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 兵頭新児の一人読書会、最終回である今回はいよいよ「ポルノ」にまつわる後半戦をお届けします。
 前回前々回をご覧になっていない方は、そちらから読んでいただくことを、強く推奨します。
 また、noteにも同じ記事をうpしております。もし当記事がお気に召しましたら、そちらの方にも「スキ」だけでもつけていただけると幸いです。
 さて、テラケイ師匠、青識師匠、借金玉が大絶賛の本書ですが、ポルノについて述べた第5章ののっけから、「行動する女たちの会」もマッキノン師匠も、そしてドウォーキン師匠も、その全員を延々延々延々延々称揚し続け、こちらのやる気をどっと減退させます。前回、前々回をお読みの方はおわかりでしょうが、本書の、そして牟田師匠のスタンスはほとんどマッキノン師匠と同じ。

彼女たち(引用者註・マッキノン師匠とドウォーキン師匠)の定義では、ポルノとは、女性が人間性を奪われ性的対象としてのみ表現されている、女性が苦痛や屈辱を楽しんだり強姦を喜んでいるかのように描かれている、乳房や膣、尻など身体の部分のみが女性の全体から切り離されて強調して描かれている、などの特徴を持つ、「絵やことばで女性の明らかな性的服従を描いたもの」であり、「ポルノは性(セックス)に基づく搾取と従属が組織的に実践されたものであり、差別的に女性を傷つける」。
(149-150p)

 本書の、ことに後半を読んでいる間、実のところぼくはずっと祈るような気持ちでおりました。何しろ上に挙げたような「アンチフェミ」と呼称されている連中が、本書を称揚しているのですから。しかし(今まで見てきた通り)そんなこちらの期待をことごとく裏切り、本書は古色蒼然たるフェミ本でしかありませんでした。いえ、正直に言えば、それは予測していたことではあります。ただ、それでも恐らくポルノについてだけは一応、多少なりとも冷静な記述がなされており、「アンチフェミ」のお歴々はそこを評価したのだろう、と思っておりました。
 だから、上のような記述に失意しつつも、両論併記のような形ででも、後に反論が添えられるのではないか……と思いつつ読んでいたのですが。
 牟田師匠はフェミニストのアンチポルノ運動が必ずしも女性全般に受け容れられたわけではないと指摘します。うんうん、そこがわかってるだけでもまあ、フェミの中ではマシじゃないか……と思いつつさらに読み進めると。

 私はここで、ポルノ批判が揶揄的な反応や批判を呼び起こしてしまうから、少なからぬ反発を女性からも受けるから、フェミニストのポルノ反対運動に問題があるなどといっているのではない。むしろ、そのようないささか感情的とも言える反発は、ポルノ批判が問題の核心をついてパンドラの箱を開けた証拠だ。内容のいかんを問わず、新鮮でラディカルな主張というのは、当初は荒唐無稽、「非常識」に聞こえて当たり前だ。
(151p)

 つまりフェミニストが女性からも反発を食らっているのは、彼女らが革新的で、正しかったからだったのだあぁぁ~~~~~!!
 ΩΩΩ<な、なんだって~~~~~!!??
 怪しげな主張や発明をするトンデモ研究家が、自分を宗教裁判にかけられたガリレオになぞらえるのといっしょです(あ、でも俺も自分の理論が受け入れられない時、似たようなことを言うけどな!)。
 ちなみに本書、白饅頭師匠が超絶賛してます

実際、ポルノへの異議申し立てが有効で妥当な主張だったことは、ポルノの規制や撤廃にはつながらなかったとしても、一〇年の後、セクシュアル・ハラスメントや性暴力を含めて、性の問題をめぐる社会の「常識」がこれだけ変わってきていることからみても証明されている。ポルノを批判するフェミニストたちに、やりすぎ、ヒステリックだとまゆをひそめる女性はいまもあるだろうが、身体にタッチしたりカラオケでデュエットをしつこくしたがる上司に、「それってセクハラよ」といなすことができるようになったのは、もとをたどればその「ヒステリック」と揶揄されてきた女性たちのおかげであることを知った方がいい。
(151p)

