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『ポルノウォッチング』ウォッチング(再)
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『ポルノウォッチング』ウォッチング(再)

2021-11-05 19:20
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     久し振りに再掲記事です。
     忙しいので、もう後は使い回しでお茶を濁して年を越したいところなのですが……。
     ともあれ、本記事は『Daily WiLL Online』様で書かせていただいた記事にも登場した、「行動する女たちの会」の著作についてのもの。2015/08/19に書かれた記事になります。
     これを見ていくことで、「表現の自由クラスタ」も支持する「真のフェミ」がどのようなものか、よくおわかりいただけましょう。
     では、そういうことで……。

    *     *     *

     さて、「行動する女たちの会」というのは1975年に結成され、ハウスシャンメンの「私作る人、ぼく食べる人」というCMを「性役割固定を促す」として放映を中止に追い込み、それ以降も1996年に解散するまで類似の活動を続けた悪名高い団体。そんなわけで本書の内容も専ら彼女らの抗議行動の実際、またそのノウハウなどについてです。

     同会、そして本書については当ブログでも時々言及しており、

     ポルノを見れるのかとドキドキワクワクしながら読んでみたのですが、期待に反して取り扱われているのは主にスポーツ紙、電車の中刷り広告など。
    (中略)
     完全にタイトル詐欺です。
     この時の期待を裏切られたことに対する深い深い怒りが、ぼくのフェミニズム批判の原動力になっていることは言うまでもありません。


     などとギャグにしておりました*1
     が、ここで敢えて弁護するならば、本書にも再三書かれる通り、彼女らのスタンスは「嫌なら読まなければいいポルノ雑誌と異なり、駅や車内で嫌でも目にしなければならない広告やスポーツ紙の紙面こそが問題だ」といったものであり、それはそれで、それなりに筋が通っています。
     また、彼女らの抗議対象も明らかにレイプを想像させる(あくまで暗示させる、ですが)ポスター、バトミントンの女子選手にスコート着用を義務づけたスポーツ協会など、確かによくないなあと思わせるものもあります。
     ただし、とは言え、では彼女らがゾーニングされたポルノであれば認めるのかとなると、むろんそういうわけでは全くありませんし(ここは後に詳述します)、抗議対象も大多数は「プールの広告に使われた女性の(別に過激とも思えない)水着姿」など、一体全体どこがどうしてどのようにどれだけ問題なのかが全くわからないもの。(どう考えても性的要素はほとんどない)女性のハイヒールを履いた下半身に怒っている御仁もおり、どうも彼女らは「顔のない切り離された女性の肉体」に殊更過敏に反応するようです。その心理はわからないでもありませんが、さっぱりわかりません
     さて、企業側の反応は……ただただ平身低頭しているだけかと言うと(何しろ当時は「黒人差別だ!」などと糾弾を受け、『オバQ』などが回収されていた時代ですから、きっとそうだったのだろうと想像していたのですが)、さに非ず。彼女らの抗議に屈せず水着ポスターの撤回を拒む(どころか、その翌年も懲りずに採用)する会社、また彼女らの集会に呼び出され、丁寧な態度で「勉強させていただきました」と一礼する編集者などもおり、いずれも立派な態度と言えましょう*2
    「男性ジャーナリストのおなじみリアクション」という章では、自分たちを週刊誌が嘲笑的に採り挙げたことについて怒り狂っておいでですが、ここを見ると当時はジャーナリズム側もフェミニズムにカウンターパンチを繰り出す気概があったことがわかります*3

    *1 『朝日新聞』3月1日朝刊「アートか「児童ポルノ」か挑発的な美術展」
    *2 笑ってしまうのは彼女らが後者の編集者の態度にご満悦で「部内でもピンク記事を嫌う編集者は多いのでは」などと漏らす下りで、何というかもこっちがコンビニのイケメン店員に話しかける口実のためにクレームを持っていく……といった場面をつい、想像してしまいます。
    *3 これがいつからフェミニズム批判が完全タブーになってしまったのか……となると、想像の域を出ませんが、この直後、「ジェンダーフリー」とか言い出した頃からではないかと思います。セクシャルマイノリティを担ぎ出したり、「ジェンダー」という新概念を提出したりで、この当時のフェミは何とはなしに知的な印象をまとっていました。これ以降、似非インテリ男性はフェミに完全敗北してしまったのではないでしょうか。

