙」だの何だの「政治」そのものが(ホントは違うんですが)天下国家を語る、男の「三人称性」を強化させるシステムに他ならなかったわけです。
 だが、しかし、にもかかわらず、あまりにも蔑ろにされ続けて来た「ホワイトトラッシュ」という名の「コビト」が初めて味方を得た、というのがトランプ現象だったはずです。
 そして言うまでもなく、日本においても近いことが起こっています。
 そう、オタクが権利意識に目覚めるなどの傾向です。
 ぼくたちはフェミニズムによって「家庭」も「男性としてのアイデンティティ」も奪われました。しかしだからこそ逆説的に、「正義のために」とか「貧しい人のために」ではなく、「俺のために」行動することに目覚めてしまいました。これもホワイトトラッシュ同様、全てを奪われたが故の立ち振る舞いでしょう。
 むろん、ぼくの「表現の自由クラスタ」の政治活動に対する評価は高くありません。彼らのボスがフェミニストの手先であることは、幾度も指摘してきました。本来であれば男性対女性、或いは人類対フェミニストという対立構造で捉えるべき問題を、彼らは非実在フェミニストを次々と生み出して、妄想社会学の世界に押し留め続けているのですから。
(トランプのやり方について、ぼくには興味も知識もありませんが、ホワイトトラッシュと移民の対立構造で事態を捉えていること、それ自体は正しいのではないでしょうか)
 だから、彼ら彼女らに乗っかっている限り、「オタク」という名の「コビト」の無血革命は成功することは、ないでしょう。
 ぼくたちが「コビト」になったということは、ぼくたちが「女性」であるとか「セクシャルマイノリティ」とかに対する後ろめたさを失ったことを意味します。
 ぼくは「表現の自由クラスタ」はフェミニズムをわかっていない、フェミニズムが「女性が男性に圧倒的絶対的に搾取されているのだ」との現状認識を大前提としていることを、彼らは全く理解していない、と指摘し続けて来ました。
 それは以前にも指摘した、「オタクをセクシャルマイノリティであると強弁し、失敗する姿」、或いは「ペドファイルをLGBTの仲間に入れてもらおうとして、失敗する姿」が象徴しています。彼らはフェミニズムの前提を取っ払ったがため、後ろめたさを持たない、フラットな人権観の主ですが(そしてここまでは正しいのですが)しかる後にフェミニズムにすがろうと考え、フェミニズムを妄信し続ける。その理由が、ぼくには全くわかりません。
 そもそも現実を見る能力が一切ない人たちなのだから、何ら不思議はないと考えるのが正しいのかも知れません。しかし敢えて理由を考えるならば、彼らが「上を見て、我々にパンを」方式の考え方しか教えられていないからかも知れません。自民党を倒せばオタク差別も男性差別もなくなるという摩訶不思議な考えは、「オタクセクマイ論」「ペドファイルLGBTに入れろ論」とワンセットですよね。
 ですが、それにしても、ほとほと、「表現の自由」という切り口を持ち出したことが、彼らの敗因であったと思います。
「俺のために」行動することを、彼らは肯定してしまったのですから。
 そうなっては彼ら彼女らのしがみついている旧時代の強者/弱者観が古びた者であるということが、明らかになってしまうのですから。
 しかし、いずれにせよ、先人であるフェミニストたちのようにこの国のリソースをを食いつぶすだけのやり方では、ジリ貧です。
 何となれば、ぼくたちは何億という数で多数決の勝利を収めた「コビト」、即ちマジョリティなのだから。
 敢えてここで、作品としての「コビト」の続編を考えるとしたら、コビトたちが国のリソースを食いつぶし、寄生主を巻き添えにして共倒れ……とそんなストーリーしか、浮かばないのです。