 これ、時々「ツイフェミ」とやらが吐く暴言と同じですよね。「誰のおかげで女性が安心して生きられる世の中になったと思ってるんだ」と。
 しかも、ここまで言っておいて「フェミニストのマジョリティは規制に与しない(大意・152p)などとぬけぬけと続けるのも大した心臓です。
 しかし、確かに、「行動する女たちの会」のやってきたことは、「規制」というよりは「テロ」と呼ぶべきものではありました。フェミニストも「表現の自由クラスタ」も左派ですから、とにかく国家の規制だけを念頭に置きたがりますし、だからこそ「自分たちの規制はキレイな規制、規制にはあたらない」との「揺らがぬ信念」からこのようなことを言い続けるのでしょう。
「いや、それでも国家の規制をよしとしないだけマシだ」といった見方も可能かもしれません。
 ですが、師匠はこんなことも言っているのです。

 それは、AV(アダルトビデオ)や写真の中でレイプが描かれることがかりに許されるとしても、レイプや女性に対する暴力がAVというフィクションの形をとって行われるのが許されるわけではないということだ。
(153p)

 れれっ!?
 どういうことでしょう。
 い……いえ、御田寺圭師匠ご推薦の書籍に軽はずみなことが書かれているわけはありません。これは「フィクション」を謳ってその中で本当のレイプが行われる可能性がると言いたいのでしょう。それは確かに、単純な労働上の契約違反の問題です。
 が!
 ここで例に挙がるのはバクシーシ山下の残忍なAV。確かに同監督の作品はフェミニストによってレイプ疑惑が叫ばれたことがあるのですが(その疑惑にどれだけの妥当性があるのかは知りませんが)読み進めてもその問題について語られる様子はなく、ただ同監督の作が残忍極まりないものであるからけしからぬというだけの話。
 そりゃ、確かにそんな胸糞なAVはぼくも見たくないけど、この理屈が通るならエロ漫画など純フィクションの表現でも、残忍なものは規制してしまえる(ぼくも残忍性の強いものはエロとはまた別な暴力関連のレーティングなりゾーニングなりがあってしかるべきと考えますが、それとこれとはまた、問題が別です)。

 そのとき言い訳になるのは、そのAV女優は自由意志で出演した、契約に基づているというものだ。金を稼ぐ目的で納得してやってるんだ、その証拠にこれまで暴力を受けた、強姦されたと警察に届けたような女優はいない、というわけだ。(154p)

 いや、自由意志で契約に基づいて納得しているものすらも駄目だと言い出したら、それはポルノ全否定でしょう。その証拠にこれまで暴力を受けた、強姦されたと警察に届けたような女優はいくらもいるのですから。そもそもそうした事例はあってはならぬものではあれ、常に起こり得ることです。上の強姦を過労死や労働上の事故死に置き換えれば、あらゆる「労働」はNGになってしまうでしょう。
 これに関して、師匠は一応の補論を試みているのですが、それが「契約があれば殺人や暴力が許されるのか」などというシリメツレツなもの。こういうのを「詭弁」と言います。
 そして「第二に」と前置きしてようやっと契約違反の可能性を疑いだします。いや、順番が違うというか、こうなると「契約違反」は自説を補強する言い訳として無理に持ち出してきているとしか言いようがありません。
 一応、補足しておきますと、この後さらに、師匠は労働前の説明が不足していること(上記のバクシーシ監督は、女優に内容の説明をほとんどしない旨を発言しています)、現場で女優が「やっぱり嫌」と言ったのに撮影が続いたら、といった可能性も指摘しています。ここは一応の納得がいくものです。しかしむろん、だからといって上の主張が正当性を帯びるわけでは、全くありません。
 ちなみに本書、『矛盾社会序説』の著者が超絶賛してます

 さて、読み進めると、ストロッセン師匠(本書ではストローセン表記)についても言及があります。
 このストロッセン師匠、一時期は「表現の自由クラスタ」の口から唯一出てくる「真のフェミニスト」の名前でした。ポルノを擁護しているから素晴らしいと。ぼくも読もう読もうと思いつつ、読めずにいるうちに、すっかり名前を聞くこともなくなりましたが(ネオリブのおかげでしょうが)。
 しかしここを読む限り、そのストロッセン師匠の主張とは「検閲が実地されれば、女性たちの権利のための表現も対象となり、男女の平等を達成しようとするフェミニストの力をそぐことになるという。(156p)」というバッカみたいなものなのです。ドウォーキン師匠の反ポルノ論文なども「ポルノである」として検閲の対象になってしまうではないかと。ドウォーキン師匠はこれに対し、ポルノをなくすためには「値打ちのある犠牲」と反論しているといいますが、仮にポルノ撲滅を絶対の正義とするならば、検閲がなされた時点で目的を達成できるのだから、反ポルノ論文など不要になるわけで、これじゃあドウォーキン師匠の方が理は通っています
 もっとも、フェミニストの流す中絶推進の情報すらもポルノ扱いされるといった、また「別枠」の危惧も語られてはいます。しかし、これもあくまで「ポルノそのものに対する否定的スタンス」を揺らがせるものではありません。重要なのは「ポルノはけしからぬ」というフェミの第一義を、牟田師匠が(そしてこの引用を読む限りにおいてストロッセン師匠も)「全く疑い得ない真理」であると捉えている点です。
 ストロッセン師匠、以下のようなことも言っているそうです。

