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Daily WiLL Online』様で新しい記事が公開されております。
 例の伊是名夏子師匠のさらに師匠筋に当たる安積遊歩師匠というのが、何かすごい人で……。
 さて、しかし今回はちょっと前の記事に絡めて。
 このサブカル問題については前後編で新記事を書き下ろしましたが、それに関連して以前の記事の再掲です。
 サブカルというのが本当にオタク文化のストーカーと化していることが、これでよくおわかりになるのではと思います。
 それともう一つ。アンチフェミアルファのreiさん、わかり手さんがツイキャスで「女災」をテーマにしてくださいました。
https://twitcasting.tv/rei10830349/movie/681022485)を初めに四つの動画に渡って話していただいたようで、上の続きは同サイトの「前の録画」へとリンクされているようです。
 どうぞご覧になってみてください!



*     *     *


ニューゲンロンデンパV3
みんなのマウントシアイ新学期

CHAPTER.6 さよならゲンロンデンパ

 ――僕は寒原軽一(さぶはらかるいち・声:林原めぐみ)。超高校級のサブカル。
 ふと気づくと三刈学園(さぶかるがくえん)へと編入させられ、マウントシアイ新学期を強要されてしまった。
 学園長を名乗るのは、右と左でオタクとサブカルに分かれたクマのぬいぐるみ、サブクマ(声:TARAKO)。
 しかし……最終章であるCHAPTER.6のサブカル裁判において、僕たちは驚くべき真実を知らされてしまった。仲間だと思っていた超高校級の喪女・紐手大多子(ひもておたこ・声:小松未可子)がいきなり、首謀者としての正体を現したのだ――。

大多子「は~~~~い! びっくりした~~!? サブカルエリートを育成する三刈学園。それは実は完全な虚構。“ギフテッド”、“超高校級”というアンタたちの“キャラ設定”も嘘。“自分をサブカルだと思い込んでいる一般人”であるところのアンタたちの右往左往する姿は、超高校級のサブカルロボット・サーブ(声:柿原徹也)のテレビカメラで中継され、視聴者たちから生温かい目で見られていたのでした!
 うぅん、それだけじゃない。そもそも“サブカル”という概念自体が存在しない、虚構のものだったのでした~~~~!!」
軽一「それは違うぞ!!
大多子「どこが違うのかなぁ~~?」
軽一「これだ……! ロマン優光『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』。本書が各所で話題になっていること、それ自体がこの世にサブカルが存在している動かぬ証拠だと言えると思うんだ」
大多子「それはどうかなあ? その本を読むと、何がサブカルかがわかるのかな?」
軽一「そ……それは……」
???「クックックックック……」
 と、話に加わってきたのは軍服に口元を隠した不気味な男。超高校級のオタク史家・苅須田桑椎郎(かるすたくわしいろう・声:鈴村健一)。
苅須田「仮にサブカルについて知識のない者が本書を読んだとして、サブカルとは何ぞやという疑問に答えが出されることはないだろうネ。もちろん、サブカルそのものの定義づけが困難であるのは万人が認めるところだろうけれども、ともあれ著者の優光のサブカル定義は、以下のようなものだヨ」

「町山智浩が編集者として扱ってきたもの、そしてそこから派生してきたもの/その愛好者」
(17p)

「その中で岡田斗司夫が自分たちのものであると主張しなかったもの」
(24p)

大多子「ま、万人が納得するような定義づけは困難だから、『自分の定義ではこうだ』と言われちゃそれまでだけど、優光にとってのサブカルってひたすら“90年代文化”なのよねー。兵頭新児があくまでオタク文化に先行するロック文化、ヒッピームーブメントなど70年代型の文化がサブカルだとした*1のとは真逆だよ」
苅須田「本書ではみうらじゅんもまた、メジャーであるからサブカルではないのだと断言されているけれども、それも彼が80年代を背負っている人だからかも知れないネ」
軽一「ちょ……ちょっと待ってよ。つまり、定義づけが恣意的だとの反論だよね? でも君たちが言うように、優光は文中でそれを認めた上で自分なりの定義をしたのだと断っている。それのどこが悪いの?」
大多子「別に、そこを問題視しているわけじゃないわ。私が言っているのは、『サブカルとは何ぞ』という問いを立てた時、普通なら文化ジャンルとしての区分けを期待するんじゃないかってこと。オタク文化については比較的説明が容易よね、漫画、アニメ、ゲームなど。でも、それではサブカル的コンテンツとは何か、本書で語られていたかしら……?」
軽一「そ……それは……」
苅須田「ほとんどゼロと言ってよかったよネ。“町山が編集したもの”と言っているけどその定義だと、サブカルは単なる町山ファンクラブでしかないし、それは町山が“クリエイトしたもの”ですらない。例外的に語られるのが岡田あーみんの漫画だけれども、そこでもその漫画そのものがサブカルだとは言っていない。むしろ、

