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 どうも、普段はエロゲにモザイクをかける仕事を営んでおります、兵頭新児です。
 いや、しかし近年のモザイクって非道いですな、何が描かれているのやら、さっぱりわかりません。
 そんな「表現の自由」への弾圧に対し、憤懣やるかたない昨今ですが、今回ご紹介する本書、これもまた「モザイクで何が何やらわからない」作の一つと言えましょう。何せ書き手はあの例の、表現の自由の否定者*0。そりゃまあ、モザイクもかかりますわなあ。
 とまあ、思わせぶりな書き出しをしたところで、本筋に入りましょう。
 ちなみにnoteにも同じ記事をうpしております。もし当記事がお気に召しましたら、そちらの方にも「スキ」だけでもつけていただけると幸いです。

*0 これまでの師匠についての記事をご一読いただければ、師匠が表現規制派であり、フェミニズム(という邪悪極まりないカルト)の忠実な信徒であるとおわかりいただけるかと思います。

 先の『実践するフェミニズム』レビュー(*0のリンク先参照)にも書いたように、ぼくは本来、白饅頭ことテラケイこと御田寺圭師匠にそれなりの信頼を置いておりました。本書もAmazonで予約しておりましたし。予約したその直後、師匠が『実践する――』を称揚しだした時は本当に肝をつぶしました。で、届いた本書を複雑な気分で眺めるハメになってしまったわけです。
 さて、とはいえ、読み始めた当初の本書に対するぼくの印象は、それでも決して悪いものではありませんでした。
 いえ、むしろまえがきを数ページ読んだだけで、心を掴まれた、というのが本当のところです。
 そこに書かれているのは、師匠が学生時代に出会ったホームレスのおじさんについて。このおじさんは自分の今の境遇を自分の責としてただ受け止め、師匠が生活保護など行政に支援してもらう手があることなどを進言しても、それを断固として受け容れようとしなかったといいます。このおじさんは、自分を「いるだけでも迷惑な存在」と自己規定し、行政などに頼っては「今度こそ世間様に顔向けができなくなる」と語っていたといいます。
 確か、この話題についてはツイッター上でもつぶやいていたことがあったはず。或いはそれが、ぼくの師匠への好感情につながっていたのかもしれません。
 師匠はこのおじさんを「透明化された存在」と称し、この言葉を本書のキーワードのように繰り返します。
 第一章のタイトルは「「かわいそうランキング」が世界を支配する」。ここでは「大きな黒い犬」という言葉がキーワードとして語られます。保健所においても大きな(つまり成犬である)黒い犬は引き取り手が少ない。誰しもが白くて小さな、つまりは「可愛い」犬が欲しいのです。
 そう、「透明化された存在」、「かわいそうランキング」、「大きな黒い犬」といった巧みなキーワードで、師匠は読者の心を鷲掴みにします(一方、確か本書には採り挙げられなかったと記憶しますが、「キモくてカネのないオッサン」とのワードもまた、これらに並ぶものであることは説明するまでもないでしょう)。
 ともあれ、この時点で(師匠への悪感情にもかかわらず)本書の印象は決して悪いものではありませんでした。ただ、同時にぼくは一つの「予感」を持っていました。

