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 まあ、言うなら萌え要素を全て抜いた萌え四コマですわ。これ。
 正直、頭のてっぺんから(……ではないか。後述)尻尾の先まで「何じゃこりゃ」の連続で、非常にレビューしにくいです。
 しにくいんだけど、こんなものに三千近くも投じてしまった以上、読んだだけで終わりというのも悔しく、何とか記事のネタにしてみようと奮闘したのが本稿です。
 本書、Xでやたらとみんなが騒いでたんですな。
 何しろ「女だけの街」というのは日本のフェミニストたちも定期的に持ち出すテーマ。
 いえ、海外においては実行したモノの散々な結果に終わったという例がいくつもある……といった歴史的事実も有志によって掘り起こされ、知られるようになっています。
 本書のテーマもそれだということはタイトルだけで自明ですが、出版社が太田出版(何と言うんでしょう、『クイックジャパン』とか『絶歌』を出してるところです。いえ、いい本もいっぱい出しているんですが)、解説が瀧波ゆかり師匠とあっては、まあ、ある種、日本のフェミ事情も鑑みての(話題になりそうだとの計算での)出版、ということでしょう。
 いや、それはいいんですが……正直、読み通して途方に暮れました。
 イントロダクションこそ世界中で女児しか生まれなくなり、男性は緩やかに滅んでいくという状況に加え、天変地異が起こり文明が失われる――といった衝撃的な幕開けなのですが、さて、「だが、女性は死滅していなかった!」という本編開幕以降は……なぁ~~~~~~~んにも起こりません。
 先にも書いたように「萌え四コマから萌えを引いた状態」が延々延々続くのです。
 男性絶滅以降は1、2pごとに話が次々と変わっていき、要はとりとめなくエピソードが団子のように繋がっているという感じ。想像ですがこれ、一回1、2pで完結している連載漫画をまとめたものじゃないかなあ(あとがきを見るとインスタグラム連載だそうです)。それなら副題をつけるなどして、ちゃんとそれぞれが別な話とわかるようにしろって思いますが。
 ともあれ描かれるのはとりとめのない日常のシーンの連続。例えばですが『サザエさん』とかを単行本で読んでると(いや、読んでる人も少なそうですが)当たり外れがあるじゃないですか。「あぁ、この日はネタが思いつかなかったんだな」と思わせる、捨て回。
 本書はそう、フェミ版『サザエさん』であり、『サザエさん』であれば捨て回が1:19くらいの割合で存在するところが、19:1くらいの割合で存在している、という。
 あ、誤解しないでくださいよ、二十本のうち一本は面白い、と言っているわけではありません。「一本くらいは何とか意味のわかるものがある」ということです。
 例えば以下のような具合。

 文明崩壊以前(まだ男性がいる時代)を知る老婆が幼女に「男たちが魔女狩りで不当に女を弾圧した」という歴史を教える。それを聞いて幼女が言います。
「でも魔法が使えたなんて格好がいいわね」
「いや、とんでもない。殺された女たちは魔女などではなかった。冤罪だったのだ」
「でも、男たちが絶滅したのは魔女の呪いなんじゃないの」
「ぎゃふん」

 どうすか。
 いえ、どうすかと振られた方もお困りでしょうが。
 魔女って言っても男もいたし、この史実をどこまで男女の対立の問題として理解していいのかは疑問ですが、「男性が絶滅した」がフィクションである以上、ここに風刺性はないし、立ち現れているのはフェミの男性憎悪だけでしょう。
 でもこれは一応、話の流れがわかる、二十分のうちの一本なのです。
 もう一本見てみましょう。

 ある女性が寝そべっている女性に髪を切ってくれと頼む。頼まれた女性は「なぜ切る必要がある? 従来、長い髪は豊饒と安産の証として女性らしさを表していたのに」。
 ところが頼んだ方は「起き上がりたくないだけでしょ」と反論。頼まれた方はそれに頷き「えぇ、起き上がらなくて済むなら何だって言うわよ」。

