• このエントリーをはてなブックマークに追加
ぼくたちの好きな性と文化の革命(再)
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

ぼくたちの好きな性と文化の革命(再)

2022-01-07 19:42
    63b8428d188888c4eea74bb9b06d3080d6b23388


     何か忙しいです。
     今年初の更新になりますが、早速採録です。
     実は土曜にまた『WiLL』様で記事が掲載される予定ですので、まずはそちらをごひいきにしていただければ幸いです。
     こちらは今回も、ここしばらく採り挙げているLGBT問題に関係した文章の採録です。
     わかりにくい言い回しなどを変えている他は、基本初出(2013年9月7日)と同じです。
     では、そういうことで……。

    *     *     *

     少し前、蔦森樹師匠がホメオパシーの人になっていた件が、ごく一部の人々に反響を巻き起こしました。
     喩えるのならば下町の定食屋のテーブルに置かれたお冷やのコップの中で発生した嵐、とでもいった規模でしょうか。

     ――おい待て兵頭、そもそもホメオパシーって何だ?

     はいはい、ごく簡単に申し上げますと、要するに「科学的根拠のないおまじない」です。
     ちなみに師匠は現在では「蔦森かおり」と名を変えているとのことで、その名前でググるとどうやらペーパーラジオニクスにもご執心の様子。「ラジオニクス」とはやはり「科学的根拠のない医療装置」を総称する言葉なのですが、「ペーパーラジオニクス」はその医療装置の回路図を絵に描くだけでも効果を発揮するのだ、との考え方であり、そもそもがガラクタでしかないものを紙に描いたからといって効を奏するはずもありません。やはり一種のおまじないで、発想の根底には「お札」のイメージがあるのかも知れません。

     ――いや……その前にその蔦森何ちゃらって何モンだよ?

     はいはい、ごく簡単に申し上げますと、要するに「90年代型ミサンドリー型メンズリブを唱えていた御仁」です。
     彼は男である自分に嫌気がさしてオカマになり、当時ちょっとだけはやったメンズリブ運動に身を投じ、トランスジェンダー(性別越境)を盛んに唱えていたのです。
     師匠のトランスジェンダーとしての処女作は『男だってきれいになりたい』というもので、当時の男の子たちがおしゃれになった傾向を絶賛し、「女装したっていいじゃないか」と説く本でした。
     しかしこの本については、ぼくも当時読んでいて、実のところそれほどに悪い読後感は持ちませんでした。というのも、彼の眼差しはあくまで男の子への愛の籠もったものであり、

     女の子は“男並み”にしてもいいし“女並み”の逃げ道も持っている。

     だって産む産まないに関わらず、子供をつくる能力って女の誰にもあるんだからね。努力したり改造して能力持ったわけじゃないんだからね。
    (中略)
    そのあたりまえなことをこんなに強調して美しいものにして、あげくのはてに、ただのあたりまえの身体を持つ自分にうっとりして「女は、母は、特別な存在なのよ」って自覚するんだ。
    (中略)
     やめてほしい!! 特に男の子のこと考えたら、今すぐにでもその口を永遠に閉じろ!!


     といった挑発的な言葉が並んでいます。
     今読み返してもちょっと驚くほどで、「いいこと言うなあ」と思うのですが、不思議なのはそこまで言っておきながら、師匠は結局、

     そこまで持ってきてくれたのはフェミニズム(女性運動)やった女の人の努力だから、男の子、そのことにありがとうって言っても、言いすぎたり媚びたりしてること、ないよ。


     などとフェミニズムへの感謝を要求し出すことです。「そこまで持ってきてくれたのは」というのは要するに過剰な(ものであると彼が考える)男らしさをフェミニズムが批判したこと、なのですが、いや、「男らしさは全て悪いことと過剰に決めつけた」のがフェミニズムでしょうに。
     事実、彼はこの数年後、『はじめて語るメンズリブ批評』のまえがきで

     だがその一方では、ジェンダーの公正化への推進過程でフェミニズムの活動から「男であること」を糾弾され、男性という地位や名誉を損なわれた、「悪者にされた」という反発の動機からの、反フェミニズム的、もしくは反ジェンダーフリーの色合いの濃いものや、弱くなった「男らしさ」にかつを入れ、ジェンダーの不公正の解消を目指さずに「父権」を強めることで、男の立場を復権させようというものもある。
     それらの心の原動力は、「男らしくない」ことへの恐れではないかと思う。
    「正しい男」は強く立派で尊敬を受けることが普通なはずだ、という呪文に逆に脅迫されている。編者としてそれらの存在があることを認めるが、これをメンズリブだと肯定する気持ちにはとうていなれない。リブではなく「男らしさの問題」そのものだと思う。


