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 さて、少し前までは上野千鶴子師匠について書いた記事の再録を続け、一応、完結させました。
 が、実はその前は「男性学」関連の記事の再録をしておりました。
 もう、記憶も定かですが去年末辺りの男性デーか何かのトピックスがきっかけだったんじゃないかなあ……。
 ただ、この「男性学」、本当に悪辣なものであり、その危険性はどれだけ強調しても足りません。
 本稿は2016年6月25日に執筆したものですが、今にしてみると、杉田俊介師匠の近著などに比べれば、おぞましさは少ないように思います。
 ただ、だからと言って肯定できるものでないのは変わりませんので、お読みいただけると幸いです。
 では、そーゆーことで……。


  *     *     *


「表現の自由クラスタ」について、ぼくは今まで度々「敵の工作員である」と形容してきたかと思います。
「オタクが事実に気づきそうだ、工作せよ」との「闇の大首領様」の命に従い、フェミニズムについて水際作戦でデマを流しているのであると。
「男性学」についても同じことが言えましょう。フェミニズムによって破壊されたこの世界への素朴な懐疑を抱いた者を水際でいち早く取り込み、SEALDsにしてしまおうという。本書もまた、そんな「オルグ」の様子が捉えられた、貴重な一冊になっております。
 最近やたらと本を出していらっしゃる田中俊之師匠ですが、今回は小島慶子アナとの対談本。
 まえがきは小島アナが担当し、内容は「女性差別はなくすべきだが、男性は女性より強くてしかるべきというのもアンフェア、男も不自由だと言っていいのだ(大意)」といった、なかなかいいと思えるもの。
 が、みなさんもおわかりかと思います。
「男性学」を謳う連中は、看板にはこの程度のことは平気で書く。しかし毎度毎度、中身を読んでいくとそれが見事に裏切られる。ちょっとやそっとで彼ら彼女らを信頼することはできない。
 どうなりますことやら……と思いつつ、ページをめくっていくと、育児について書かれた「「イクメン礼賛」では変わらない」といった節タイトルが目につきます(136p)、小島アナは「働く女は主婦よりエラい」といった価値観を批判、同様に男性も「イクメンこそが素晴らしい」などと一面的な価値観を持たないでほしいとの、こちらが舌を巻くような正論を展開し、田中師匠もそれに同意します。
 感激してうんうん頷きながらページをめくると、現れるのは「マスコミが植え付ける性別役割分担」といった節タイトル(140p)。舌の根も乾かぬうちに、田中師匠は妊婦向けの雑誌で「自分が入院したあと夫が困らないように、料理を作って冷凍しておきましょう」などと書かれていることを「気持ち悪い。」と非難し出します。小島アナも二十九歳の男性に恋人ができたというので「料理をしなかったら結婚してもらえないよ」とアドバイスしたことを自慢げに語り出します。この男性、いろいろ言われた挙げ句「もっとワークライフバランスの取りやすい会社」に行ったということで、まあご愁傷様と言うべきか、天上界では就職先がいっぱいあるらしくて羨ましゅうございますなあと言うべきか。
 こんな調子で、しょせん、マスコミなり何なりを仮想敵にして無限に妄想を繰り広げている限り、彼ら彼女らに「内省」の二文字は不要なのです。
「男が運ぶ母の呪い(61p)」での小島アナの語るエピソードもわけがわかりません。研究職にあった女性が高収入、高学歴、高肩書きの男性と結婚し、専業主婦となった、というお話です。傍からは「優秀な女性が研究を辞めるなんてもったいないな」と思いますが、そんなのは本人の自由ですし、彼ら彼女らはリベラルとしてのタテマエを守るため、諸手を挙げて賞賛せねばならないはずです。
 ところが彼女はこの男性が「頭の悪い女性は嫌いだから高学歴がいい」と明言したことに「こういう夫たちに優秀な女性がどんどん潰されていく」と難じているのです。田中師匠は「まさに女性はサイドカーという発想を感じます。」と感想を漏らします。確かに「才能の無駄遣い」だと思うし、無学でも家事の上手い女性を娶ればいいのに、と思うのですが、彼ら彼女らのスタンスでこれに一体どういう不満があるのか、さっぱりわかりません。
 本来は「女なんぞ無学でいい」という風潮に噛みつきたいはずが、(そんな風潮はないので)ムリからにインネンをつけて噛みついている感じです。結局、イクメン、キャリア女性礼賛を批判して見せたのもポーズだけで、女性が社会に出ていないことは絶対悪、との偏向した価値観を他人に強制することこそが、彼ら彼女らの目的だということです。
 イクメン、男の家事、と言えば「専業主夫」の話題も登場します(191p~)。小島アナの旦那さんはオーストラリアで主夫をやっているらしいのですが、