 何だこりゃ。
 働きたくないが故に詭弁を弄しているという流れがわかるので、一応漫画としては何とか成立しているのですが、フェミ漫画としてはどうでしょう。女性性にまつわるテーマだけど、要するに何が言いたいかわからない。長髪を肯定しているとも、それを否定するフェミ的なドグマに従順とも思えない。「何だこりゃ」以外に感想がない。この本はこういうのがやたら多いんですね。
 そもそも主役格といっていいガイア市長、全裸で変人扱いを受けていますが、何故全裸なのかがわからない(本人は風が気持ちいいからなどと言っているのですが)。
 一番奇妙なのはごく当たり前のごとくキャラクターが全員レズビアンであることで、しかしそれは普通のこととして詳述されない。作者にしてみれば「男という悪者がいなくなれば女たちは理の必然としてみなレズになる」というのが「常識」なのかなあ。
 要するに創価学会の機関誌に連載されている漫画の主人公が創価学会の信者であり、創価の教義を実践していることが説明不要であるように、ヒッピー的価値観、ヌーディスト的価値観、レズビアン的価値観がこの作品においては説明不要なのでしょうな。髪の件にせよ、「ロングヘアなど言語道断」が本作の根底を貫く価値観なので(いえ、登場人物にロングもいるのですが)、フェミである登場人物が非フェミ的なことを言うのが笑いどころなのでしょう、きっと。
 他にも女医は乳房を切り取り、平板な胸に傷痕があるのですが、それについては全く説明されない(やっぱり女から男になったトランスだけど、それも「女」としてカウントされるというリクツなのかなあ?)。
 それに実のところ、上に書いた老婆もトランス(男から女になったと思われる)と思しいんですが、それは本人がちらりともらすばかりでそれが話に絡んでくるでも、バックボーンが語られるでもない。
 敢えて言えば「キャラクターたちが何だかんだ言いつつ受容しあっている」みたいなのを描きたいんでしょうが、ドヤ顔で表現されるほどのことでもないよなあとしか。

 しかし「何じゃこりゃ」な読後感の後、役者である山本みき師匠のあとがき、瀧波ゆかり師匠の解説を読むと、やはり「信者」には本作がちゃんと刺さっていることがわかります。
 まず山本師匠。
 この世界の女たちは化粧をせず(これは山本師匠の想像で、そう明言されているわけではないのですが)、簡素な服装でのびのび。「旧時代の遺跡」として登場するポスターなどの女はケバケバしい化粧。つまり男たちの仕組んだルッキズムからの解放というわけです。まあ、正直そうした描写はあると言えばあるのですが、ぼくはあまり気にせず読み進めてしまっておりました。ぼくの読みが浅い、との批評もできますが、これ自体が「女が気にしてるようなことを、男は別に気にも留めない」ことの証拠と言えるのではないでしょうか。よくありますよね、女が髪切ったのに男が気づかないみたいなの。
 またトランスの老婆が孫に「女とは何か」と問われ「何かによって女と決まるわけではない」と諭すシーンが挙げられ、山本師匠はそれがトランスの口から語られることに意味がある、女は多様だとのメッセージだと評します。
 いえ、じゃあそもそも「男が絶滅した」という設定はどうなっちゃうんでしょうか。「絶滅しなかった者が女」という明確な定義づけが、本作ではなされているんですが、それは。
 例えばですが、「基本、XY遺伝子の持ち主は生まれなくなった。が、どういうわけか例外的に生まれてくるXY遺伝子の持ち主はジェンダーが女性であった」などすればそれなりに作者の意図も反映されてるなと思えますが、別にそういう描写はありません。
「女は多様だ」と抜かしながら男のことは極めて安直に決めつけるフェミの矛盾がここにも露呈しているわけです。
 にもかかわらず山本師匠は本作は男を敵視しているわけではない、本作は人間賛歌だとおおせです。まるで包丁で五百回滅多突きにしておいて「殺意はなかった」と言う容疑者みたいですなあ。

 次、瀧波師匠の解説についても述べましょう。
 本書の中でもここが一番騒がれた箇所なので、部分的にでも読んだ方が多いでしょうし、ぼくの感想も被ってしまうのですが、まずタイトルが「横槍の尽きない旧世界より、愛をこめて」と題されているのが大笑い。
 ここで師匠は「女だけの街」論議において男たちが決まって「女だけで力仕事ができるのか、インフラを保てるのか」と横槍を入れてくることに文句をつけます。明言されてはいませんが、そこには「『俺たちを捨てないでくれ』との、男たちからの求愛」との被愛妄想も含意されているのでしょう。
 もう一つ、一番騒がれた箇所にもツッコミを入れておきましょう。

