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東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)(再)
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東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)(再)

2021-08-13 19:50
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     さて、世間の話題がフェミサイドに持っていかれても、相も変わらず『クイックジャパン』問題です。
    『Daily WiLL Online』様でも新しい記事が発表されています。目下五位ですが、より以上の応援を、どうぞよろしくお願いいたします。

     今回記事は前回の続編であり、2010年8月29日に発表したもの。
     ある意味では、十年前に行っても見向きもされなかった主張が今ようやっと、証明されつつあるといった感もあり、感慨深さを感じております。
     では、そういうことで……。

    *     *     *


     ポストモダン評論家の東浩紀センセイが元・2ちゃんねる管理人のひろゆきさんに論破され、逃走した事件がネットを騒がせたことは、記憶に新しいところです。
     ……と言いたいところですが、この件、誰もほとんど騒がないうちに「なかったこと」扱いになっちゃっているようですね。
    「なかったこと」にするのもまた、「逃走」の一種ではあるのですが。
     さて、それでは何故にセンセイはここまで「逃走」がお好きなのか。
     それは別にセンセイがスキゾ・キッズのお弟子さんだからということではもちろん、ありません。
     前回ぼくは東浩紀センセイを、オタクに数々のネガティブなレッテルを貼った犯人である、と申し上げました。はて、それでは彼はどこで、具体的にはオタクをどのように評していたのでしょうか。


     実はセンセイの主著をめくってみた限りにおいては、それは(露骨な形では)発見することができませんでした。あるいは昨今の、「オタクの味方」として売っているセンセイ的には、かつてのそうした発言は黒歴史なのかも知れません。
     あちこち探して、ようやく見つけてきました。雑誌『Quick Japan vol.21』に掲載された「オタクから遠く離れてリターンズ」がそれです。
     センセイはここで

     たとえばコアな男性オタクには、妙な硬派意識があるでしょう。現実の女とチャラチャラ飲みにいったり、イタリア料理食いに行ったりはバカにして、むしろプレステで格ゲーやってるほうが「かっこいい」、みたいなね。エロ同人誌を描いていて硬派とはどういうわけか、僕は長いあいだ謎だった。ホモソシアル、がその答えではないか。
    (189p)


     とおっしゃり、対談相手の伊藤剛さんはそれを受けて

     オタクのコミュニティって、妙に体育会系っぽかったりするもんね。
    (189p)


     と答えています。
     オタクに硬派意識があるとも、オタクのコミュニティが体育会系であるとも、ぼくは長年オタクをやっていて一度も感じたことがないのですが。
     この「ホモソシアル」という用語はやはりフェミニストが作り上げたものなのですが(「ホモソーシャル」と表記するのが一般的ですが、一応、センセイに倣って「ソシアル」で行きます)、ごく簡単に説明しておけば「男性同士のホモセクシュアル的な、しかし性的な意味での同性愛は慎重に排除された連帯」を指します。意味がおわかりにならないかも知れませんが、書いているぼくもよくわかりません。あそこまで女性同士の連帯を重要視する(その割には派閥争いばかりしている)フェミニストたちが、男同士の連帯となると何故否定してしまうのか。伝わってくるのは、専門用語まで作り出して貶めてやろうという、その昏い男性憎悪の情念ばかりです。
     要は自分の努力不足で社会的地位を得ることのできなかったフェミニストが「男同士がつるんでいるのが悪いのだ」と責任転嫁した挙げ句、「けど彼らはホモでもない、ホモ的であるにもかかわらずホモを排除するとはホモへの差別だ」という結論に達してしまった、何と言いますか砂の上に楼閣を力業で十段重ねにしたような、無理やりなリクツというわけですね。  その意味で「ニッポンのミソジニー」における上野千鶴子教授の

     こういう男同士の強い絆を、わたしは長いあいだ、同性愛とかんちがいしていた(引用者註・が、実はそれはホモソシアルだったのだ)。
    (24p)

     という邪気のない告白は実に象徴的です。
     今まで自分の不遇感を「男たちがホモだから」と妄想していたフェミニストたちが、「政治的な正義」を斟酌して、「ホモじゃないのにホモみたいだから」と言い換えた、ただ男たちをキューダンするという目的のためだけに論理的な無理を二重にも三重にも重ねて生まれた奇怪なワード、それがこの「ホモソシアル」なのです。

     この後、東センセイの論調は、「しかし女性のオタクは男性よりも進んでいて素晴らしい(大意)」と展開していきます。とにかく男性性は全て悪であり、女性は全て善というのが大前提なのですから、それも当たり前のことですね。*
     続いてセンセイの言は、オタクはナショナリストだとの(これもよくわからない)方向へと向かいます。要はセンセイにとって「悪」であると認識されるレッテルを、何でもかんでも男性オタクへと貼りつけているだけの動物化した行動のようです。
     この対談の発表された九十年代後半は、まだフェミニズムが学問の世界でかろうじて命脈を保っていました。そんなおり、センセイは取り敢えず男性を叩く「攻撃呪文」として、「ホモソシアル」という単語を深い考えもなく採用したというのが実際のところであり、その延長線上にあるのが今回の発言というわけですね。

    *ホモソシアルがそれほど唾棄すべきものであるなら、その男の友情に憧れている腐女子たちは見下げ果てた最低の女たちのはずですが、東センセイにかかっては

     まさにホモソシアル性をからかう態度だよ。
    (中略)
     そのことを女の子たちは敏感に感じ、それをやおいというかたちで表現して批評していたわけだから、その方が明らかに認識は高い。
    (189p)

     と解釈されてしまいます。
     この人、会社勤めでもして社長の悪趣味なネクタイを誉めてた方が、ご自身のスキルを発揮できるんじゃないでしょうか。

     今回の騒動において、東センセイはひろゆきさんの「処女厨はオタクに限らない」との指摘に言葉を失い、慌てて逃走しました。
     この対談でもセンセイは

     いきなり論壇人みたいになっちゃうけど(笑)、オタクの行動はその意味で、日本社会の醜さを凝縮している。しかし彼らはそれでいいわけ?
    (188p)

     日本の「悪い場所」を一番象徴しているのは、明らかにオタクだよね。
    (191p)

     と繰り返しています。
     つまり彼は自らの言説が、実は男性に(上の場合は「日本人」という括りですが)普遍的に当てはまることに気づいていて、しかしそれをオタクという特定の人種を叩く口実にするために、「オタクにはそれが一番悪い形で現れているのだ」と言い訳しているという順序になっているわけですね。
     しかし本当に日本人の、男性の中でもオタクが一番悪いのか、それを論証するだけの力はセンセイには、ない(というかそんな実態は、ない)。
     だからちょっと批判を受けると、センセイは小動物化してあたふたと逃走するより他、ないわけです。
     今回の騒動は、巷に溢れる――いいえ、センセイが悪意を持って世間に流布した――「オタクはマッチョ/ホモソーシャル/ミソジニーである」言説に根拠がなかったことが証明された、記念すべきモニュメントになったということですね。
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