    「人は男に生まれない」、「チカン誘発? 銀行ポスター」と題された各章では、彼女らの「アンチポルノ集会」的なイベントで行われた(センスのない*4)寸劇の記録が掲載されています。
     前者では(電車の中でスポーツ紙を読むことへの批判のハズが)ポルノを読んでいた男が女学生に痴漢するといったお芝居がなされ、「純真な少年が男性支配社会の価値観に洗脳され、ポルノ脳の大人となる」過程が描かれます。ガキなんざ大人以上にエロが大好きなものですけど、まあ彼女らは接する機会もないでしょうし、わからないのでしょう。
     後者の裁判風コントは更にものすごく、痴漢容疑の被告が「エロポスターを見て刺激された」と主張します。しかも呆れたことに、弁護人に「ポスターと痴漢行為に因果関係はない」と言わせておいて、検事にそれを否定させるという徹底ぶり。弁護人は被害者女性の服装にこそ原因を求めようとするのですが、裁判長は検事の「そのことは本件とは関係ありません」との主張を受け容れます。
     いや……痴漢行為の事前に見たポスターにのみ影響を受け、被害者の容姿には影響を受けなかったってのはあり得ないと思うんですが……また、ポスターが影響を与えたからポスターが悪いのだ、とのリクツが通るなら、「女性の服装が悪い」と言われても文句は言えないはずです。このムチャクチャな詭弁は、フェミニズムのダブルスタンダードを実にわかりやすく露呈しています。
     大体、被告の罪を軽くするのが目的である弁護人が、こんなことを主張する理由がさっぱりわかりません。
     続いて、被告がポスターの女性に心奪われたことを吐露する様が極めて執拗に描かれます。が、見ていて「あぁ、フェミニストたちは男性にそこまで女体に惹かれる存在であって欲しいと切望しているのだな」以上の感想を持てません。彼女らが騒ぐようなポスターを見て、強く欲望を喚起されるようなウブな男など、ぼくにはいないように思われるのですが。
     一方、検事は被告に対し、事件当日「OLに意地悪をされ(て女性に腹を立ててい)たのではないか」「『東スポ』『ザ・レイプマン』を読んだのではないか」「他にも貼られていた車内のエロポスターを見ていたのではないか」と執拗に執拗に固有名詞を上げて尋問します。被告は「いや、そんなモノは見ていない、俳句を捻っていたのだから」と否認するのですが、検事は

     俳句を作っていた! 陪審員のみなさん、今の言葉が信用できますか? 俳句など、なんの証拠もありません。
    (110p)


     と絶叫します。
     お間違えのないよう念を押しておきますが、「被告が俳句をひねっていたので痴漢はしていないと否認」というシーンではありません。まず被告は痴漢の容疑を認めており、検事は「その行為の直前にポスターなどを見ていたのだろう」としつこくしつこく尋問を続けているのです。
     恐ろしいですね。
     そんなことどうでもいい上に、ここまで高圧的に被告の弁を否定する理由がさっぱりわかりません。まるで無罪の証拠が提示できない以上、有罪であるとの目下の性犯罪に対する司法のあり方を、見事に予言しているかのように読めます。いや、原因がフェミニスト自身にある以上、「予言」ではなく「犯行予告」ですか。
     検事はついにはポスターの制作者を証人として担ぎ出し、いきなり社内に女性差別があるのだろうと弾劾し始めます
     一体全体どうして、痴漢と性的表現を、そこまで結びつけたいのでしょう?
     ……ひょっとして女性の痴漢被害を救済することなどどうでもよくて、ポルノを見る男は全員死刑にせよ! とか思ってます?
     結局、フェミニストのリクツでは「ポルノは女性憎悪のメッセージであり、それが性犯罪を誘発する/しかし生の女体にはそうしたメッセージ性はない」という(奇妙奇天烈摩訶不思議な)ハナシにならざるを得ないのですね。ドウォーキンが「ポルノはテキスト、レイプは実践」と言っている通りです。もっともそのリクツなら「男の性的欲望」を内包したメイド服などで街を歩いている女性は、女性差別なのだから取り締まるべきだと思うのですが。
     結局、「男性支配社会のおぞましい価値観を風刺する寸劇」であるはずが、「フェミニズムの偏狭で支離滅裂な理論を露呈するコント」になってしまっています。

    *4 この種のイデオロギー先行のギャグって、基本センスがなく、また下品極まりないことが多いですよね。

    「ハウツー抗議」の章を見てみると、タイトル通り読者に抗議法を伝授し、不快なポスターなどに抗議の葉書や電話をしろと唆しています。
     オランダのフェミニズム団体の「ダウンタウンでムカつくポスターを見る度、バケツに用意した赤ペンキを片っ端から塗りたくる」という「抗議」方法を「果敢で素敵な行動」と絶賛、「オフィスでのセクハラポスターを取り下げさせる方法」的なページでは「本命よりも話しやすい人物をスケープゴートにして目的を達成する」ことが推奨されています。

     こういうときは、言葉は悪いが、「スケープゴート」作戦に限る。ほら、ひとりくらいはいるでしょ、たいていの職場には。女性の同僚に構ってほしくてしょうがないというタイプ。ポンポン言っても平気って人が。
    (158p)


     そうした相手を

     「こんなの貼ったの、どうせ○○さんね。貼りたきゃ、自分の部屋だけにしといてよね」


     などと罵りつつ、ポスターを剥がすのだそうです。
     普通に冤罪のススメですし、「女性の同僚に構ってほしくてしょうがないというタイプ。ポンポン言っても平気って人」の具体的イメージがぼくには浮かばないのですが、こうしたことが許されるということはこっちが「男性に構って欲しくてしょうがないタイプ」認定した女性には、ポンポンとセクハラ発言をしても許されるんでしょうかね。いずれにせよ、「女性の同僚に構ってほしくてしょうがないというタイプ」がどれだけいるのかは知りませんが、彼女らには構われたくないし、どちらかと言えば彼女らこそが「男性に構ってほしくてしょうがないというタイプ」に、ぼくには見えるのですが……。
     ついにはこんなことまで言い出します。