 この(22pまで読んだ)時点で、ぼくは彼が「ではどうするのか」との回答を出しえていないことを断言する。

 上は、読書中に書いたメモをそのまま起こしたものです。第一章の途中まで読んだ辺りで、ぼくはそのように「予言」しました。
 そしてその「予感」は第二章「男たちを死に向かわせるもの」を読んだ辺りから、早くも「確信」に変わってしまったのでした。
 この章、ぼくはこれをnoteで読んでおり、評価していたはずなのですが、再読して首を傾げてしまったんですね。
 師匠は男がいかに死のリスクを背負っているかを述べます。
 男性の自殺率の高さなどは、近年指摘されることが多いのですが、他にも男性は女性に比べ、医者にかかる率が低い点についても指摘があり、ここはなかなか秀逸と思いました。というのも、ここには「男がいかに自らの身体を粗雑に扱っているか」がよく現れているからです(もっとも本書では「病気になり経済的な損失を被ると、社会的価値が失われるから」といった分析に留まっています)。
 以上はそれなりに重要なポイントの指摘になっており、『ぼくたちの女災社会』の抄訳といった趣きがないでもありません。「かわいそうランキング」に相当する造語、ぼくだって(『女災』には書いていませんが、師匠よりも先に)「愛され格差」というのを提唱していましたしね。
 そう、『女災社会』は上の男性の医者にかかる率が低いことなどに加え、さらに様々なデータを提示した本でした。その本の著者が左派やフェミニストからデマを流され、罵詈雑言をぶつけられ、恫喝されるといった総攻撃を受け、著作は絶版に追い込まれたのに対し、本書は版を重ねているようです。
 果たして、では、『女災』と本書の違いはどこにあったのでしょうか?
 読み進めると師匠はこんなことを言い出すのです。

したがって「大黒柱的な役割」の要求値を男女それぞれに均すことが、男性の自殺者数の逓減に寄与する可能性は高いだろう。より簡潔にいえば「女性が自分と同等以上の男性をめることをやめれば(それと同時に男性側も女性より優位でなければならないという考えを捨てれば)、男性は余計に死なずに済む」という考えを受容し、広めることが男性を死の呪縛から解き放つ第一歩となるだろう。
(43p)

 あ~あ、と思いました。
 これ、普通に考えれば「女性の社会進出のススメ」ですよね。
 それはもう何十年も実験し、それが男性の救済に何ら寄与しないことがもう、明らかになっています。
 そこを認めず、ただ「フェミニスト様に従え、フェミニスト様に従え」と絶叫を続けているのが今の左派(それは久米泰介師匠も含め)です。
 いえ、ここで終えてはフェアではありません。師匠はぼくと同じ疑念を、ちゃんと言葉にしているのですから。

 しなしながら、こうした解決法にはひとつ大きな問題がある。「大黒柱の役割(=稼得能力への期待・就業能力への期待)が死のリスクを高める」という前提があることには変わりない。この事実を知りながら、はたして女性側はこれを均すことに合意するだろうか。自分たちの自死のリスクを高めてまで、男性にのしかかる重荷を、自分たちの背中に分けて移すことに賛成してくれるだろうか?
(44p)

 そう、そんなことをするはずがないのです。
 だから、女性の社会進出を推し進めれば推し進めるほど、社会は破壊されてきたのです。
 実はnoteにおいては、本章は以下の言葉で締められていました。

 男は女に比べてとくべつ強いわけではない。「強くあれ」と求められているからこそ、そうしているにすぎないのだ。そして、誰にも気づかれないところで、ひとり自死を選んでいるのである。
(44p)

 そして付記として、皆口裕子のサンプルボイスが書き起こされていたのです(https://www.aoni.co.jp/search/minaguchi-yuko.htmlの「ナレーション7」。聞いてみてください)。気の利いた締めだと思います。
 ところが書籍版においては代わりに一節が加筆され、そこでエマ・ワトソンのスピーチが「公で男のネガティビティが述べられた初のもの(大意)」などと絶賛されていたのです。
 そんなバカな!
 ぼくの著作は置くとしても、小浜逸郎氏や渡辺恒夫氏など、重要な指摘をした人物はいくらもいます。いえ、単にご存じないのでしょうが、それにしてもこれは、渡辺氏の主張をパクッた伊藤公雄師匠を男性学の提唱者だとしている千田有紀師匠*1を思わせます。
 正直、この(エマ・ワトソンなどという成功者の上からのキレイゴトを言っているだけで、「よきフェミニストなり」と「表現の自由クラスタ」に絶賛されている人物を持ち出す)加筆によって、本章のよさが大きく損なわれているように感じられました。

