※今回、カネを取ります。一応、それほど大したものではないのですが最後にネタバレがあるので、そこを有料noteにしています。逆に言うと結論を無料部分で書いているので、ご覧になった方はそっちで充分かも知れません。いずれにせよ半年もすれば全部無料にしようと思っているので、意地でもカネを出したくない方は、その頃また見に来てください。
では、そゆことで――。※
庵野秀明って、『ライダー』にあんまり思い入れないのかなあ……というのが鑑賞後の率直な感想です。
去年、『シン・ウルトラマン』についても比較的批判的な評を書きましたが、それでも映画を観終えた後は「わ~い、ウルトラマンカッケー」という満足感はありました。
しかし今年は……「あれ、俺何観に来たんだっけ、『デビルマン』? 『キャシャーン』?」といった感じ。
そう、本作はまさに劇場版『キャシャーン』的でした――あ、いや、ぼく、観てないんですけどね、『キャシャーン』。
・『シン劇場版キャシャーン』
劇場版『キャシャーン』と言えば『デビルマン』ほどではなくとも、燦然と輝く糞映画としておなじみです。何しろキャシャーン、マスクを被らないんですね。要はオリジナルに何ら愛のない監督が、「漫画じゃないんだから」とマスクをオミットしたわけです。この種のリメイクもの、実写版って実のところホンのちょっと前までは映画制作者から、「ん? これ俺のマスターベーションツールに使っていいの?」程度に思われていた存在だったのです。
本作もまた、(いくら何でもそのはずはないのに)そのように感じられました。一番顕著なのは、ライダーが変身ポーズを取らないこと。普通に考えたら、まずそこをどうするか(変身を今の時代にあわせどのように演出するか)を考えるんじゃないでしょうかね。
「今回の主役は旧1号であり、そもそもオリジナルでも変身ポーズを取らなかった」との反論も考えられますが、それなら旧1号が新1号になって戦うべきだっただろうし、せめて2号は変身ポーズを取るべきでしょう。
また、いちいちマスクオフ、マスクオンを繰り返していたのがしつこく、閉口させられました。
確かに石森章太郎が描いた漫画版『ライダー』では「醜い傷を隠すため」にマスクを被るという描写が明確にされていますが、テレビ版では判然としません。明示はされていませんが、マスクを被るのではなくあのマスクに「変身」するという解釈がされてるんじゃないでしょうか。
そもそも、『仮面ライダー』の「オリジナル」と言った時、何を指すのかという問題もあります。というのは、ぼくとしてはテレビ版の最初の『仮面ライダー』こそがそれだと考えますが、石森章太郎版の漫画こそがそれだ、というのも考えとしてはあり得る。一応扱いとしては「原作」となっていますし。
しかしこれ、一般的に「原作」といった時にイメージされるような、既にある漫画作品の映像化というのとは違い、メディアミックスとして同時進行していったものなのですね。
そのどちらがオリジナルかとなると思いは人それぞれでしょうが、やはり一般的にはテレビ版こそがそれでしょうし、逆に庵野が石森版の大ファンで敢えてそちらを重視したのであればそれはそれでいいのですが、ぼくはそうではなく、(まあ、感覚的なものですが)半可通が「原作」の名を冠する石森版をオリジナルとしてリスペクトして見せたような、そんな印象を持ちました。
それはところどころでテレビ版、漫画版、果ては『ライスピ』での名台詞を引っ張ってきている点にも窺われ、ちょっととっちらかったと言うか、ひとまず全方位に媚びて見せたような、そんな印象を受けました。
オリジナル音楽の使用もそうで、ことにエンディングは「おじさんとかおばさんの名前、いっぱい出さなきゃいけないから、取り敢えず何か曲かけときました」という声が聞こえてくるかのよう。
総じてあまり繊細さを感じなかったのですね。
今回、ライダーと怪人(じゃねーな、オーグ?)のバトルを観ていて、『ジャスピオン』の最終決戦を思い出しました。敵の幹部マッドギャランとジャスピオンの一騎打ちという大変に盛り上がるシーンなのですが、そこでマッドギャランは「俺たちの野望を……!!」と饒舌にしゃべるのに、ジャスピオンは終始無言なのです。
この時点でもう、作り手がジャスピオン側に興味を失っていることがわかります。そして丁度、今回の初期の戦闘シーンもそうした感じでした。まあ、問題は怪人側は実に饒舌にしゃべるものの、その内容が「薄っぺらな悪者っぽいもの」でしかなかったことですが……。
そう、今回の本郷猛、冒頭ではめそめそ「人を傷つけるのが辛い、戦うのが怖い」とか言っているのですが、それも形ばかりで、ほとんど主人公としての内面が描かれません。一体全体どういうわけかラスボスを倒した後で、急に過去話が入るんですが、それでは取ってつけたとしか……。
その意味で、今回はどうも主役がぱっとしません。2号もそうで戦場に現れた時の顔が妙にぽーっとしていて、何か笑っちゃいました。
ことに2号はイケメンである必要はないのですが、1号共々、声が通らないのは致命的だったかと。何しろ本作は『シン・シルバー仮面』と呼びたいくらいに暗いシーンが多く、正直何やってるのかわかりませんでしたから。
・『シン・セーラームーン』
オタク史の、(自明すぎるほどに自明なことなのですが、ぼく以外に言及する者がいないので、今となっては忘れられている)一面をご説明してから、今回のまとめにしましょう。
80年代の後半、オタク文化は市場性を獲得し始めました。
オタク少年たちが漫画などで表現していた「戦闘美少女」が、例えば「オリジナルビデオアニメ」などといったマニア向けのメディアでアニメ化されました。『イクサー1』とか『ドリームハンター麗夢』とか、今で言う萌え系の美少女が剣を手に悪と戦うアニメですね。
これは「女の時代」にあって自分自身を男性という形で表現できなかった男の子たちが描き出した、自らの理想の姿と言えました。
しかし、90年代となるやそれは『セーラームーン』といった形で換骨奪胎され、「何か、女性の始めた表現」みたいな文脈で称揚され始めました。
しかしめげずに男の子たちは例えばですが恋愛ゲームなどで、優れた表現を更に拡げていきました。シミュレーション、ないしアドベンチャーなどの美少女恋愛ゲームはプレイヤー主観で美少女がこちらに語りかけてくる、それを多くはプレイヤーの代替者である主人公のモノローグがテキストとして表示されるといった形(つまりは一人称の小説的なスタイル)を取ることで、否が応でも男の子の「主体」というものを書き出す表現となりました。
オタク文化は男の子にも情緒があり、感受性があるのだという大いなる宣言としてこの世に現れ、シンジ君の心性を描く『エヴァ』はその代表とも言えました。
が――。
『シン』シリーズはそれを否定し、「男とはココロというものを持たぬ、ただの女性様に使役されるロボットであります」との宣言として、この世に立ち現れました。
ホモソーシャルで、そもそもドラマ性の希薄な『シン・ゴジラ』はまたちょっと別ですが、『シン・エヴァ』も『シン・ウルトラ』も、そして『シン・仮面ライダー』もそうした価値観を透徹して、この世に登場してきました。
そう、それらは全て、『シン・セーラームーン』だったのです。
いえ……以前使った比喩で言えば、『シン・トリプルファイター』だったと言うべきでしょうか
――と、以上、結論だけ書きましたが、もう少し詳しく説明するとなると、少々のネタバレが必要になってきます。
以下はネタバレしつつ、少々詳しく見ていきますので、興味のある方は下をクリックしてください。