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 早いもので、今年ももう僅か十一ヶ月と二十日を残すのみとなりました。
 みな様、年越しの準備はお済みでしょうか。
 ……リクエストがありましたので一応、歌丸師匠のネタ、やってみました。

 さて、そんなわけで今年初のネタは『ズッコケ三人組』です。
 みなさん、ご存じでしょうか。本作は児童文学界では最大の売り上げを誇るミリオンセラー。イラストレーターに人気の児童漫画家を起用する戦略はこの時期、かなり先進的だったはずで、今にして思えばラノベの元祖、と言えなくもありません。
 タイトルからもわかる通り、主人公はハチベエ、ハカセ、モーちゃんの小学生男子三人組。
 それぞれに「意」、「知」、「情」の役割を受け持たせるという鉄板の布陣で五十巻を数える長期シリーズになるまで愛された作品です。
 そんな本作ですが、比較的近年に半年ほどアニメ化しただけで絶頂期にはあまりメディアミックスに恵まれず、そのせいか昨今では比較的地味な存在になってしまっています。ぼくも少年時代に、それもいくつかの作品を読んでいただけで、殊更本シリーズのマニアというわけではありません。
 なのですが、最近ふと表題にあるシリーズ第三作目、『ズッコケ(秘)大作戦』について思い起こしました。
 作者の那須正幹氏、かなり女性に対して辛辣だよなあ、と。
 考えて見ればシリーズ第二作目、『それ行けズッコケ探偵団』でも、冒頭でハカセが口の達者な女の子を論破する、という見せ場がありました。男子と女子の、遊び場の占有権か何かを巡る争いで男子が勝ったことを、優等生系女子がホームルームの場で不当に遊び場を奪われたと主張。しかしハカセが女子の方こそ不当であったと見事に論破するという展開で、痛快だったことを覚えています。那須氏、口のうまい女子に虐げられている小学生男子の心理をよくわかってますよ。
 そんな『ズッコケ探偵団』を読み終え、あとがきを見ると次回は恋愛ものとのこと。
 何だか甘酸っぱい期待と共にその次回作、『(秘)大作戦』を買い求め、ページをめくったら――。
 さて、ここからはネタバレです。知りたくない方はこれ以上、読まれませんよう。

 ごく簡単にあらすじを述べますと、三人組のクラスに美少女が転校してきて、モーちゃんを初めとしてみな、彼女に好意を持つところから話が始まります。もう少し詳しくお話ししますと、その前振りとしてスキーで転んで往生しているモーちゃんを、颯爽と現れたその美少女が助け、後日、運命の再会――という心憎い導入部が用意されているのですが。
 です、が。
 結論から言いますと、その美少女は「男たちを翻弄する悪女」でした。
 その子の話す華やかな実生活はみな、ウソ。実は彼女は、借金苦で夜逃げをして回っている家庭の子供であったのです。
 いえ、「悪女」ではありませんね。
 そのウソが「最後の最後に明かされ、一同びっくり」というオチであれば、この子も「男を翻弄する悪女」、「ビッチ」を名乗れたかも知れません。
 しかし、彼女が虚栄心からつくウソは、みな中盤でバレてしまいます。
 物語後半、彼女はまた夜逃げをしなければならなくなるのですが、それでも主人公たちには「私、悪のスパイ組織に狙われているの」と見栄を張ります。主人公たちはウソを承知で女の子のために活躍し、大人たちからお説教されるという泥を被る、というのが本作のクライマックスです(具体的なことは忘れましたが、離れ離れで暮らしている父親にひと目会わせてやるために、彼女と共に修学旅行を抜け出し、護衛を務める――といったような話じゃなかったでしょうか)。
 女の子のために泥を被る、修学旅行をエクソダスし、子供だけで小旅行を敢行する――小学生男子にとってこれらがいかに英雄的な、ドキドキワクワクの冒険であることか。本当、子供の心理を熟知してますよ、那須センセ!
 しかし……それは最後までその美少女が語る身の上話が本当であるか、それとも最初からウソなどつかず、不幸な身の上の少女として語られていれば、の話です。
 エピローグ。その少女から手紙が届くのですが、そこでも彼女は「スパイ組織の目を逃れて云々」などと書いているのです。彼女一人だけは、ウソがバレていないと信じて。
 この少女にベタ惚れのモーちゃんはともかく、ハチベエもハカセも中盤からは冷淡で、「よくこいつ、俺たちの住所がわかったな」とハチベエが漏らすと「仲よしのスパイ組織に教えてもらったんだろ」とハカセが突き放したようなことを言い、話は終わります(スパイ組織は敵対者どころかお前自身の生み出したもの、お前の子分だろう、というこのニヒリズム!)。

 あとがきには「ウソつきの子を、それもウソをつけばつくほどその子の本質が浮かび上がってくる子を描きたかった」とあるのですが、或いは深読みをするならば、「男は女に萌えの心を踏みにじられてなお、そのウソに騙されてあげ、彼女のために尽くさねばならない敗戦処理投手だ」とでもいった諦念こそが、この物語のテーマなのかも知れません。
 もし凡百の「女の子に憧れていたが彼女らも人間なのだと知り、少年たちはほろ苦い経験と共に一歩大人への階段を昇った」みたいな話にしたければ、美少女キャラを「裸の女王様」にする必要はなかったのですから。
 本書のテーマは、「ホモソーシャル()の勝利」です。
 例えばですが、仮にこの美少女の「女子力」、即ちウソをつくスキルがもう少し高ければ、この美少女は三人組の「サークルクラッシュ」というミッションに成功していたかも知れません。しかし彼女のつくウソはあまりにも稚拙であり、三人組はそこで冷めてしまった。
 本人だけが見ているこちらが恥ずかしくなるほど高慢に「いい女」として振る舞い、こちらがアゼンとしている様すらも「自分に圧倒されているのだな」と思い込み、いよいよのぼせ上がるが、見ている側は居たたまれなくなるばかり……目下、ネットのあちこちで見られる光景ではないでしょうか(まあ、彼女らの困ったところはそれでまだなお一定の信者を抱えているところですが)。
 三人組の「ホモソーシャル()の勝利」は、それはそれで彼らが小学校高学年であり、ある意味自然なことです。この年頃は男子も女子も、自らのジェンダーアイデンティティの確立のため同性同士で集まる、「ギャングエイジ」と呼ばれる世代なのですから。
 しかし成人してよりも男性に「ホモソーシャル()」を強いるほど、成人女性の「女子力」が低下しているとするならば、それはそれでちょっとまずい話なのではないでしょうか……?

 ――以上、子供の頃に読んだ記憶に頼って書いたので、細かいところで間違いがあるかも知れませんが、ご容赦ください。いえ、レビューブログや評論本なども読んだので、そこからのフィードバックもあるのですが(ラストのハカセとハチベエのセリフはそこからのものです)。
 ブログのレビューを探す内には、やはり「こんなギスギスした話でいいのか」といった感想も見つかりました。そんな中には、

那須正幹には自身の女性蔑視・女性嫌悪を露骨に作中に表してしまうという悪い癖があります。


 といった記述のあるブログもありました。
 果たして作者の中に「女性蔑視」の心理があるかどうかは、ぼくにはわかりません。
 上に書いたように美少女を「裸の女王様」にしてしまうその辛辣さは、確かに女性への「諦念」で満ちているとは思うものの、それは「蔑視」ではないでしょう。
 むろん、フェミニズムに倣って「ホモソーシャルな関係性も、女性に対するいかなる悪感情も、その全ては許されざる女性蔑視である!」とするのであれば、それは確かに「蔑視」となるのでしょうが。
 先に「本作は今では地味な存在だ」と書きました。メディアミックスに恵まれない、とも書きました。
 これは完全に想像なのですが、それは一つには、本作がホモソーシャル()だから、換言すれば徹底して「男の子視点」で描かれているからではないでしょうか。
『(秘)大作戦』に登場した美少女はストーリーを見ればわかるように完全に一作のみのゲストキャラで、またその存在は三人組から見た「客体」として描かれます。
 いえ、シリーズに渡って登場するクラスのマドンナ的な美少女キャラもいるのですが、それもあくまで客体として描かれるのみで、例えば怪事件を前に美少女キャラも三人組と行動を共に……といった展開はほとんどなかったように思います(第一作『ぼくらはズッコケ三人組』で「美少女二人組が事件をきっかけに三人組とつるむようになった」との記述があるのですが、まさに記述だけで実際につるむ場面は描かれませんでした)。
 翻って、何作目かでは、普段は三人組を遠巻きに見下している女子が、何らかのきっかけで三人組に興味を持ってこちらに歩み寄ってきた……といった描写があった気がします。逆に言えばその程度のことが貴重であるくらい、この三人組は女子と距離が遠いと言えるのです。
 しかしそれは、繰り返すようにギャングエイジの少年にとっては極めて自然なことです。以前も述べた通り、フェミニストは『ドラえもん』をしずかちゃんを客体として描いており許せないと糾弾しますが(源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのかhttp://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar537876参照)、しかしそれは『ドラえもん』があくまでのび太を主人公として、男の子の視点で描かれる作品である以上、当たり前なのです。
 それでもマドンナ役を物語世界に登場させるため、しずかちゃんは「何故か」ジャイアンやスネ夫と共に、空き地の土管の前にいる。これは『ドラえもん』が子供社会を戯画的に描いているからで、そこをもう一歩リアリティを持った描写にするならば男子と女子があまり接点を持たない、本シリーズのような描写にならざるを得ないのです。
 しかし、テレビメディア的にはそんなホモソーシャル()な世界観は女子のファンを呼び込みにくく、アニメなどにするには利が少ない、というのが当時の判断だったのではないでしょうか(近年のアニメ化はいささか時機を逸していた、と上に書きましたが、ウィキペディアによると案の定、女子キャラクターの出番が増やされていたそうです)。
 その意味で、『ズッコケ』はフェミニズムよりも前に、商業的判断で「黒歴史」化されたのだ、といった言い方も、できなくはありません。

 さて、件のブログについて、もう一つ興味深い記述がありました。
 今まで「現在では地味な存在だ」と書いてきた本作ですが、実のところここ十年、リメイクがなされているのです。四十代の三人組が活躍するというお話で、その名も『ズッコケ中年三人組』シリーズ。こうしたリバイバル企画がなされること自体、児童文学というジャンルでは恐らく前代未聞で、本作の人気を物語っています。が、しかし同時に「オッサンになった少年キャラクターを見たい人間がどこにいるんだ」との疑念も、湧かないではありません。
 事実、このシリーズには『劇画・オバQ』を思わせるとの感想が目立ちました。
『劇画・オバQ』は「十五年後、オバQが正ちゃんの下に帰ってきた。しかし既に大人になった正ちゃんたちとの間には埋まらない溝が生まれていた」という切ない話ですが、読み切りの短編であったため、番外編の、極端に言えばウソの未来であると考えられなくもないものでした。それに対し、中年三人組シリーズは去年で十作を数え、本年には新シリーズ「熟年三人組」の開始が予定されているという、本気度の違う正統派の続編。
 しかも、そこでは本来の「三人組」の後日談が描かれることもあって、いささかファンたちは複雑な心境でこれに接しているようです(『(秘)大作戦』の美少女も再登場する話があるそうです)。
 そんな中、上に挙げたシリーズを通し登場する美少女キャラ、荒井陽子が「中年三人組」でハカセと結婚する、というエピソードがあるのです。
 そこだけ切り取ればめでたい限りの展開なのですが、この荒井陽子は成人してよりはキャリアウーマンとしての道を歩み、しかしそのために行き遅れたという設定とのこと。
 先にも挙げた

那須正幹には自身の女性蔑視・女性嫌悪を露骨に作中に表してしまうという悪い癖があります。


 との評は本作に付されたものであり、レビューは

自立した女性として生きていた彼女は、その懲罰としてハカセごときと結婚されられてしまったのです。


 と続きます。
 表れているのは、ハカセを見下す、このブロガーの露骨な男性蔑視・男性嫌悪のような気もするのですが。
 むろん、本作については未読なため、勝手なことは言えません。或いはどう考えても理不尽な主張が、そこでなされていたのかも知れません。
 ……というわけでふと、今年の目標として「ズッコケ三人組シリーズを読破する」ことを思い立ったのですが、どこまで行けるかは未定です。何しろ問題の作品、『ズッコケ中年三人組age47』を読むには、その前に五十六冊を読破しなければなりません……。
 果たしてどうなりますことやら……。