(引用者註・岡田は異端そのものだが、しかし)サブカルというのは圧倒的な異端にあこがれ、それを消費するのだけど、自分自身は決してその領域に踏み込めない存在なのだから。
(138p)

 なんて言う始末だヨ。これも詳述されているわけじゃなく、ここでいきなり持ち出されてきた定義だけどネ」
サブクマ「ひゃっひゃっひゃ! まるでストーカーとか覗き野郎みたいですなあ! “異端に共感する”とか称しつつ、自分は常に安全地帯で覗いているだけ!」
軽一「そ……それのどこに問題が……?」
大多子「問題も何も、それが答えよ」
軽一「え?」
大多子「オタクと言う時、それは“人”を指している。言ってみれば人種を指す用語よね。オタクが好むコンテンツは普通、オタク文化と呼ばれる。それに対し、サブカルと言う時、恐らくほとんどの人がコンテンツを指す言葉と思うんじゃないかしら」
軽一「そ……それはまあ……」
大多子「しかし本書ではサブカルコンテンツがほとんど出てこない。サブカルと言う時、ただサブカル文化人の名前のみが出てくる。挙げ句に上のようなストーカー宣言」
軽一「だ……だから、それの何が問題なんだよ?」
大多子「サブカルコンテンツなどというものは実は、ない。サブカルというのは徹頭徹尾人種を指す言葉だってことよ」
苅須田「それはよく言われる、『サブカルはサブカルが好きなのではなくサブカルを好きな自分が好きなのだ』といった評とも相通じてるよネ。また、サブカルとオタクの争いでよく言われる『サブカルが『エヴァ』目当てに入ってきた』といった見方とも一致しているヨ。更に言えば、サブカルが岡田斗司夫を敵視するきっかけとなった(と、一部では言われている)、『オタク学入門』における『サブカルはアメリカ文化の猿マネ』という指摘とも符合しているネ」
大多子「オタクが“人”を指す、サブカルが“コンテンツ”を指す言葉であるはずなのに、実際には逆。オタクはコンテンツが認められ、サブカルにはコンテンツがない――それが私の『サブカルは虚構』という言葉の意味だよ」
軽一「サブカルは虚構……?」
苅須田「そう考えた時、兵頭と岡田、そして優光のロジックのアウフヘーベンが可能になるネ。兵頭や岡田が念頭に置いているであろう70年代文化なりロック文化なりを略称ではないサブカルチャーと位置づけ、それらに独自のアプローチで接している90年代に活動した人たちがサブカルである、と」
サブクマ「うぷぷぷぷ! つまりサブカルってのは実体を持たない幽霊、他人に取り憑いて他人のおこぼれに与るウイルスや寄生虫みたいな存在ってことだよ!!」
苅須田「そこまでは言わなくても、サブカルがコンテンツへの“アプローチ法”、“スタイル”であるということは言えそうだヨ」
軽一「仮にそうだとして……それのどこが悪いって言うの?」
大多子「それ自体は悪くも何ともないわ。でも、それがサブカルの嫌われる原因じゃないかなーって。オタク文化を楽しむまでならいいけど、サブカル流をオタクにまで押しつけようとするんだから。
『間違ったサブカルで「マウンティング」してくる――』はまさそうしたサブカルの欠点を看破した、極めて優れた自己省察的なタイトルよ……惜しむらくは本文はそうじゃないことだけど」
サブクマ「本文では、それについて必死で責任転嫁し、醜悪奇怪な言い訳が繰り返されるばかりでしたなあ!」
軽一「そんな……!」
サブクマ「この本、タイトル以外も章タイトル、節タイトルを見ていると頷けるんですな。『サブカルおじさんの害』とか『なぜサブカルは自分はオタクだと言いたがるのか』とか。私見だけどこの著者、編集者の作った目次案に従って、自分でもよくわかんないままに筆を進めてたんじゃないかなあ……」
軽一「本当にこの本を読んだの!? もし読んでいたら、そんなことは言えないはずだよ。本書は町山氏をこそサブカルの祖としながら、その町山氏への極めて忌憚ない批判がなされているんだ」
大多子「へえ、『町山が水道橋とイチャイチャイチャイチャしている、ボクの愛する町山さんを取るな! 町山さんとチューをするのは俺だ!!』と延々延々ジェラシーを爆発させているだけの、┌(┌^o^)┐ホモォ...な内容(p105、p146)が!?」
軽一「それはお前が腐女子だから、歪んだ見方をしているだけじゃないか! 優光は町山氏が水道橋氏と組むと羽目を外してしまう傾向がある、“若者だから許される悪ふざけを、若者を押しのけてやっている老人”だと批判しているんだ!」
大多子「そう、サブカルには新しい人材の流入が全くない、サブカル全体が高圧的な態度を取る老害になりつつあるとの批判は当を得ていると思うわ。そうした点は、本書の大変に評価できる点ね。でも、本書はその全体が主観的情緒的ゴシップ記事的筆致に貫かれていて、特に町山×水道橋批判はどう見ても恋の鞘当てにしか見えないわね。薄い本が厚くなりそうよ!」
サブクマ「もちろん、腐女子以外から見ればキモい中年男性のキモい嫉妬でしかないんですけどね! いやあ、本当にキモ過ぎますわ、これ!!」
軽一「それは違うぞ!!
大多子「何が違うのかな?」
軽一「そんな言い方はゲイへの差別だ! すべきじゃないよ!!」