「家のことをやっているよ」と答えると、たいていの男性は「いいね、最高だよね」と言うそうです。


 理解があるオーストラリアは進んでいる、と雁屋哲さんばりに持ち上げるのかと思えば、

 でもどれほどの人が心の底から「いいね、最高」と思っているのか、私は疑わしいと思っています。

「大変でしょう」と言われることのほうがよっぽど励みになります。つまりそれだけ理解をしてほしい。

「いいですね」と言うのを聞くと、「どんだけ楽だと思ってるんじゃい」という気持ちになる。


 田中師匠も同調して言います。


「他人事感」がありますね。自分はやらないけど、いいですね、みたいな話になる。


 あぁ、そうですか。
 何というか、『かってに改蔵』に出てきた「触ってはいけない人専用車両」というのを思い出します。そこには行きすぎた動物愛護精神を持っている人や行きすぎた環境問題への意識を持っている人などが集い、ちょっとでも扱いを間違えると勝手に傷ついて騒ぎ出すので、迷い込んだキャラクターたちは居たたまれなくなって、そこから飛び出してしまいます。
 他人が一挙手一投足自分たちの命令通りに動くまで、昭和時代のアニメに出てきた、共産圏を風刺したコンピュータによる管理国家のように人類をコントロールするその日まで、彼ら彼女らはこういうことを言い続けるのでしょう。
 田中師匠がこれをセクシャルマイノリティの問題に準えているのは非常に卓見で、彼ら彼女らは自分たちの思想が何故支持のされないか、もう少し真摯に考えてみるべきなのではないでしょうか。

 本書を見ていて感じるのは、(まあ、いつもの繰り返しなのですが)言うことがあまりに古い、ということです。
 以前も紹介した『男性受難時代』はバブル直後の男性に、「会社ばかりが人生ではない、家事を妻に任せきりのお前たちは、実は生活者として少しも自立していないのだ」と説く(ことで、男性の席を女性に明け渡させようとする、非常に姑息な)本でした。
 バブル後の徒花として一瞬僻地でちょっとだけ咲き、即行でおわコン化した「男性学」が、昨今、「脱成長論者」たちの指令を受けて復活しつつある、しかし、「新ネタ」を考えつかなかったのか、論調は二十年前のママである。いつも言ってきたことですが、本書を見ても、その印象はますます強くなるばかりです。
 25pの節タイトル「定年を迎えて考える『俺って何?』」や55pの「いつになったら、男たちは自分の足で歩けるようになるのか。」といった御高説、98pの「恋愛がうまくいけば、人生もうまくいくはずだという勘違い」を男が引きずっているという勘違い(女は男を相手にしていないが、男は女に夢中という被愛妄想は、バブル期に大いに喧伝されたウソでした)、242pの男は「友だちもいなければ、趣味もない」という決めつけなど、二十年前から古かった問題意識はもはやビンテージの域にまで達しつつあります。
 田中師匠はやたらと「定年後(の男性アイデンティティクライシス)」という随分と牧歌的な問題設定をしたがるのですが(その一方では脱成長礼賛と共に「老いることは解放だ」などとも語るのですが)、そんなことよりも働きたくても働けない、妻に依存したくても結婚できない弱者男性のことを少しでも考えてくれませんかね。社会に出たことのない恵まれた人には、ムツカシいかも知れませんが。
 それは、154pにおけるフレキシビリティのある雇用をしている会社を持ち上げ、「正規、非正規」の問題を「多様でいいね」とすり替える辺りにも現れています(もっともこれは小島アナの意見)。カネに余裕のある人は結構なことをおっしゃいますな。
 まあ、一応、これからは低成長時代で厳しいモノになるとの視点もあるにはあるのですが、むしろありすぎて、p184、p38など、田中師匠は「男にはそれ(引用者註・働くこと)以外の選択肢がない。」「「働かない」という選択肢は非現実的」と繰り返すことになっています。前者など、「男は過労死で殺されている(大意)」と言っていて、そこだけすくい取れば貴重な指摘なのですが、問題は田中師匠が何の疑問もなく前著を全否定している点です。
 前著で師匠が何とおっしゃっていたか皆さん、ご記憶でしょうか。
 はい、ドン。


