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快楽電流(再)
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快楽電流(再)

2023-12-03 16:53
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     予告していた、藤本由香里師匠の著作のレビューです。
     これが書かれたのは2012年6月23日
     藤本師匠、表現の自由クラスタには不思議とあまり担ぎ出されてくることがないのですが、それより以前、90年代の初期から「腐女子フェミ」とでもいった立ち位置で活動を続けていた人物です。
     本稿を見るといただき女子とフェミニストに一切の違いがないことが、おわかりになりましょう。



     それと、表現などは初出から多少、変更を加えている部分があるのをご了承ください。
     では、そういうことで……。

     ================================

     そして一時期、本当はAV女優こそが私の天職なのではないかしら? と思いながらも、今までとうとう出演することのないままにきた理由もまた、そこにあったのだった。


     ちょ……ちょっと、勘違いなさってませんか、藤本由香里師匠……?

     前回のエントリで「ぼくは従来、藤本師匠に対しては比較的、「わかってんじゃん、この人」という印象を抱いていた」と書きました。

     それは例えば腐女子たちはBLに登場する少年に自己投影している(非実在の少年に自らの女性性の発露を仮託している)と分析したり、或いは「女が男にレイプされる」といった内容のレディースコミックが大好きである、と率直に語っているからです(拙著でも引用したその文章は、本書の四章に収められています)。
     今回ご紹介する『快楽電流』は前回ご紹介した『私の居場所はどこにあるの?』の一年後に出版されたもので、また初出が90年代前半に集中しているという点も前著と共通しており、近しい読後感を持ちました。

     つまり、「自らの女としての業」に向きあっていらっしゃる点については素晴らしいと思うものの、果たしてそれとフェミニズム理論との整合性はどうなってんの? という。
     が、漫画評論に特化した前著と比べて本書はやや自伝的性格を強くしており、一章の「売春論」では、師匠の「ワタシは娼婦になりたかったなりたかったなりたかったなりたかったなりたかった」との告白を延々と聞かされることになります。
     若い頃の師匠はテレクラで男性にナンパされたりもしたそうで、そういった体験を自慢げに語るとフェミ論壇の上野――じゃなかった上の連中に睨まれたりしないのかな……とついつい心配になってしまいます。

     いえ、「勘違い」と書いてしまったのはいささか非道かったかも知れませんが、本書の一章を読んだ時の感じというのは、「女の業」を内省しているのは立派だが、今までフェミ論壇という蛸壺にいたせいか、妙齢の女性ならば誰もが踏んでいる「手続き」についての甘さがいささか見られる、とでも言うか……説明しづらいので、文末にスペシャルボーナスとして「実験アニメエピソード」を加えてみました。お読みいただき、みなさま各自でお考えいただければ幸いです

     とは言え、読み進めていくとなかなかラディカルな話題が飛び出してくるのも事実です。前回、フェミニストたちが新條まゆ的な漫画を俎上に乗せないことを「卑怯」と糾弾しましたが、本書においては(そうした少女漫画は登場しないものの)レディースコミックにおけるレイプ描写、SM描写について存分に語られています。その意味で上の「卑怯」者呼ばわりは、少なくとも藤本師匠に対しては撤回したいと思います。
    (以降、引用箇所は本来、「強姦」に「レイプ」とルビが振られたりしているのですが、そうした細かい表記法は適宜、読みやすいように省略しています)
     例えば四章「欲望論――レディース・ポルノの黄金律」。
     ここで師匠はレディースコミックにおけるレイプの多くが「輪姦」であることに注目します。師匠によれば、

     相手が一人である場合には強姦は、その行為が当然受けるべき評価にふさわしく、絶対的な暴力、存在への徹底的な破壊行為として描かれる。

     ところがこれが複数姦ということになると、とたんに官能の味付けが増すのだ。


     更に師匠はその理由を、一対一では抵抗しやすいのでレイプが成り立ちにくいからなのだ、などとフェミニストが聞いたら憤死しそうな分析をします。

     のっけから結論めくが、女が官能に集中するために最も必要なものは、この《時間》と《いいわけ》である。そして《いいわけ》の最大のものが“愛”である。しかしこの“愛”から離れて愉しもうとする場合には、“もう抗えない”というもう一つの《いいわけ》(官能を燃やすための燃料といってもいいが)が要る。強姦はその《いいわけ》としては都合がいいのだが、一対一の設定では相当抵抗できてしまうからまずいのである。


