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  目下、『WiLL Online』様でジャニーズの例の問題を扱った記事を掲載していただいています。

 当noteをご愛読の方は周知かも知れませんが、フェミニストたちの鉄壁の守りに防衛され続けた『薔薇族』のおぞましい実態について暴いています。ご愛顧のほどをよろしくお願いします!

 さて、一方、今回の再録は上野千鶴子師匠についてのものを引き続き。
 ことに近年、上野師匠は頑迷なフェミニズムポエムの語り部となってしまいましたが、バブルの頃、ご当人もお若い頃は、男の子やおじさまたちにモテたくて、こんなことを言っていたのです。
 なお、本稿には「リベラル/ラディカルフェミニズム」についての話題が出てきますが、いろいろ調べる前なので、正確さに欠けるモノになっています。厳密なところは以下を参照。

 さらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて


 では、そゆことで……。


  *     *     *

・女の子を誘うことはゲームだと割り切って、とにかく十本だけ電話をかけまくってみてください。十本電話をすれば、必ず一人は応じてくれます。私が保証します(笑)。
・女友達は恋人の在庫と心得るべし、です。
・相手に五センチ近づいても逃げないか、なんていう確認をしながら、女の子に一歩一歩近づく努力をしてみることです。そのうえで、強引に一気に迫るというのも男の子の技術ですから、それをためらってはいけません。

 おお、なるほど!
 実にタメになります。メモメモ!
 ――と、ことほど左様に、バブル期の日本では恋愛マニュアル誌というモノが流行っておりました。拙著にも書いたように、当時はそんな雑誌の中、「毎号毎号違った女どもが座談会を開いては口々に好き勝手なことをわめき散ら」していたのです。
 あ、今はお座敷がかからなくなって、自主的に「女子会」を開いて「ガールズトーク」にいそしんでいらっしゃるようです。乙カレー。
 さて、それではこの数々の卓見が並ぶ「恋愛講座」、いったい誰の筆によるモノなのでしょうか?

 はい、上野千鶴子大センセーでした。
 別冊宝島『女がわからない!』の中に書かれた、「チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”」からの抜粋です*1。この別宝というのも、いかにも当時(1990)の浮っついた空気を象徴するかのようですね。いえ、このムック自体は大変面白いものだったのですが。
 ぼくにとっての上野センセイというのはこうしたイケイケギャル(笑)的、オヤジギャル(笑)的キャラづけの先生というイメージが強く、上の記事でも(一方では「性の多様化」みたいなことも言っているものの)

 女の子は、自分から努力もしないで待っているだけですから、こんなに楽で横着なことはありません。


 などと結構さばけたことも言っており、当時のぼくは彼女のそんな面をある程度、評価してもいました。
 ただ、ところが、この先生はいざ『現代思想』にお呼ばれすると、「美人コンテストなど、奴隷が綿摘み競争をやっているようなもの」などと言い出してしまうのです。その二枚舌ぶりを知るに及んで、当時のぼくは大変に驚いたというか、混乱しました。
 そもそも彼女が世に出たきっかけは『セクシィ・ギャルの大研究』(1982)という、当時よく読まれていたカッパ・サイエンスという新書のレーベルから本を出版したことでした。内容は(二十年前くらいに読んだのをうろ覚えで書きますが)要するに肌も露わなセクシィ・ギャルの広告写真をいっぱい並べ立てて男の目を惹き、しかる後、「こんなの女性差別だ!」と言い立てるというだけの、他愛のないものです。
 言わばこのデビュー当時は彼女にとって、(まあお他所から「セクシィ・ギャル」の写真を引っ張ってきてのこととは言え)性的な言説を語ることで男性たちからちやほやされる、そして同時にフェミニズム的な主張をして、そんな自分たちに寄ってくる男性たちをやっつけるという、彼女の中の女性としての欲求とフェミニストとしての欲求がバランスよく適えられていた、非常に幸福な時期だったのでしょう。
 しかし上の記事に象徴される時期は、一方では華々しい「女の時代」であり、「フェミニズムバブル」でもあったのですが、その一方では「行動する女たちの会」などがまさしく広告写真などにたいして「女性差別」であると噛みつき、世間の反感と失笑を買っていた頃でもありました(事実、同会はこの数年後に解散したように思います)。
 機を見るに敏なセンセイはそうした時代の趨勢を感じ取り、生き残りのために大衆の耳に快い言葉を語る仕事も(しかも結構楽しそうに)こなしていたのでしょう。むろん、『現代思想』では本来の主張をするわけですが、どうせ両誌の読者層なんて全然被りませんし
 いずれにせよ、当時はアッシー君だミツグ君だと言われていた時代です。オンナノコに翻弄されて途方に暮れている童貞クンに上から目線でご高説賜う上野センセイの筆致は、これ以上ないくらいに輝いていました。
 その意味で、上野センセイの二枚舌は必ずしも彼女の特異なキャラクターに帰せられるべきものではなく、ある意味、フェミニズムが根源的に持っている矛盾(「男が困っている、ざまあみろ」という心情と、「いや、しかしまだ女は差別されているのだ」と怨み節を語らざるを得ないという営業上の事情)を考えればむしろ必然的なものであるように、ぼくには思えます。