大多子「はあ? 確かにリベラル的な考えを妄信するサブカルらしい意見ね。本書でも町山が水道橋との仲のよさを『俺たちホモ関係!』とアピールしているのに、差別だと苦言を呈しているよね。でも同時に、この二人がキスをしたりしているのをキモいと腐してもいる。こうした言動に矛盾を感じずにいる優光の感受性が、私には理解できないわ。町山と水道橋の仲に嫉妬する余りとはいえね」
軽一「優光はちゃんと、いちゃいちゃすることは悪くないが、好意を持ってない者が見たらキモく感じるのだ、と留保をつけているよ!」
大多子「それは好意のない同性同士のいちゃいちゃはキモいってことでしょ? 不誠実な言い逃れだよ」
サブクマ「リベラルの人権派ごっこが、いかにデタラメかがよくわかりますなあ!」
大多子「他にも本書ではサブカルのホモソーシャリティ、ミソジニーを批判する箇所がある(p123)。いちいち『オタクよりはマシだ』と見苦しい言い訳をしつつだけどね」
軽一「で……でも、内省があるだけマシじゃないか!」
大多子「そうかな? この薄っぺらな内省や上の世代への批判は、サブカルの特徴をよく表していると思うわ」
軽一「というと?」
大多子「優光は無批判に、いいことであるようにサブカルを『オタクに比べればリベラルな感じのする』と評している(p124)。でもそのリベラル的価値観は、もはや古びたものであるということ。本書を読む限りサブカルとは沈没しつつあるリベラル船に乗ったまま、あたふたしてる存在にしか見えないってことだよ」
苅須田「それはまさに兵頭の指摘した、左派SF団体が『愛國戰隊大日本』に文句をつけた件*2と相似形だネ」
大多子「優光の町山批判にもそれは見て取れるよね。彼は町山の反原発デモがみっともなかったと批判しているの(p143)。その詳細、自分がどう感じたかについて『前著で書いたので敢えて書きません』と書いた数行後に延々延々、ダラダラダラダラ不満を述べ始めるのが奇観だけど」
サブクマ「ま、デモ自体を非常に格好の悪い、時代遅れなものだというのは一般的な感覚だと思うよ。この恨み言は中学生時代は格好いいと思っていたお兄ちゃんが実はダメダメだったことに対する愛憎を処理できてないって感じだけどね。リベラルがダサいものになっていったことを肌で感じつつ、今更離脱もできず、グダグダグチを垂れながら、『でも悪いのはボクじゃない』って言ってるだけなんですな」
大多子「そう、本書を読んでいて感じるのはお兄ちゃんへの愛憎、濃厚なホモ臭だよ」
軽一「え……?」
大多子「アナタたちサブカル側のレトリックを用いれば“ホモソーシャル”ということになるのかしら」
軽一「そ……それはお前が腐女子だから――!!」
大多子「それはどうかなあ?」
 ――と、大多子の姿が一転、メガネのとっちゃん坊やに変わった。
町山智浩「それは違うよ!! サブカルの本質が“ホモソーシャル”そのものだったんだ。それは優光の著作が何よりも雄弁に物語っているじゃないか」
軽一「そ……それは……って、な……何でお前が町山氏になるんだよ!?」
 ――と、町山が一転、また大多子に……。
大多子「コスプレだよ。コスプレはオタク女子の嗜みでしょ?」
 ――と、今度は岡田斗司夫よりは多少マシな程度のデブに……。
東浩紀「そう、サブカルはコンテンツではなく、データベースを消費するのみの動物化した消費者に過ぎなかった……そしてそんな彼らのホモソシアルなスタイルそのものだったんだよ!」
宇野常寛「兵頭が指摘する通り、ホモソーシャリティそのものが悪だとは言わない。しかしオタクをホモソーシャルだ、ミソジナスだと言い募り、酸鼻を極めるバッシングを執拗に繰り返しておきながら、自分たちこそがホモソーシャリティそのものだというのはいただけないな」
宮台真司「本書の第四章が『カリスマはいなくなった』であるのが象徴的だね。コンテンツではなくカリスマを頂点とするヒエラルキーがサブカルの本質。まさにオタク文化とは相容れない存在だ」
高橋ヨシキ「サブカルって元々そうじゃん。自分たちの方がマッチョなクセに、keyのゲームは障害者をレイプするモノだ、などとデマを撒き散らしたりしてな」
加野瀬未友「それも、自分の子分を手先に使ってね。自分自身の作り上げた人工事実を信じ込み、息を吸って吐くようにデマを垂れ流し、オタクを攻撃する……」
中原昌也「ぎゃーっはっはっはっはっは! それがサブカルか! クールすぎんよ、おい!!」
津田大介「サブカルのホモソーシャリティは、70年代的な若者文化が源流にあるからだろう。あの頃は、アニキに憧れて格好いい若者文化を嗜むことが、少年の成長にシンクロしていた。時代の流れに乗れなかったサブカルは、いまだそれを引きずっていると言えるかも知れないね」
有村悠「彼らはオタクが子供文化に引き籠もっていることが許せなかったんだね。『俺のお稚児さんにならぬとは許せん!』と。本書には岡田斗司夫が利権のため、サブカルとオタクの分断工作を行ったのだと書き立てられているけれど、見事なブーメランだな」
荻上チキ「見ていて奇妙なのは、分断工作をしているのはどう見ても優光自身だということだよ。彼は実に熱心に『○○はサブカルじゃない、××はサブカルじゃない』と繰り返すんだから」
竹熊健太郎「彼の非サブカル認定を読んでいて、例のシーンを思い出したよ。
「男の子もイヤ、パパもママもイヤ、みんな嫌なの。誰も私のこと守ってくれないの。いっしょにいてくれないの。だから一人で生きるの。でもイヤなの。つらいの。一人はイヤ! 一人はイヤ! 一人はイヤ……!!」