 ちみに今回の本において、この前著についての言及は全くありません。やっぱりあれは「死ね」という意味だったのでしょうか

 ――とまあ、基本、本書の論調は以上のような感じで、類書と変わりがありません。
 が、小島アナがいるせいか、従来の田中師匠の本に比べて男性へのヘイトが軽減されているように思われます(もう一つ言うと、「フェミニズム」という言葉も確か、一回も出てきません。これはまあ、単純に詐欺勧誘のために隠しているのでしょうが)。
「大黒柱マザーになって」という節(167p~)では小島アナの旦那さんが無職になった時のエピソードが語られます。ここで彼女は、今まで旦那さんを社会的地位で評価していたと気づきます。

 けれど、いざそれ(引用者註・夫の職)がなくなってみると、自分の夫に年収があり、肩書きがあるということをすごく都合よく利用していた、寄りかかっていたことが露呈してしまった。

 いままで、私が大嫌いだったオヤジの言動すべてが、自分の中から出てきたんです。


 今まで嫌っていた「オヤジ」という存在がいかに大変か、いかに大きなモノを背負っていたのかを省みる小島アナ。旦那さんとのケンカの最中、「お前は俺自身ではなく別な者に対する感情を俺にぶつけているのではないか」と言われて、自分が「男社会」や「父」への憎悪を旦那さんへと投影していたのだとはたと気づくという下りもあります。
 いずれにせよこの小島アナの気づきは大変に素晴らしいものです。彼女は男性ジェンダーというものがいかに窮屈で危険で過酷なものかを知ったわけです。フェミニストが、彼女の万分の、億分の一でもここに気づいてくれればと願わずにはおれません
 しかしそれを、田中師匠は結局、

 仕事と家庭を両立させるための仕組みが整っていない状況で、女性が働くことに希望を持てないのは当然だと思います。(179p)


 という、「今更捨てられなくなってしまった、古びて硬直した考え」に立ち戻り、まとめてしまいます。
 見事な「オルグ」ぶりです。
 もうここまででおわかりでしょうが、「男性学」から「男性への憎悪」(と、「フェミニズムへの信仰心」)という要素を抜き去ってみると、まあ、確かに頷けることを言っていることが多いわけです。
 それは「「草食男子」への曲解」との節において(86p)「草食系男子」という言葉がネガティブなものとして流通していることについて憤る下りにも、同じことが言えます(むろん、彼らの定義、推奨する「草食系男子」のあり方が男性に益するモノかとなると、また別なハナシですが)。
 が、その処方箋となるや、「漠然と上を見て、オモチャ買ってとでんぐり返る」になってしまう。「何か、仕組みを整えてください」と。でもそれって、彼ら彼女の大々々々々々々々々好きな低成長時代ではなく景気のいい時にしか、不可能なことの気がするのですが。
 そしてもう一つ、主夫への対応が気に入らん、学のある女性が家庭に引っ込むのが気に入らんと騒ぐ下りでは、その「オモチャ買って」が為政者ではなく大衆へと向けられている。(国を相手にクダを巻いているだけなら騙される人もいように)ここで、彼ら彼女らの主張は大衆からはとてもとても受け容れられないものであるとわかってしまうわけです。

 ここでもまた「男性学」と「表現の自由クラスタ」との構造の類似性が明らかになります。彼らはいずれもフェミニストが「男が一方的に得をしていたのだ、だから賠償せよ」との詐術で手に入れた“汚いカネ”のご相伴に、「ビョードーだから」のワンワードで預かろうとしている人たちです。そこには、フェミニズムの基調である「男側が圧倒的に得をしている」という視点が、一体全体どういうわけか、さわやかなまでに欠落しています。
 ある意味、もはや彼らにとってフェミニストというものに「おカネを持っているので仲よくしたらトクな人」以上の意味がなくなってしまっていることが、ここからは見て取れます。
 多分、彼ら彼女らは十年も経てばツイッターで「フェミと男性の対立はなかった、兵頭が捏造した」などと書き立てているのではないでしょうか。
 しかし、そんな彼らが、それでも強引にフェミニズム利権に預かりたいと考えるのであれば、「我々のようなご相伴に与る権利を持つ正しい男性/その権利を持たぬ悪しき男性」の二元論を持ち出すしか方法がない。それが田中師匠の普段の著作で現れる男性への憎悪であり、「表現の自由クラスタ」たちが見せる、自分たちの思い通りにならないオタクへの憎悪なわけです。
 フェミニズムは男性、女性への憎悪の思想であり、リベラル君たちにの中にも自分以外の男性、そして(いわゆる女性的な)女性への蔑視が深く根を下ろしている。
 彼ら彼女らのコラボはとてもステキなルサンチマンの協奏曲ではあるのですが、一般社会へと多大なる害毒を流した後、恐らく同士討ちで自滅する未来が待っているのではないでしょうか。