     要するに、レディースコミックは「気持ちいいレイプ」のためには時間をかけることが必要なのだが、一対一ではそこまでの余裕がなく、「相手が複数なのでヒロインは逃げ出せない」というシチュエーションを作り上げた上で、じっくりと時間をかけたセックスを描いているのだ、というのが師匠の主張です。

     ぼくとしては「輪姦」は「ヒロインが、大勢の男性の欲望の対象になる」表現として人気があるのだろう、くらいにしか思わないのですが(BLでも腐女子は「総受け」キャラを愛好しますよね)。
     以上のようなことを書いた上で師匠は何だか、ちょっと言い訳めいた文章を付け加えます。

     おまけにその相手が、好みの男か、あるいは抽象化された男たちであるとすれば、はたしてそれが、被強姦願望といえるだろうか。それは、嫌なのに無理やり姦られる、といったものではないし、相手役にしろ行為の内容にしろ、むしろ相当に好みの条件付けがなされているとみるべきである。ポイントはむしろ“抗えない”という感覚、その一点にある。


     と前置きし、

     そうであるとするならば、強姦という設定は必ずしもその適切な表現方法ではない。


     とおっしゃっているのです。

     正直、この箇所は意味が取りにくく、ぼくが誤読している可能性もなくはないのですが、ぼくの目には「女に被強姦願望がある」との主張に取られないよう、ちょっと言葉を濁してごまかしているように読めます。
     が、“抗えない”状況下でのセックスなど、そんなのレイプに決まっているでしょう。「好みの男ならレイプじゃない」ってそりゃ、どういうリクツだ、って感じです。
    (敢えて師匠寄りにこの文章を添削するならば、「女は確かにレイプネタが好きだ。しかしあくまで虚構として楽しんでいるのであって、現実のレイプを望んでいるわけでは全くない」とでも書いておいた方がわかりやすかったのではないでしょうか)
     こうして見ると、師匠の「読者にとって官能的なものとして描写されるレイプシーンは輪姦が多い(大意)」といった指摘そのものが「本当かなあ」という気がしてきます。

     ぼくはレディースコミックなどほとんど読んだことがありませんが、少女漫画でもBLでも本命の男が強引に関係を強要するのなんて、ごく普通のことでしょう。逆に強引でない男が本命の女性向けポルノなんて果たしてどれくらい需要があるのか、ぼくには疑問です。むしろ(フェミニストたちの厳しい基準値に照らせばなおのこと)女性向けエロ漫画において描かれるセックスはまずそのほとんど全てがレイプである、とすら言いきれる気すらします。

     となると、或いは師匠の中ではそうした前提の上で、イケメンと一対一でなされるセックスはどんなに強引であろうとレイプではないのだと「非犯罪化」するという心理的作業がなされているのかも知れません。
    (繰り返しますが、レディースコミックについては詳しくないので、或いはぼくの勘違いかも知れませんが)

     この後も、師匠はレディースコミックにおけるSM描写を丹念に採り上げ、

     ところでこの、「さらわれるお姫さま」というイメージが、実に多くの女性の幻想に共通しているようなのは面白い

     SMというのは、「女が自分の快楽に責任をとらなくてすむ」ための一つの手段なのだ。


     と分析し、また別の章でも

     レディースコミックをみてもポルノグラフィーをみても、たいていの作品では、女性の快感の源泉は、相手によってもたらされる変化、それを受け入れるところにある。


     などとあっさり書き、女性が被虐的な快感を得るレディースコミックを嬉々として紹介しています。また、ここに師匠ご自身の、セックスというものの存在すら知らなかったはずの五歳の頃から「無理やり裸にされ、ベッドに横たえられ、麻酔なしで手術を受ける」といった性的妄想をしていた、といった告白も入ります。
    (しかし「麻酔なしで手術」なんて概念、五歳児にわかるんでしょうか。わたしゃその年齢の頃は手術というのを仮面ライダーに改造されることだと思っとりましたが)
     いずれにせよ、師匠が自らのセクシュアリティについて開けっぴろげに語り、また極めて冷静に省みていることは確かです。

     やはり、「わかってんじゃん、この人」と感じます。
     しかし師匠が「わかって」いれば「わかって」いるほど、こちらとしては、では何故彼女らはフェミニズムの過ちが「わか」らないのかが「わか」らなくなってきます。
     果たして、師匠はこうした「率直な内省」と「フェミニストとしての私のアイデンティティ」とをどう折りあっているのでしょうか。