 だったらなんだというのだろう。女だけで暮らしてみたら非効率で、経済が破綻して、一代で滅びる。それでけっこう。なぜならそこに住みたい女性たちは、経済よりも子孫繁栄よりも何よりも、男性たちから加害をされずに生きていきたい、その一点を強く求めているからだ。

 まあ、いい気なモンだ、といった評がなされたと思いますし、ぼくもそれに賛成です。
 師匠自身「女だけの世界」を「村にあるのは緩やかな自治とささやかな医療」があるだけと評していますし、そんな中で素っ裸の市長は正気と思えませんし、そんなヤツを市長に選んでいる連中も正気とは思えませんが、「死んでもいいから男に加害されたくない」のでしょうか。
 本当に死ぬ覚悟ができているならそれはそれで一貫していますが、そうなんでしょうか。
 何だか近年、フェミがセクハラのゴールポストをどんどんどんどんずらしていったおかげで女性にAEDを使うことがためらわれ、重度障害者になってしまった女性について騒がれましたが、それに対してもやむを得ない犠牲だというのなら、一貫してはいるのですが。
 そもそも男の側は彼女ら、つまりフェミに対しては「横槍」と言うよりはむしろ「お願いだから一刻も早く女だけの世界へと旅立ってくれ」と言っているように、ぼくには思われるのですが。
 あ、でも幼女は連れて行かないようにね。彼女らは一代だけで終わってもいい、最後に残る若い世代がどんなに苦しんでも、自分たちの死後のことだからどうでもいい、と考えているようですし。幼女タンは男の加害のない中、食うものもなく苦しみ抜いて死ぬと思いますけど、よかったですね!
 また、そこまで言いながら以下のように言っているのもいい気なものとしか。

 新世界の女たちは、旧世界の女性の受難を知らない。生理痛に苦しむイナをケアしながら、ララは言う。「きっと旧世界でも、生理痛の女は丁重に扱われてたんだろうな」。

 正常な人間なら、ぽかんと口を開けて「はい、丁重に扱われてましたよ」と頷くばかりでしょうが、ここまで来ればおわかりでしょう、「旧世界では生理痛になった女は死刑だった」というのが瀧波師匠の信念なのです。
 何しろ「ささやかな医療」しかない村より非道いとなると、それくらいだったことはもう、疑うまでもありません。
 要するに全てのフェミと市河大賀のポスト同様、本作は100%妄想の産物なのです。

 しかしまー、何と言いますか、何より「やっちゃった」のは「レズが普通」描写ではないかなー、と。
 考えてもみてください。アンチフェミによる「男だけの世界へようこそ」が描かれ、それが男がみなホモという話だったら、誰もついていかないでしょう。
 女性一般のレズに対する抵抗感は男性一般のホモに対するそれに比べ、遙かに小さいと言えますが、それでもこれを読んで、「女だけの世界に棲みたい!」と思う日本人女性は圧倒的少数でしょう。
 ゲイの評論家伏見憲明氏は『プライベート・ゲイ・ライフ』において「レズを自称するヤツってほとんどフェミで、政治的動機でそう自称しているだけに見える(大意)」と述べましたが、上野千鶴子師匠の結婚を見てもわかるように、このレズ文化、日本のフェミにはほとんど根づいていないように思われます。
 本書において、ぼくがいつも指摘するような「男は要らないと殊更主張することにより負の性欲を満足させる」といったムードはあまり感じませんでした。おそらく実際にはそうした動機があると思うのですが、少なくとも本書には「ほら、ここにそれが隠れているぞ」と指摘するようなシーンはありません。
 何しろ、男性が絶滅した以上、そうした描写を入れるわけにもいきませんし(いや、第二巻では「生き残っていた男たちを虐殺する」なんてシーンが入るのかもしれませんが)。
 しかし、それこそが、つまり今のフェミブームを形作っている「男への欲情」に寄り添っていない点こそが、本書の敗因ではないかと。
 いえ、万一売れたらこちらの予想の外れ、ということになりますが、こりゃ売れんだろうなあとしか。