*1ただし、「チェリーボーイの味方」といったタイトルをつけたのは編集者のようで、本人は心外らしいことをどこかで漏らしていましたが。

 さて、今までのエントリにおいて、ぼくは「ミソジニー」という言葉を、ただ「女性差別」という言葉を言い換えただけの、「おニューの古着」に過ぎないと説明してきました。
 しかし、こうしてみると上野センセイは大昔から、「ジャーナリスティックに時流に乗った仕事をこなす」脳と「古拙で頑迷なフェミニズムを主張する」脳を分化させ、場に応じてごく自然に使い分けていらっしゃったのだということがわかります*2
「ミソジニー」という言葉はそれらのノウハウを生かし、古色蒼然としたフェミニズムのロジックをジャーナリスティックな格好いい、目新しい横文字に言い換えることで人口に膾炙させる、彼女の手口の総決算とすら言えるかも知れません(「ミソジニー」という言葉を日本に持ち込んだのが彼女かどうかは、知りませんが)。
 そして、これはあくまでぼくの想像ではありますが、上に書いた90年代初期の上野センセイの「さばけ」ぶりが、「行動する女たちの会」の失墜を鑑みての政治的戦略であったとするならば。
 ぼくたちはもう少し冷静に、センセイについて考えてみなくてはなりません。
女ぎらい』を読むと、上野センセイは妙に萌えヲタに理解がある素振りを見せています。
 現実の子供に危害を加えるペドファイルにたいしては厳しく糾弾しつつも、萌えヲタは彼らとは別だとして比較的肯定的に語る部分については、ぼくも大いに賛同できます。「非実在青少年」専門の萌えヲタというのは、センセイにとっては安全な、好ましい男性ということになるのかも知れません(もっとも「実在青少年」に興味のある男性にとっては、許容できない考えになってしまいますが)。
 とは言え、センセイのリクツからはどうしたってポルノは絶対悪にしかならないはずです。男性タレントの「女性を守りたい」という発言すら絶対に許すことのできない「女性差別」発言であると言い立てるセンセイが、児童ポルノ法に反対してみせていることは、前にも書いたようにやはり、不思議だと言わざるを得ません。
 むろん、この点についてもしセンセイに問いただせば、「ポルノをよしとはしないが、法で規制することは更に好ましくない」といった模範解答が返ってくるかも、知れません。
 いえ、もし彼女がそこまでラディカルに語れば、むしろぼくは彼女のその正々堂々としたスタンスそのものには、好感を持つと思います。
 しかしぼくがどうしても理解できないのは、児童ポルノ法に反対している人々が、往々にしてフェミニズムに親和的な言動を繰り返すことです。
 むろんフェミニズムは「左翼」であり、反対運動をするのも「左翼」である以上、両者に親和性があるのは当たり前といえば、当たり前です。が、しかし、性表現の規制に反対する人々がフェミニズムに全く無批判でいるとしたら、それはまるで神の手を持つ外科医が確かなメスさばきで執刀しつつ、しかし細菌というものの存在を知らず、術中、全く消毒していない、というような状況に近いでしょう。
 昨今、ネット上などにおいては「ラディカル・フェミニズム」と「リベラル・フェミニズム」との違いを強調したがる人の姿が目につきます。後者は性表現などに寛容な、好ましい、正しいフェミニズムである、との主張が多いように思います。
 また、「ウヨフェミ(=右翼フェミニズム)」などという「非実在フェミニズム」を持ち出すことで、いわゆる普通のフェミニズムへの攻撃をかわそうとする論調も、度々目にします。
 ぼくはその両者とネット上で話したことがあるのですが、いずれもその主張は支離滅裂で、全く要領を得ないものでした。
 ウィキペディアで「フェミニズム」の項を見ても、