ストローセンは、この対立を超えて、ポルノ検閲が「スケープゴート」となって女性の運動が女性差別や女性への性暴力をなくそうという建設的方向に進むことを阻害すると主張する。
(157p)

 まずこの「ガス抜き」論、以前も言ったように何でも貼りつけられる、意味のない万能理論ですが、さらに「ポルノを悪役にすると性犯罪者を免罪することになる(大意)」と続けます。

 ――え? 兵頭、それは正論ではないか。悪いのは性犯罪者なんだから。まさかお前、性犯罪者を擁護するのか?

 違います。性犯罪者を擁護することはフェミ様の聖なる使命でしょう。
 先を続けます。

 ポルノが女性の人格や性の自由の侵害を表象しているとすれば、それは現実の社会の女性への差別や人権侵害を反映しているからだ。
(159p)

 おわかりでしょうか。
 師匠は「だから現実の方を変えよ」とおっしゃっているわけです。しかし、そんなこと言われたって、何を変えるんでしょう?
 レイプが現実に起こるからレイプネタのポルノが作られるのだとの主張、フェミニストの合言葉である「ポルノはテキスト、レイプは実践」とのロジックの真逆です。しかしならばそれが正しいのかとなると、丸っきり理には適っていません。日本は七十年間平和ですが、戦争モノのコンテンツはずっと作られてきたでしょう。ウルトラマンはいなくてもウルトラマンの番組は作られました。

ましてやそれを、安易に、国家や行政の規制に頼るとすればそれはあまりにも危険な道だ。また女性の人権侵害のイメージであるポルノを国家や自治体の規制によって取り締まろうとするのは、法のエージェントによって女性を守ってもらおうということだ。
(159p)

 また、そうした保護主義は父権主義的でけしからぬとの議論がここでも蒸し返されますが、こんなのは前回に書いたように駄々っ子のマッチポンプです。
 ……こうして見てくると、暗鬱たる気持ちにならざるを得ません。
 というのも、「答」が出てしまったからです。
 テラケイ師匠、青識師匠たち「アンチフェミ」否、「自分をアンチフェミだと思い込んでいる一般フェミ」たちが本書に「異常な執着」を見せたのも、結局はここ、「国家の規制をよしとしていないからエラい」という点に他愛ない賛意を示しているに過ぎないことはもう、自明でしょう。

 もっとも、章の最後の節は、「ポルノは女のためにある?」と題され、ここではウェンディ・マッケロイ師匠の『女性のポルノ権』を採り挙げ、もっと積極的なポルノ評価について紹介がされています。
 その論旨はまとめるならば、「ポルノ女優を被害者視することへの懐疑」、「女性たちの性の解放のためにポルノは必要」、「女性がポルノで得る、マゾヒスティックな楽しみを否定するな」といったところでしょう(162-163p)。
「自分をアンチフェミだと思い込んでいる一般フェミ」が恐らくここを一番の「抜きどころ」にしているであろうことは想像に難くありません。
 そればかりでなく、本稿をお読みの方の中にも、「なかなかいい」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 むろん、しかしぼくは一切、いいとは思いませんが。
 というのもこれは結局、「彼女ら」が「見えていない」ことの何よりも雄弁なマニフェストだからです。
 上の三つの論点、そこだけ取り出せば、ぼく自身もさしたる異論はありません。
 しかし三点の内、最初と最後のモノが真ん中とは対立的であることにお気づきでしょうか。「女性ジェンダーは男に押しつけられた絶対悪」という世界観が師匠の、そして全フェミニストのドグマであることはもう、多言を要しないでしょう。そしてその考えを演繹すれば、「ポルノ女優」も「マゾヒスティックなポルノを見て喜ぶ女性」も、そうした「ジェンダー規範」に突き動かされてそのような行動をとっていると考える他はない。「女性の性の解放」と師匠たちが言う時、それがそうしたジェンダーの変革を意味していないと考えることは困難です。
 つまり、(後に述べるように)結局彼女らは「ポルノを全否定した上で、自分たちのマスターベーションイマジネーションに敵うよきポルノを作れ」と言っているに過ぎないのです。
 そしてもちろん、それは間違っています。
 何となればポルノは全て、男女共有のものなのだから。
 フェミニストたちが「男の価値観だ」と泣き叫ぶ「ジェンダー規範に則ったポルノ表現」は、男女が共犯で作り上げてきたものなのだから。
 そして、上の下りはあくまでマッケロイ師匠の説の中立的紹介であり(つまり、ことさらそれに同調しているわけでではなく)、牟田師匠はさらにこう続けるのです。