     月めくりになってるヌードカレンダーだったら、ペーパーボンドでシワひとつ作らず翌月以降の分をのりづけしちゃうなんてのもアイデア。月末が楽しみです。
    (158p)


     単なる器物破損です(まあポスターをペンキで潰すこともそうですが)。オタクが萌えアニメのカレンダーでこれやられたら、怒り狂って訴えることでしょうな。
     ちなみに本書にはこんなものも登場します。

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     街でイヤなポスターを見かけたらペタッ!
     車内で鼻先にポルノをつきつけてくる男にペタッ!
     定期入れや手帳の表紙に、オフィスの机結愛事務用品に貼って意思表示。
    (中略)
     黒抜きと白抜きがそれぞれ五枚ずつ、一〇枚一セットで二〇〇円は安い!(もちろん、消費税は永久にいただきません)
    (144p)


     或いはギャグ企画かとも思ったのですが、どうもホンキっぽいですよね。売ってたのかなあ……。

     呆れながら「男性ジャーナリストのおなじみリアクション」の章をもう一度見てみると、更に更に呆れます。『朝日ジャーナル』に「性描写が性犯罪につながると単純な主張をした団体」と揶揄されたことに対し、「そんなことは言っていない!」と憤る下りがあるのです。『朝ジャ』への抗議文も掲載されていますが、そこには「私たちは表現の規制を求めているのではない」との一文が。
     どう考えても言ってるやろ、求めてるやろとしか、言いようがないと思うのですが。
     それとも、今までの運動の成果は「相手が心から納得し、自分たちに賛同の意を表し、広告を取りやめた」モノばかりであると心の底から信じ切ってるのかなあ?
     いや、きっとそうなのでしょう。
     事実、上の「*2」含め、本書には抗議をした相手が絶句したりするのを、「自分への賛意」であると曲解する下りが度々出てきます。
     ジェンダーフリーなどを見てもわかる通り彼女らラディカルフェミニスト(即ち、日本の全フェミニスト)の目標は、人間の性意識を根底から覆すことなのですから、彼女らの行動を彼女らの理念に照らしあわせて矛盾のないモノにするには、そう考える他ないわけです。
     しかしいずれにせよ、ポルノを守り、自民党と戦う正義の味方には全く賛同されないでしょうね……と思っていたら。
    『マンガはなぜ規制されるのか』の著者である長岡義幸師匠は当会を、「彼女らも公的規制反対を唱えている」と持ち上げていらっしゃいました*5
     一体全体どうして、彼ら彼女らはこんな大ウソを平然とつけるのか、不思議としか言いようがありませんが、以下のような言い訳が出て来るに至って、ホンネが明らかになります。

     「言論表現の自由」という言葉は権力による規制と闘うときに使うものとばかり思っていた。
    (p135)


     つまり自分たちは権力を持たないのでいくら規制をしてもいい、というのが彼女らの考えなのです。
     本書全般でなされている彼女らの言い訳は、二種に大別できます。
     1.そもそも天皇崩御の際の「自粛」はどうなる
     2.我々はマイノリティであり、影響力などない
     とてもマジメに考えているとは思えませんね。いや、ご当人たちは大マジメなのでしょうが。1.は90年という出版年を象徴する回答ですが、典型的な話のすり替えですし、2.に至っては実際にポスターなどを撤去させ、更には「社会の性意識をも変えよう」としている人たちの言としてはギャグにもなりません。それとも彼女らは自分たちの運動が成功することはないと確信しながら、活動していたのでしょうか。だとしても、事実彼女らは社会を変えてしまったわけで、それに対して、どう考えているのでしょうか。
     こうした「私は官能作家だから議論に窮すると相手の男性にセクハラを仕掛けて逃げてもいいのだ」というのと同種の「自分は弱者なのだから何をやってもいいのだ」といった甘えほど醜いモノはありませんが、一体全体どうしたことか、これを一定層の人たちは「勇ましい女傑の振るまい」として妄賛するのですね。ちなみに「妄賛」という言葉は今、ぼくが作りました
     これら言動を総合すると、「行動する女たちの会」と彼女らを「表現の自由の味方」と持ち上げ続けるオタク界のトップの人たちの真意は、もう明らかではないでしょうか。
     彼ら彼女らは、「表現の規制」は確かに求めていない。
     求めているのは「人間の内面の自由の規制」なのです。
     ぼくたちはそのことを、しっかり心に留めておきましょう。

    *5

     

    *     *     *

     ――以上です。
    『WiLL』様の記事をまだ未読の方は、是非ご一読ください。
    「オタクコンテンツを守りたい」と考えるのならば「表現の自由クラスタ」は信頼するに足りないと言うことが、おわかりになろうかと思います。

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