     そう思いながら読んでいくと、師匠は女性たちがこうした作品を好む理由について、以下のように分析し出します。

     それはまず第一に、これまでの社会状況とファンタジーのあり方の中では、マゾヒズムこそが、性的に貪欲な女が性交から快楽を汲みとるための、ほとんど唯一の遺された道であったからである。

     そして、アンドレア・ドウォーキンは、すべての性交が強姦でしかないような現在の男女関係にあっては、女がセックスから快楽を得るためには、マゾヒストかレズビアンになるしかない、と言ったのではなかったか。


     れれっ!?
     リベラルフェミニストを僭称、いや詐称、いや偽称、いや自称する藤本師匠がドウォーキン大好きっ子であったとは初めて知りました。
    (正確には、wikiの記述でそうなっているのを見ただけなので、自称したことはないのかも知れませんが……)

     ここまで率直に自分自身を省みてきた師匠がいざとなるとまたしても「オトコシャカイガー」「カフチョウセイガー」なのだから、こっちはびっくり仰天です。
     仮に女性が現実世界でそこまで抑圧されているのであれば、フィクションの世界でこそそうした表現がなくなりそうなものだし、「いや、女性たちは男性支配社会に洗脳されきって、マゾヒズムを内面化しきっているのだ」というのであれば、そもそも上のようなレディースコミックは一刻も早く規制運動で討ち滅ぼすべきものであるはず。少なくとも「これらの表現を楽しんでいる」などとノンキに書いている場合ではないはずです。
     こうして見るとフェミニズムというのは、「レイプもののレディースコミックでしか感じることのできない女性」による、あらゆるセックスをレイプであると解釈するための健気な試みのようにも思えてきます。

     ――私がレイプで感じてしまうのは、あなたがそのように私を調教したからなのよ。

     そう、藤本師匠は極めて聡明なその頭脳で、レディースコミックの本質を上のような一言で表現しました。
     しかしそれは奇しくも、フェミニズムの教科書の極めて的確な要約ともなってしまっています。

     両者とも、「非実在レイプ」を捏造することで性欲を満足させると共に、男性を罪に陥れる、憎むべきポルノグラフィーです。

     ポルノはテキスト、女災は実践です。
     何とまあ、近代的な人権意識から乖離した非人道的かつ憎むべき表現なのでしょう、「フェミニズム」という名の「ポルノグラフィ」は!
     師匠は、レディースコミックを切れ味鋭く分析し、返す刀でばっさりと、自らの肉体を一刀両断に切り裂いてしまったのです。
    (敵に向けた刃が自分に返ってきたら「ブーメラン」ですが、この場合は自分で自分を手術しようと執刀して、ぶっすりいっちゃった感じですね)

     さて、「フェミニズムは古びて、現実に対応していない」といった批判は繰り返ししてきました。
     今回はレイプ関連に話題を集中させましたが、本書には師匠なりの「新しい理論の模索」への努力の跡も見て取れます。
     次回はその辺りを中心に、ご紹介していくことにしましょう。

    【スペシャルボーナス】

    実験アニメエピソード
    『まいっちんぐマチコ先生』第n話「てんやわんやの文化祭」

     文化祭のシーズン。マチコ先生のクラスはメイド喫茶を企画します。
     が、四十絡みのオールドミスである教頭、藤本先生は「メイド喫茶など女性差別ざます」と許可を下ろさない。
     クラスではケン太が超ミニスカのメイド服を着たマチコ先生のスカートをめくったり、山形先生がその姿を盗撮して画像を五歳児にスカートをめくられているコラへと加工、ツイッターにうp、性的加害だと大炎上してマチコ先生は「まいっちんぐー」と叫ぶなどの大騒動
     しかしクラスの女子たちが可愛らしい服を着たいと、徹夜の裁縫仕事でメイド服を作っている姿に感動した藤本先生は、クラスの企画に理解を示すことに――。
     そして文化祭当日。藤本先生は率先してメイド服を着て大はしゃぎ。後、露出が高めの服なのにムダ毛処理ができてなくてあっちこっちから毛が……。
     温厚な校長は「お歳を考えられては……」と言いつつも強く出れない。最後はマチコ先生が「まいっちんぐー」と叫んで終わり。
     めでたしめでたし。

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