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 さぁさぁ腐女子のお嬢ちゃん、よ~ってらっしゃい見てらっしゃい、楽しいBLが始まるよ、さぁおいでおいでおいで!

 ――以上、『ジャッカー電撃隊』で宮内洋がやっていた、紙芝居の呼び込みのマネであります。
 さて、ともあれこの表紙。
 萌え美少年が二人、そして意味深なこのタイトル!
 眼鏡のアオがマジメで面倒見のよいツッコミ君、ショタっ子のハルが天然のボケ役。
 ページをめくればもう一人、目つきの悪い校医の黒田先生が登場するとのことで、これはもうめくるめく何やらかんやらが期待できそうです。お母さんに見つからないように気をつけろ!!

 ――すんません、おわかりかも知れませんが本書、BLであってBLではありません。それは丁度、あなたの目の前にいる大川隆法が、大川隆法であって大川隆法でないのと同様に。
 要するに本書は『もしドラ』的な「萌え性教育コミック」。
 実のところ今回、本書を採り上げようとしたのは本書の監修者、岩室紳也先生の別な著作『ママもパパも知っておきたい よくわかるオチンチンの話』が、ちょっとネットで話題になっていたからです。

『思春期の息子に精通があった時どうするか』育児本の内容にひっくり返る人々「どんな地獄だよ」


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■本人は善意なので怒らないであげましょう

 ご覧いただければわかるように、話題となったのは「精通を白いケーキで祝おう」という、ブラックユーモアめいた提案。ネット民の反応は大多数が「マジキチ」というものであり、ぼくもそれに賛成です。
 多少、分析めいたことを言うならば、ここから見えてくるのは岩室先生の「男の子は自らの身体の変化に向きあう機会が少ない。向きあい、その成長を祝福される機会を作ってあげるべきだ」との男の子への愛に満ちた、またリクツの上では正論と言うしかない考えです。
 しかしいざ提案してみたら――否、「性教育界」という狭い世界の一歩外に出たら――マジキチという評価しか受けない。
 これは、何を意味しているのでしょうか……?
 そもそも女の子の初潮を赤飯で祝うこと自体、ある意味「女の子の成長を共同体で祝う」という、まあ成人式に近しい主旨の儀式です。しかし現代社会においてそうしたイニシエーションの役割は失われているし、女の子だって想像するに、今時はそうしたプライベートを家族とは言えど、詳らかにしたがらないでしょう。
 さらに初潮に比べ、性的な快感と直結する精通の方がやはり「プライベート度」、「秘めごとにしておきたい度」は高い。
 岩室先生の提言は、理念としては立派だけど、現実を見ない机上論と言うしかない。
 正直、ぼくはこの時点で岩室先生に少々の悪感情を抱き、ネタにしてやろうと尼で本書をポチったわけです。性教育の世界なんてフェミニズムの影響が大ですし、きっと香ばしい記述の連打なんだろうな……という、黒い期待と共に。

 ――さて、しかしすみません。
 件の本が届く前に、最初の本(『よくわかるオチンチンの話』)、また岩室先生の子供向けに書かれた性教育書『男の子が大人になるとき』をも図書館で借りてきて、読んじゃったのですが、それらには基本、あまり悪い印象は受けませんでした*1。男の子の性的なことに対する興味にも、ある程度理解ありげです。従来の性教育本では「性に関心を持つことは恥ずべきことではない」「マスターベーションは異常ではない」としながら、例えばポルノ的な男性の性への関心については否定、というダブルバインドが常でしたが、岩室先生の著作ではそこそこのバランス(ポルノを積極的に肯定もできないものの、否定もしないいい案配)で書かれているように感じました。
 そんなわけでやる気をなくしてしまったのですが、その後に届いたのが、上のBL性教育本。
 まあ、せっかく大枚はたいて買ったのでネタにさせてもらおうと、でっち上げたのが本稿でございます。

*1 もっとも前者には「元気なオチンチンを記録に残しておく」と(むろん健康管理のためとは言え)男児の性器を定期的に写真に撮ることを奨励する箇所もあり、「う~ん」と思わないでもありません。

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■ハル君とアオ君のセクシーショット。きゃーー!! 足がヘンな感じなのは気のせいだ。

 構成としてはまあ、上に書いた天然ショタ・ハルとマジメガネ君・アオのかけあい。いえ、ショタっぽいとは言えハル君、それなりのタッパで描かれてるですが、にもかかわらず第一話で「ぼく声がヘンになっちゃった、病気じゃない?」「それは第二次性徴だよ」ってのはどうなんでしょう? 何しろこの子、中盤辺りでようやっと精通します(ケーキで祝うシーンはありません)。もっとも、それに相応しいタッパで描いたら児ポ案件になりそうで、仕方ないのかも知れませんが。
「筋肉のお勉強を肉体を使って実地に」行っていて、アオ君に触れられ、「感じて」しまうハル君。ふたりの友情がぎくしゃくするように……。
 あぁ、来たよ。「同性愛」についてのウザいウンチクがどっかに挟まるだろうとは思っていたが……と思いつつ読み進めると案の定、解説役の黒田先生が現れます。
 が! 予想した「同性愛に偏見を持つな」的お説教は皆無。ここでいきなり「同性愛者は女脳」理論が展開されます。これ、フェミ的にはPC上正しくないとされることが多く、近年、あまり聞かなかった説なのですが、岩室先生、ノーミソ畑の人でここだけは譲れなかったのかも知れません(本当のところどっちなのかは知らん)。
 事実、性衝動などについて本書では男女の性差が強調されている印象です。まあ、男の子と女の子の性欲の違いを語らないわけにはいかず、このジャンル、フェミ的には鬼門とは言えます。
 他、アダルトビデオについてやや批判的な割に(若い世代の)セックスや風俗にかなり鷹揚なのはどうかとは思うのですが。

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■ハル君のセクシーショット。きゃーー!!

 ……まあ、とにかくそんな感じで、殊更に本書について「許せぬ」という読後感は持ちませんでした。
 しかし……読み終えてはたと気づきます。
 根本的な疑問だけど……そもそもこの本って、誰に向けられたモノ?
 岩室先生監修の「解説」部分は、まごうことなき「男の子向け」。
 が、漫画、そして解説に添えられるイラストは、まごうことなき「女の子向け」です。
 見れば帯にもまえがきにも女性向けである旨が明言されています。本書がどんな経緯で企画されたのかは知りませんが……できあがった見本本を見て、岩室先生、ひっくり返ったりはしてないのかなあ
 そもそも性教育と漫画には、本来親和性があります。と言うのも、子供に向けての性教育本というのは従来から多く出版されており、絵本形式、学習漫画形式のモノも大変に多い。そんなわけで岩室先生もころっと騙された(企画意図を理解していなかったとすれば、のことですが……)のでしょう。
 しかし上の『男の子が大人になるとき』と同シリーズで女の子向けに出された『女の子が大人になるとき』とを比べていただけるとわかるのですが、女の子向けは萌え絵――とまでは言わないまでも少女漫画タッチで描かれるのに対し、男の子向けはディフォルメ度が激しいものです。これはまあ、『コロコロ』に掲載されている漫画を見てもそうで、児童向けになればなるほどその傾向は増すはずです。
 少女漫画タッチというのもまあ、言ってみれば萌え絵と構造は近い、肉体を性的に描写した表現です(近年は不思議なほどに言われなくなってしまっていますが、萌え黎明期には「少女漫画は萌えの元祖」的な言説が盛んになされていたのです)。しかしそれに比べて男の子は身体イメージを観念的に捉えている……といったジェンダー差がそこに、既にラディカルに現れてしまっているわけですね。
 その果てに登場した奇書が本書であると考えると、男性の抱える困難さが見えては来ないでしょうか。

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■ふたりの仲が元に戻ってめでたしめでたし。「思春期には同性愛的な感情を抱くこともあるが、一過性のモノが多い」との説明がなされ、まあ無難な落としどころかと思います。

 例えばですが、ぼくは近年つくづく、「友情はBLの、ホモの下位概念になってしまった」と感じています。それはつまり、言語の位相では「男性」より「腐女子」の、或いは「ホモセクシャル」の勢力の方が既に勝っており、友情はもはや同性愛からのアナロジーでしか理解され得ないモノになってしまっている、とでもいったことです。
 この地球には、「男性」と呼ばれる生命体が存在します。
「男性」には「心」というモノがあるはずなのですが、その「内面」の吐露は、厳格を極める戒律によって固く固く禁じられています。
 支配者たちは歴史を修正し、発言者に恫喝の限りを尽くし、男性の表現を禁じます。
 この地球における最大最強最上のタブーが「男性の、表現の自由」なのです。
 稀に、そうした戒律を破ろうとする勇者も現れます。
 しかし、そうした者も「表現者」へと至る道は困難を極め――多くは「体制側」に取り込まれて洗脳を受け、結果、表現は観念的空想的なものへと変形し、「精通を祝うケーキ」といった歪な形を取ってしまいます。
 本書は勇者のリベンジの書と位置づけることができるのかも知れません*2が――その勇気ある試みもまた、「女性の査定した、ショタ漫画」という形での厳しい審査を経て、「何か、女性向き」のモノとなってようやっと、表に出ることを許されるのみだったのです。
「男性」の「内面」は「BL」という形でいったん、女性へと供物として捧げられ――その「解釈」を施すことでようやっと表に現すことが許されるのです。

*2 いえ、あくまで比喩であって実は本書の方が昔に出てるのですが。