*1 夏休み千田有紀祭り(第四幕:ダメおやじの人生相談)の■付記1■など

 第三章、「「男性”避”婚化社会」の衝撃」もそうで、ここではいかに結婚で男に負担がのしかかるかが描写されています。これまた非常に頷ける主張が続くのですが、「離婚後に単独親権性が取られていることも、男性の結婚へのモチベーションを下げている」との指摘がなされるに至って、首を傾げざるを得なくなります。
 理屈としては正しいのですが、果たして結婚するときに離婚後のことまで視野に入れる人間がどれほどいるか疑問です。むしろそうした離婚というものが一般化したこと自体が、人を結婚から遠ざけていると考えるべきで、何だかピントがずれているとの感を拭えません。
 いえ、それは些末なことで、重要なのは師匠がこのトピックを持ち出しておきながら、フェミが男をDV冤罪で陥れることを妻に吹き込み、男女を離婚させていることに、ついぞ言及しないことです。これは例えるならTOKIO結成秘話のドキュメンタリーで、山口君がいないことになっているようなものです(何かそういう番組、やってたんだってさ)。
 第五章は「「非モテの叛乱」の時代?」。
 ここではインセルが俎上に昇りますが、師匠は

 彼らの主張は単に「モテないのがムカつく」というもので結論づけるべきものではないだろう。
(中略)
 問題は性的魅力によって得られる報酬が社会的証人や個人の幸福に分かちがたく紐づいていることだ。
(中略)
 先天的要因によって、その後の社会的な承認や幸福に傾斜があることは、「差別」と呼ばれる問題ではないだろうか。
(84p)

 と、あくまでインセル、非モテに共感的です。モテが現代において非常に重要なファクターであるなど、言われてみれば当たり前すぎるほどに当たり前なことを、フェミニズムやリベラルが蔑ろにしてきただけなのですが(ぼくが「牛丼福祉論」と並列させて論じてきた「本田透の兵器利用」者たち*2は案の定、ミグタウの称揚を始めています)。
 夏頃に採り挙げたよう*3に、インセルに対しては八田師匠による苛烈極まるバッシングがなされています。「モテたいと思うなどとは許せぬ」と。それに比べてテラケイ師匠の非モテへの視線は大変に、優しい。それはホームレスに注ぐ視線の優しさと変わるところはありません。ここは一応、評価しないわけにはいきません。
 しかし、ここにもフェミニストに対する言及はありません。普段は積極的にフェミニストに対して言及し、アンチフェミを自称している師匠が非モテ問題を語っているのにフェミはスルー。何だかTOKIO結成秘話のドキュメンタリーで、山口君がいないことになっているようなものではないでしょうか。
 それを言えばインセルは語っても、非モテ論壇、本田透について語られていないのも、片手落ちと言えば片手落ち。まあ、非モテ論壇についてはぼくも知識がなく、あんまりエラそうなことは言えないのですが。
 そして、この章の次に控えている「ガチ恋おじさん――愛の偏在の証人」を読むと、違和感はさらに大きなものになるのです。
 この第六章、要するにアイドルの追っかけを長年やっているオッサンの話を聞いたという、ただそれだけのもの。実はツイッター上で本章がやたら採り挙げられ、多くの人々の心を動かした旨を述べています。しかし、ぼくは本章を読んで、驚くほど何も感じるものがなかった。
 何故か。
 いろいろ理由は考えられますが、結局、「オタクの方が辛くね?」という疑念が拭えないからでしょう。アイドルオタと二次オタ、どちらが辛いか比べなどやっても仕方のないことかも知れませんが、しかしそれでも一応は現実に存在しているアイドルに比べ、非実在な少女に萌えているオタクの方がある種の屈折、こじらせをかかえた存在ではないでしょうか。にもかかわらず、自称萌えオタであったはずのテラケイ師匠が「ガチ恋おじさん」とやらにインタビューし、「ふんふん、それで」と大仰にリアクションをしている様がぼくにはどうも、空々しく感じられました。これでは山口君がいないことになっているTOKIO結成秘話のドキュメンタリーを、山口君自身が作っているようなものです。
 何故こうなったのか。あくまで想像ですが、師匠は自分の中にある感情を自分で認識する能力をお持ちではないから、なのではないでしょうか(この辺りは『女災』で「三人称性」と表現しましたね)。
 冒頭のホームレスのおじさんの自己評価の低さは痛ましい。しかしそれを言うならオタクもまた、と言わずには、ぼくはおれない。しかし恐らく師匠はそんなことを夢にも思わない。何となれば、「三人称性」の持ち主だから。だから師匠はひたすら「わかりやすい他者」の下へ行っては専らうんうんと頷いているのです。