     などと書いています。
    『男だって――』も見ていけばいわゆる古いタイプなマッチョ男性へは憎悪の感情をぶつけていますし、上の女性へのラディカルな批判は要するに「オカマの、女への羨望故の憎悪」であるとわかります。
     となると男の子への愛に満ちた視線も実のところ、「男らしさを忌避する草食系男子」が最初から想定されているからこそだということは、明らかです。上でフェミニズムへの感謝を要求しているのもそういうことで、師匠の頭の中では最初っから「男の子たちは男らしさに疲弊している、そこから解放されて女の子みたいになりたいはずだ」との幼稚な思い込みでいっぱいなのでしょう(当時、男性がスカートを穿くファッションがちょっとだけはやっていたようでもあります)。
     そうなるともう、彼の男の子への愛も「ホモの上司が妙に優しくしてくる」のといっしょで、「こっちからするとノーサンキューな部分」にのみ注がれているということなのですな。
     結局、90年代型メンズリブとは、こうした男性への憎悪感情そのものでした。
     彼らにとってフェミニズムへの批判はハナから認めることはできず、「男らしさ」とは問答無用で悪なのです。
     このまえがきは

     そこで今回の編集では、メンズリブを、自分という「男性」以外のすベての他人の「性」(女性、同性愛男性・女性、インターセクシュアル、トランスジェンダー、トランスセクシュアルなどを含めた)にも、そして周縁に追いやられているすべての人にも、尊厳と公正を認めようと模索する、男性のための当事者運動と広義にとらえた


     と続きますが、「男性」運動を女性やセクシャルマイノリティのための運動であると解釈することのどこが「広義にとらえ」られているのかさっぱりわかりません。と言うか、そんなの「今回はトカゲもほ乳類であると広義にとらえた」と言っているようなものです。要するに彼にとってのメンズリブとは、「女性やセクシャルマイノリティへの謝罪と賠償」そのものなのでしょう。
     彼らのコミュニティではトランスセクシュアル、トランスジェンダーの人々を崇め奉り、トランスセクシュアル、トランスジェンダーの人々は女性ジェンダーを身につけた自分を誇示する、といった傾向が大変に強かったように思います。
     そこでこそ「俺たち選ばれし者だけが正しい男であり、他の男どもはクズだ」とのまさに醜い「マチズモ」が発露されているのですが、彼らはどういうわけか、そうした格好の悪い自分たちの振る舞いには驚くほどに無自覚です。
     何でも、師匠はオカマになる前にバイクについての著作があるそうで、ここからはマッチョな男がそんな自分から逃避するために、当時「ナウい思想」であるともてはやされたトランスジェンダーにハマった、といった構図が見えてきます。
     師匠の自伝的な著作『男でもなく女でもなく』のラストではUFOを見てしまう下りがあり、当時は「あぁ、『まんが道』のラストといっしょで一種の象徴的表現なんだろうな」と思っていたのが、今にしてみれば何とも示唆的だなあと、思い返してみると感慨深いものがあります。「悪い意味でのピュアさ」「選民思想」を持った師匠がオカルトへと足を踏み入れるのは、もう必然だったと言えるかも知れません。

     さて、翻って昨今の「男性差別クラスタ」はどうでしょうか。
     彼らは(当たり前ですが)一枚岩ではなく、理論的支柱があるとは言い難いのですが、多くはこの時期の「メンズリブ」のリピートであるように、ぼくには思われます。
     彼らを分類すると、

     1.ドクター差別のように、「身体を動かすことで何となくキモチヨクなってしまう」体育会系タイプ
     2.「とにかく『女死ね!』と口走っていると何となくキモチヨクなってしまう」DQNタイプ
     3.「左派寄りのロジックをそらんじていると何となくキモチヨクなってしまう」亜インテリタイプ

     と、大まかに分ければこのように分類できるように思います。
    (右派のアンチフェミ派もいますが、あんまり「男性差別云々」は言わない気がします。ぼくが知らないだけかも知れませんが)
     結局、ネット上などでも(一応の意味の持った)言葉を発し続けているのはこの3.ということになるでしょうか。
     彼らのキーワードは察するに「弱者男性」ということになるように思います。
    「弱者男性は女性より不利だぞ」というのがその主訴のようで、労働・経済問題が根底にある、タイムリーといえばタイムリーだけれども、ぼくからするとあんまり興味の持てない問いかけであるように思えます。90年代であれば「ジェンダー」という「ナウい思想」にハマっていたであろう御仁が、今では「労働問題」という「ナウいトピック」にハマっているだけなのでは、とぼくには思えるのです。
     実はここしばらく、こうした人たち幾人かと少し話をして、そして残念ながら残念であったというオチがつき、togetterにまとめるという機会を持ちました。
     以下はそれを下敷きに書いていくことにします。最低限の説明はしますが、興味を持たれた方は「「我こそはオタクなり」と絶叫する人たち」をご覧になってみてください。
     例えばsyuu_chanという人物。彼は「男性全体が女性に不利益を押しつけている」との声に対して