女性たちは、「よくない性」「間違った性」としてポルノを否定し撤廃を願うよりも、そのような性のファンタジーを作り出す現実の社会経済的力関係の構造を変えていかねばならないし、ポルノ表現においてはもっと積極的・能動的に、消費者としても作り手としても、自分たちの満足できるポルノにかかわり作り出すことが必要だ。
(163-164p)

 はい、ぼくの予言が見事に的中しました。ポルノ(さえも)自分たちの満足できるものに改変せよという、千田有紀師匠と丸っきり同じ主張*1ですね。
 あ、それと本書、「レディースコミック」「BL」についてはただの一言の言及もありません。

 実際アメリカでは、このような立場から、ポルノ製作に進出している女性たちがいる(原文ママ)。かつてポルノ女優として活躍していたキャンディダ・ロワイヤルは、「女性のためのポルノ」を専門とするファム(femme)プロダクションを作った。
(164p)

 何というか、こういう記述にこそ、ぼくは落胆と失意を覚えます。
 師匠はレディコミを完全にスルー、その上で大上段に気負って「さあ女性のためのポルノだぞ」とドヤっている。その神経が、ぼくにとってはろくでなし子師匠のフェミアートを見た時くらいにいたたまれないのです。
 つまり、結局、既に存在している「女性のためのポルノ」であるはずのレディコミも、実はフェミニストにはお許しいただけない。だからこそ、師匠はわざわざガイジンの例を挙げ、「私が好むもの以外はダメだ」と言っているだけなのです。
 いずれにせよ師匠がこの節を「日本では女性のポルノは普及していない」で終えているのは、何重にも何重にも彼女が周回遅れの議論をしている証明なのです。

 公共空間にヌードポスターなどが氾濫し、見たくもないのに性表現が眼に入ってしまう状況を規制して「見たくない権利」を守ることは必要だろう。しかし、ポルノを「醜悪」だと嫌悪するばかりでなく、自らの性幻想を創造し表現する必要が同時にある。「そんなおぞましいものには近寄りたくもない」と忌避するのではなく、そこから遠ざけられてきたことの意味を再検討すべきだ。「人格の合一」やらに拘泥するロマンティック・ラブの対幻想に依存しないとすれば、性幻想の源泉としてのポルノグラフィは、女性にとってもポジティブな意味を持つものとして女性をエンパワーメントするものとして、再生しうるにちがいない。
(169p)

 本章のラストです。この無残な文章が、フェミニズムが何重にも何重にも何重にも何重にも間違ったものであることを、ぼくたちに教えてくれています。
 まず、過度な性表現は公衆から遠ざけられるべきかもしれませんが、(師匠が全肯定する)行動する女たちの会は他愛ない水着のポスターにこそ、文句をつけていました。
 中盤の「そこから遠ざけられてきたことの意味」とは何でしょう。女性は性表現から遠ざけられてなどいないし(何せ被写体のほとんどは女性だそうですから)遠ざかっている者は自分の意志からそうしているのだから、尊重すべきです。「悪者が女性を性表現から遠ざけた」などといった事実はありません。
 最後の文章も千両です。彼女らは「ロマンチック・ラブ」を悪と断じ、それを殲滅するための武器として、ポルノを用いよと言っている。それはまるで全共闘がエロ本業界に入り込み、エロ本にウザいコラムを書いて多くの青少年をムカつかせたのと、全く同じに。

*1 夏休み千田有紀祭り(第二幕:ゲンロンデンパ さよなら絶望学問)

 第6章は「売買春」について語られますが、もう疲れました。簡単に片づけましょう。
 ここで師匠は売買春を女性差別であるとしながら、しかしフェミが売買春を全否定してきたわけではないと摩訶不思議なことを言います。しかしこれも先のポルノについての議論を思い起こせば不思議がるには当たりません。「男の性は全て悪だが、女の自主的な売買春はいい」という、いつもの他愛のない論調が垂れ流されるだけです。
 売買春を「単なる労働の一形態」と位置づけるフェミを紹介し、「売買春の否定は女性の自己決定の否定だ」とぶったりする一方、90年代に大いに騒がれた援助交際についても言及があります。これも同様に、「一律に禁じるのは女性の自己決定を妨げる」との論調。
 また「女子高生はブランド物のバッグだか何だかを欲しいがために援助交際しているのだ」との、どこまで正しいのかもわからない俗言を持ち出し、「ブランド物を欲しがって何が悪い」などと言い出します。ここまで来るともう、噛みつく対象を血眼で探し出して片っ端から噛みついているという感じ、当たるを幸いです。