*2 敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!
*3 八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む

 ――ここまでお読みいただいて、どうお感じになったでしょう。
 隔靴掻痒というか、ぼくの筆致はどっちつかずなものになっているかと思います。高く評価できる主張もしているのに、読み進めても読み進めても、本書には違和感がずっとつきまとうと。
「無縁社会」について書かれた第七章では、表題として「無縁社会」が挙げられながら「チョイ悪オヤジ」がフェミ的な女性によって炎上したトピックスが挙げられます。何か、オッサンに向けて「若い女性を口説いて美術館に誘え」みたいなことを吹き込んだ雑誌編集者だかがいたという話題です。師匠はこの原因を男たちのディスコミュニケーションに求め、「チョイ悪オヤジ」的な人物を「人権感覚のアップデートが追いつかない者=家父長制的」と評し、そうした言わば「情弱(情報弱者)」を差別するなとの論調を展開します。何かヘンです。師匠の中では「過去の価値観」が間違っていることが前提視され、言わば先の「チョイ悪オヤジ」は「フェミニズム教育を受けてなくて可哀想な存在」として描かれているのです。
 そもそもそれと無縁社会ってどう考えてもつながらないのですが、ともあれここでは、無縁社会というならばまず第一の問題であろう貧富の差についてがあまりにも軽く流されており、何が何だかわかりません。
 第十章は「「公正な世界」の光と影」と題され、何と氷河期世代の低所得者への「努力が足りない」といった心ない認識を「世界公平信念」で説明しています!!
 え~とですね、「世界公平信念」というのは「努力は報われる」とか「悪いヤツには天罰が下る」とか「ずっとついてなかったんだから、そろそろツキが回ってくる」といったぼくたちが抱きがちな、しかし冷静に考えれば何ら整合性のない世界観のことです。
 そんなバカな!!
 いえ、「そうした側面もあるよ」くらいのことはいえましょうが、何よりも問題は景気のよかった世代とそうでない世代のジェネレーションギャップにこそあるはず。そうした現実を師匠はすっぱりと斬り捨てて、ことをその前提になる普遍的な(別に社会学などおベンキョしなくとも頭のいい人間ならば直感的に知っているような)人間のサガに還元します。
 何しろ生保問題も在特会もみなこのロジックで説明しようとする雑さで、「何か、大学の一般教養で得た豆知識を振り回して全てを説明しようとしている人」にも見えますが、やはりこれはそうではなく、「普遍的人間心理」にものごとを還元することで、原因の追及を断念しているというのが本当のところでしょう。何か、レイプ事件が起こったことに憤って「人間にジェンダーがあるのが悪い」とか言い出す人みたいです。