 彼の心情は、そんなところだろうね。まさに“Eの呪い”だよ」
斎藤環「自分たちが新たなコンテンツを生み出せなかったからサブカルが衰退したということには目を伏せて、『俺たちに股を開かなかったオタクが悪い』と言われてもね。萌えなど、オタク文化が子供文化からのスピンオフということは精神分析的にも自明だけれども、それってアニキが不甲斐ないからじゃ……」
原田実「そう、サブカルはなかった。あったのは“サブカルしぐさ”だけ。なるほど、サブカルが『オタクは死んだ、オタクは死んだ』と繰り返すのは一種の“偽史”への情熱なんだね。何しろ自分たちは『最初からいなかった』んだから」
後藤和智「サブカルは最初から、間違った若者論によるマウンティングでしかなかったんだ」
町山智浩「そう、サブカルはなかったんだ。フィクションの存在だったんだよ」
軽一「そんなバカな……!」
大多子「ぜーんぶ、フィクションなんだよ。ぜーんぶ、嘘なんだよ。
 今までサブカルがやってきたことは、何もかもぜーんぶ……“嘘”! なんだよ!!」
軽一「それじゃあ……亜仁木田クンが僕に託した……想いも……?」
 ――超高校級の兄貴・亜仁木田保茂郎(あにきだほもろう・声:木村良平)はマウントシアイを阻止しようとして、結果的にクロとなり、散っていった人物。軽一の兄貴分として、今までずっと彼の心の支えとなっていた男だ。
軽一「ラブアパートで僕に優しくしてくれた亜仁木田クン……それも全部嘘だったって言うの!?」

 BAD END

 後編を読みますか? 読む 読まない

■補遺■
 え~と、いらっしゃらないと思いますが、もし後半の文化人連中の名前で検索していらっしゃった方がいたとしたら、一言説明しておきます。これは某ゲームの「悪のボスが今までの善玉キャラに次々変身して(勝手なことをしゃべって)いく」というシーンのパロディなので、余り深く考えないでください。

*1 「サブカルvsオタク」の争いは岡田斗司夫が悪いことにしないと、すごく怒られる件
*2 同上