 フェミニズムは、近年、リベラル・フェミニズムと、ラディカル・フェミニズムとが対立している。フェミニズムの思想は多様であり、一本の思想と考えることはできない。

 ラディカル・フェミニズムをフェミニズム全体を代表するものとして一般化するのは間違いである。リベラル・フェミニズム勢力のように女性が楽しめるような非暴力的なポルノを肯定する勢力もある。


 などと、かなり作為的な記述がなされています。
 むろん、フェミニスト同士というのは大変に仲が悪いわけであり、この対立を強調する筆致は、必ずしも対外的な意図にばかりよるものとは言えないかも知れません。
 また、リベラル・フェミニズムが「表現の自由」を重視する人々であるというのもおそらく、嘘ではないとは思います。
 しかしぼくたちは、あれほど「さばけて」いるかに見える上野センセイが一皮めくれば田嶋センセイもびっくりの男性への怨念と憎悪にまみれていることを知りました。あれほどチェリーボーイの味方だと言っていたのに、『女ぎらい』を読むと「非モテ論壇」にたいして、「男ばっかり性的弱者を名乗りやがって、女を無視するとは許せない(大意)」という相も変わらず幼稚園児レベルの理論でバッサリです。
 にもかかわらずぼくたちは今、非常に無思慮なことに、フェミニストたちと歩みを共にしようとしつつあります。丁度東浩紀センセイが「ホモソーシャル」という「攻撃呪文」を意味もわからないままに唱え続けるように、「フェミニストは味方だ」と盲目的に考える者が増えているように感じます。それに対しての疑問の声は、呪文を唱える声のあまりの大音量に掻き消され、どこからも聞こえてはきません。
 上にリベラル・フェミニストは「非暴力的なポルノ」であれば認める、とあります。
 かつてフェミニストたちは「ポルノ」に変わる新たな性表現として「エロチカ(笑)」という概念を提唱していました。上野センセイも「わたしたち女性は女性差別であるポルノを認めない。しかしエロチカであれば楽しむことができる」などと大真面目におっしゃっていたのです。その意味で「非暴力的なポルノ≒エロチカ」と考えて、まず間違いないかと思います。
 では、その「エロチカ」とやらはいったい具体的にどんなものかとなると、さっぱりわかりません。そもそもが「従来の男性性/女性性」を一切認めない先生方が、いったいいかなるポルノであればお認めになるというのでしょう。てか、当時から上野センセイが『風と木の詩』を大絶賛なさっていたことを考えると、まあ何となく見当はつきますが。
 ぼくたちはずっと、思考を停止したままフェミニストたちにはいはいと頭を垂れ続けてきました。その結果が、BLは強制的に公共の図書館に置かれ、男性向けの性表現はバッシングをされ続けるというこの奇妙な社会であることは、もう間違いがないわけです*3
 いかにフェミニストたちが「表現の自由」を絶叫しようとも、彼女らと歩調を合わせることについて、ぼくたちはやはり、もう少し慎重であるべきでしょう。

*2『男おひとりさま道』など、その意味では上野センセイにとっては「別宝」の記事くらい、男性に「サービス」して書かれた本である、ということなのかも知れません。
 また、センセイがその場その場でかなり言うことが違う場当たり的、もう少し言葉を選べば多重人格的なキャラクターであると言うことは、昔から小浜逸郎さんや大塚英志さんから指摘されています。
*3 当時そういう事件がありました。詳しくは以下を。

今さら堺市立図書館BL本問題