 この辺りで師匠の弱点が見えてきたのではないでしょうか。
 そう、師匠は犯人を探さない。原因を追及しない。
 オタクでありながらオタクについて語らない。「男性論」を語っているように見えて、実はその内面については驚くほど語っていない。
 ぼくの視線からは、師匠は「山のてっぺんから見える、中腹で登るのを止めた人」のように見えています。
 仮に師匠が『実践する――』を盲讃(この言葉はぼくが今、作りました)していなければ、「あぁ、頑張ったけど体力不足であそこまでにしか到達し得なかったんだな」と「騙されて」いたことでしょうが、しかし今となっては、「彼は敢えてそこに留まっていた」ということがよくわかります。それはつまり、「この山はここが頂点で、上には何もないのだ」との大本営発表のために。
 比喩を変えましょう。ぼくがマクラで何と申し上げたか、ご記憶でしょうか。
 そう、ぼくは本書を「モザイクだらけで何が何だかわからないエロ動画」であると表現しました。
 つまり、本書は『ぼくたちの女災社会』に「ママに怒られないよう」モザイクをかけたものだったのです
 テラケイ師匠は、フェミニズムを批判しません。重要な指摘をいくつもして、ならば必然的にフェミニズムに原因を求める方向へと話が進みそうなところを、軒並み華麗にスルーしている。まさに地雷原を、一つも踏まずに突破しているようなもので、全ての地雷を踏みぬいたぼくの著作とは好対照です。

 ――待て兵頭。いや、しかし今まで語られてこなかったことを指摘しただけでも大したものではないのか。

 残念ながら、違います。
 ネット上ではいくらでも語られていることに、師匠はモザイクをかけたモザイク職人にすぎないのですから。
 これはツイッター上で指摘していた方がいるのですが、どうも師匠は一時期、テポドン東京さんと絡んでいたようなのです。しかし、そうなると上の記述がいよいよ奇妙なモノにはならないでしょうか。
 テポ東氏は「女性が男性を養おうとしないことははっきりしている、ならば男性が働き女性が家を守るという性役割分業を採用する以外に道はないではないか」とはっきり言っている。しかしテラケイ師匠はその論点に「到達」しないために、山の中腹で必死にビバーグを続ける。既に「くぱぁ」している現実に、顔を真っ赤にしてモザイクをかけ続ける。
 今年の前半に採り挙げた、『男性問題から見る現代日本社会』をご記憶でしょうか*4。これは「男の方が損だ」といった言わば「ネット世論」へのアンサーであるかのように帯やまえがきなどに謳われ、しかし一読してみるとそれらを一切踏まえることのない旧態依然としたフェミニズムを諳んじているだけの、トホホな本でした。
 そしてその直後に採り挙げた八田真行師匠のインセル、ミグタウについての記事をご記憶でしょうか*5。インセルについての記事は(女という恵まれた存在に対するルサンチマンから)女性へと復讐しようとする弱者男性を採り挙げ、処刑するという弱き者への憎悪が光った名記事だったのですが、ミグタウを採り挙げるに至り、師匠は「処刑」の口実が見つからず絶句してしまう、という醜態を演じてしまいました。
 これらは、いずれも非常によく似ていると言えないでしょうか。つまり両者とも、フェミニズムというカルトに帰依してきた男性たちの、アテが外れての狼狽ぶりであり、必死の言い訳ぶりの記録として読めるのです(もちろん八田師匠が「インセルはトランプ支持者だ、そうじゃなきゃ嫌だ!!」と泣き叫んでいるように、これはトランプ現象への戸惑いでもあります)。
 テラケイ師匠はそこから一歩だけ先へ進み、インセル(そしてキモくてカネのないおっさん)を肯定した。これそのものは大きな前進かもしれないが、テポ東氏やぼくからは「何か、後からやってきて俺たちの買ってきたおやつの好きなところだけ食い散らかして行ったヤツがいる」ということになってしまうのです*6
 そしてですが、これはまた「男性差別クラスタ」の多くとも「完全に一致」している。テラケイ師匠が提示した問題を解決するに、性役割分業を採用してはならぬというのであれば、「ジェンダーフリーの強硬」という方策を選ぶ以外、恐らく手段がない。本書ではそこまで言っていないので(noteで言ってたらゴメン)、これは想像ですが、『実践する――』を称揚している以上、師匠のスタンスはそうだと考える他はない。しかしこれは端なくも師匠が「男性差別クラスタ」未満の段階に踏み留まっていることを、表しているのです。
「男性差別クラスタ」のジェンダーフリーへの帰依ぶり、その愚かしさについてはここで詳しく繰り返す余裕がありませんが、一つには彼らがひたすら上に向かって口を開け、「まんじゅうをよこせ」と言っている存在である点です。
 テラケイ師匠を赤木智弘氏と並べて批判する向きもありますが、ぼくが赤木氏を(全面肯定ではなくとも)評価するのは、彼のスタンスが「中間層を救うしかなくね?」、つまり「自助しかない」との視点を持っているからです。
 しかしここまで騒がれた本書が、そこまで到達しえず、実のところネット世論の本当に初歩の初歩をホンの触りだけ採り挙げたものにすぎないことは、もはや明らかでしょう。それはまるで、上の『男性問題から見る現代日本社会』や『男子問題の時代?』*7などという幼稚な書が兵頭新児の著書を名前だけあげつらい、(全く中身に踏み込めないままに)否定しているのと、全く同様に。
 いえ、『矛盾社会』はそれらに比べれば、まだマシです。それらに比べ、遙かに問題の本質に踏み込んだ、評価すべき点の多い書です。師匠も或いは単なる天然の、男性に対する悪意などない人物なのかも知れません。
 その意味で師匠は「ギリモザ」職人だったかも知れませんが、しかしそれでも「もう、わかっていることに、モザイクをかけた人」であることに変わりはありません。
 師匠がメディア側に採り挙げられた意味はもう、自明です。師匠が「ネット論壇の旗手」になることで延命される人たちは誰でしょうか?
 つまり、そういうことだったのです。

*4 男性問題から見る現代日本社会
*5 八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む
八田真行「女性を避け、社会とも断絶、米国の非モテが起こす「サイレントテロ」」を読む
*6 ラトビア謙三という方が、以下のようなツイートをしていました。
白饅頭ことテラケイって要はただのお調子者で、その場その場で人気のあるアカウントに取り入って、ヨイショしては言ってる事をパクって、さも自分が昔から考えてましたみたいな顔をずっとしてきたんだよな。批判されても、フェミみたいな弱そうな相手には強く出るが、そうでないなら無責任に逃げ回る(https://twitter.com/c_s8f/status/984986645723103232)

そりゃそうでしょ。テポ東や、エタ風さんのネタ元がウェルベックで、テラケイは、その二人からパクってるだけなんだから、元を辿ればウェルベックに似るだろうね。
(https://twitter.com/c_s8f/status/1063781654253060099)

 他にも「テラケイはテポ東氏やエタ風氏の金魚のフン」といった声もあり、それならば当初の師匠をぼくが評価していたのも、当たり前の話。ウェルベックと言われても知りませんが、どうも自由原理主義に批判的な作家らしく、これまた師匠の主張と一致します。
 しかし同時に謙三氏は以下のようにも言っています。

真面目に批判するなら、テラケイの本は、人々が自由を追い求めすぎた結果、拡張したエゴが世界を縛り始めたという内容らしくて、それ自体は、パクリとはいえ問題提起としてわかるところはある。 しかし、普段は表現の自由戦士として活動していて、そこは本の主張と矛盾してるんだよな

なぜこんな事が起きるかというと、本の主張は、テポ東やエタ風さんからからパクっていて、後半の表現の自由戦士的スタンスは青メガネ氏その他からパクってるからなんだよ。 色んな人の主張をパクってるから、一貫して見れば、彼自身のスタンスは整合していない。
(https://twitter.com/c_s8f/status/1066331461966385152)
 つまり、師匠は一定の理念を持った人物ではなく、その場その場で借り物の思想を振り回しているだけだ、というのです。確かにそのようにでも考えねば、師匠が『実践する――』を盲賛している説明がつきません。
*7 秋だ一番! 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)