    何が『男性社会』だよ、バカ。ちゃんと『新自由主義の勝ち組とゴリ保守の爺婆が共謀して作ってる社会』と書け。弱者男性もその『男性社会』の共謀者だというのか、ふざけんな。
    https://twitter.com/syuu_chan/status/376178880723165184


     とおっしゃっているのですが*1本人はジェンダーフリー論者。
     そして本業はエロゲのシナリオライターでいらっしゃるにもかかわらずどういうわけか、

     おたくが綺麗な統制社会を目指すなら、俺はおたくで無くてもいい。むしろおたくを殺す側に回ってやる。俺はおたく文化が守れればそれでいいんで、綺麗な統制社会を目指すようなクソ人種なんか守る気はない。殺せ。
    https://twitter.com/syuu_chan/status/375092499317944320


     とまで言うほどの、重篤なオタク憎悪に取り憑かれた御仁なのです。
     そもそもこの、「おたくがきれいな統制社会を目指す」という前提が既に理解不能なのですが、彼の中のオタクへの殺戮したいほどの憎悪を正当化するためには、「おたくはそうでなければならない」のでしょう。
     ぼくがtogetterにまとめた後も、ご本人は確信犯で特に弁明する必要も感じていらっしゃらないご様子。
     こういう人が「弱者男性云々」と口走るのだから、恐れ入ります。

    *1彼は「いつから男女って階級闘争になってる?」とも言いますが、いや、それはフェミが出てきてからですって。

     もう一人、BeMIX93という人物。彼もまた「表現の自由クラスタ」であると同時に「男性差別クラスタ」ですが、syuu_chanに唱和し、

    前RT2つ オタクでありながらネトウヨ…ていうか自民党信者ってのはオタクと認めたくないけどな。嫌いな言葉だけど、「オタクの風上にも置けない」って奴だよ。国による統制とか規制とかを望んでいる、またはオタク文化より自分のメンツを優先している時点で2次元への愛に欠けているから。


     とまで言うほどに偏向した思想の主です。
     彼は

    上野千鶴子さんについては、以前はともかく、今は私は表現規制やポルノ規制に反対しているという一点のみを評価し、それ以外はまったく評価しておりません。


     と自称しますが、ぼくが上野師匠が売買春を全否定していること(売買春を否定してポルノは肯定というのはおかしいでしょう)を指摘しても、その矛盾には気づかず、こちらを罵倒し、或いは恫喝してくるのみ(彼の幼稚すぎる対応は大いに笑えるので、是非togetterの方をご覧になってみてください)。
     いや、確かに彼は「ジェンダーフリーの押しつけ」を腐すようなつぶやきをしていたこともあり、それなりにフェミニズムに対する懐疑精神を持っていることは恐らく、嘘ではないでしょう。
     が、それにもかかわらず上野師匠の矛盾を全力でスルーするというのは、平仄にあわない。
     こうして見るとsyuu_chanもBeMIX93も蔦森師匠同様、「悪い意味でのピュアさ」「選民思想」を持った、オカルトへと片足を突っ込んだ御仁であることがわかります。

     あくまで想像ですが、BeMIX93の矛盾した振る舞いは、結構大きな意味を持っているように思います。
     実はここしばらく、「ツイッターでフェミニストに対して批判的なことを言っている人たちがいたので、調子に乗って唱和したらいきなり叱られたでござる」という機会を何度か持ちました。
     蔦森師匠を思い出してください。
     もしぼくが彼の『男だって――』を読み、「我が意を得たり」とばかりにフェミニズムを批判した内容の手紙を彼に書き送っていたらやはり、同じような事態が起こることが想像できるのではないでしょうか。
     彼らの、フェミニズムに対するツンデレ的ヤンデレ的感情の本質は、一体何なのか。
     ぼくは度々、「女災」の原因はフェミニストそれ自体ではない、と書いてきました。フェミニズムそれ自体をラスボスであると考えるのは適切ではないと。
     しかし、それはこう言い換えられるかも知れません。

    「ラスボスは、フェミニズムに心惹かれてしまうぼくたちの弱さそのものである」。

     少し先走りました。
     順を追って説明します。
     彼らの幼稚で不可解な言動の原因は、どこにあるのでしょう。
     考えればそれほど難しいことではありません。
     左派である彼らにしてみると、フェミニストは仲間内でそれなりの勢力と権力を持っている一派です。それに対して胡散臭いものを感じてはいても、真っ正面から否定するのは憚られる。
     結果、彼らが「男性差別云々」などと主張する時はどうにも不自然な論理展開を辿らざるを得ない。
     ゴッドマンに出てくる怪獣が貴重なセットを壊さないように大暴れしている*2ような、そんな何かに遠慮した暴れ方しかできない。
     BeMIX93は上野師匠について「表現規制やポルノ規制に反対しているという一点のみを評価し」ている、と表明していますが、その「反対している」というポーズに欺瞞があるのだというぼくの指摘を受け容れることができずにいるのだから、それは嘘としか言いようがない。むしろ、「何とか上野師匠をアリにするため」に「いや、上野師匠は問題もあるが、それでもポルノ規制には反対しているのだ」という幻想にしがみつこうとしている、と考えた方が理屈にあう。
     想像するに蔦森師匠は「意識の上でも親フェミ派」、BeMIX93は「意識の上では反フェミ派」といった違いはあるのでしょうが、両者とも実はフェミニストに頭が上がらない事情を抱えているわけです。
     彼のブログを見ると反ポルノ派を批判し、

    「子供に性的欲求を抱くこと自体が許せない」、「ポルノは女性蔑視である」(ラディカル・フェミニズム)、
    (中略)
    …元になる思想は様々ですが、共通しているのは「自分たちの思想を国民全員に強制したい」という強い欲求があることです。


     と書かれていますが(自分たちの思想を他者に強制したいという強い欲求があるのは彼自身の方であるように思うのですが)、この「ラディカルフェミニズム悪者論」こそが、何とかフェミニズムの一部だけでも延命させたい「表現の自由クラスタ」がでっち上げたデマであるようにも思えます*3

    *2『行け!ゴッドマン』。低予算のため、怪獣は貴重なセットを壊さないよう細心の注意を払って暴れ回るという、妙な番組でした。
    *3そもそも上野千鶴子師匠自身がラディカルフェミニストであるのを、昨今、「表現の自由クラスタ」は間違った認識の下、(或いは意図的にデマを流し)上野師匠はオタクの味方、ラディカルフェミニストこそが敵だ、と実に奇妙なプロパガンダを繰り返しています。これについては「2012年女災10大ニュース」の第2位を参照。

     ――さて、何だか疲れたのでそろそろまとめに入ります。
     togetterの方でもさんざん左派を腐していますが、しかし「左派」を「反体制」と考えるならば、それそのものは否定するべきものではないでしょう。労組が反原発運動とかやってないで駆け込んでくる失業者の雇用について真摯に取り組んでいるのであれば、それは存在価値があるはずです。
     が、こと「女災」問題についてはこうした「左派」的なスタンスには賛成できない。
     何故か。
     少なくとも彼ら「男性差別クラスタ」を見ている限り、「弱者男性」というカテゴリを作り上げ、「弱者仲間」でつるんでフェミニストたちが「体制」とやらからかすめ取ったおまんじゅうを更にかすめ取ろう、或いは彼女らに手もみをすることでご相伴にあずかろう、といったことしか考えていないからです。
     そしてその時には必ず、彼ら自称「弱者男性」よりも弱い者が仮想的な悪者にされ、スケープゴートになるのです。蔦森師匠の不可解極まる「メンズリブ」の定義、そしてsyuu_chanやBeMIXの半狂乱のオタクへの憎悪がどういう理由によるものかを考えた時、それは明らかになるでしょう。
     上に、「ラスボスは、フェミニズムに心惹かれてしまうぼくたちの弱さそのものである」と書きました。
     しかしそれを更に言い換えれば、

    「ラスボスは、差別と言うお題目を唱えればいいことがあると考えるぼくたちの弱さそのものである」。


     となるのかも知れません。
     ぼくたちは恐らく、「サベツ利権」にはあずかれないし、あずかるべきでもない。
     万が一、あずかれる時は恐らく、蔦森師匠が行ったように、「サベツ界の先輩」であるフェミニストたちにカステラを届ける羽目に陥る。
     しかしカステラを贈って彼女らのご相伴にあずかっても、それって実は税金だし、その税金はぼくたちの稼いだお金から出ている。
     だとしたらやっぱりそれって、ムダじゃあないでしょうか?

    ■補遺■
     ぼくは今回、蔦森師匠がホメオパシーにハマったのを皮肉り、

    「悪い意味でのピュアさ」「選民思想」を持った師匠がオカルトへと足を踏み入れるのは、もう必然だったと言えるかも知れません。

     と書きました。
     が、これは「オカルト信奉者は悪人」と言っているようにも取れ、少し軽率でした。
     オカルト信奉者にはタチの悪い人が多いという印象を、ぼくも持ってはいるのですが、恐らく末端の「信者」は無害な人が多いのではないでしょうか。
     しばしばフェミニズムに親和的な人がオカルトに過剰な憎悪を燃やしているのを見ていて、ぼくはどうにも不思議な気がするのですが(彼らは女性が占い好きなことをどう考えているのだろう?)。
    コメントを書く
    コメントをするにはログインして下さい。