 買春することが、「誰にも迷惑かけてない」「自分の勝手」――買春女子高生のこれらの言葉はまったく正しい。
(191p)

 そこまで言いながら、彼女らは「気持ち悪いのを我慢して」やっている、それは「気持ち悪いのを我慢させる」男社会の強制なんだと主張します。いえ、そうストレートには書いてはいませんが、師匠は職場で女性が女性ジェンダーを期待されることとセクハラとが地続きであり、女性が売春することもまたそうだ、として、

セクハラを生み出している背景と売買春とには、通底するものがあるのだ。(194p)

 と言っているのだから、そういことなのでしょう。
 それにしても、あの種の人たちは「気持ち悪いのを我慢して」やってるんですかね。
 好きでやってるのも何割かいると思うんだけど。

売春からそうしたスティグマが取り去られ、マッサージやセラピーと同じような、心身への癒しや快を提供する専門職になることは、自由な選択肢として売春が選ばれうる条件である。
(195p)

 ついにはこんなことまで言い出します。聞き覚えがありますね。そう、女性器を手足と同様にしたいのだとわめくろくでなし師匠の言*2と、これは「完全に一致」しているのです(ただし、それが困難を極める道であるとも、師匠は言っています。確かにそこをわかっているだけ、他のフェミに比べマシだとは言えるかもしれません)。
 この後(197p)「ルッキズムは差別だ」論に移ります。師匠はそのルッキズムもこれから覆っていくはずだと希望的観測を述べますが、その根拠はガングロやヤマンバw
 しかしそれにしても、美人を称揚することがまかりならんのだから、当然ポルノなんてダメに決まっていますよね。
 ちなみに本書、「かわいそうランキング」の批判者が超絶賛してます

*2 『毎日変態よい子新聞』、もとい『毎日小学生新聞』が小学生相手に「ま○こまん○」と連呼した件

 ――これ以降もまとめにあたる「終章」が入るのですが、大体まあ、こんなところです。
 この最後のトピックでは、「売買春」について妙に肯定的です。「アンチフェミ」諸氏にはそこが印象に残り、そのせいで本書は奇妙な高評価を叩き出したのでしょう。
 しかしそれも、牟田師匠の援交女子高生への「欲情」ぶりが原因であると言えます(仮にですが彼女らが「管理売春」下にあったら、師匠はそれを血涙を迸らせながら全否定していたはずです)。
 事実、師匠の論調は実際のところ、売買春を自分でも肯定すべきか否定すべきかわけがわからないままに筆を進めている、といった混乱ぶりですが、このダブルスタンダードこそがフェミの本質。師匠はルッキズムを否定しておきながら、返す刀でマドンナを称揚するのですが、そうしたダブルスタンダードは『GIジェーン』への評価と全く同じです。
 みんな大好き、香山リカ師匠は『フェミニストとオタクは何故相性が悪いのか』の中で実に奇妙なことを言っています*3。彼女は碧志摩メグもAKBに憧れる女子大生も全否定しながら、しかし会田誠の描く、「女子高生をジューサーで粉砕する」アートはアリだと(P108)。そんな胸糞なもの、真っ先に否定しそうなものですが、彼女に言わせると、それは「体制への反抗だからおk(大意)」なのだそうです。あぁ、そうですか。
 そう、牟田師匠が援交女子高生に「欲情」したのは、それが「体制への反抗」だった(ように、師匠には見えた)からでした。
 そしてまた、こうした「抜きどころ」を「脳内編集」し、本書を盲讃する人たちのメンタリティもまた、これと「完全に一致」しているのです。
 もう、おわかりでしょう。この無惨な著作を何故、テラケイ師匠が、青識師匠が称揚したか。
 それは彼らも彼女らも「表現の自由がどうこう、ポルノがどうこう、性犯罪がどうこう」といった些事は心の底からどうでもよい……とまではいわないまでも、それは一種のダシであり、真の目的があったからです。
 それはそう、「政治的スタンスが同じ異性とのデート」です。

*3 フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか