結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2016年9月13日 Vol.233
はじめに
おはようございます。
いつも結城メルマガをご愛読ありがとうございます。
今年は本当に台風がたくさんやってきましたね。 現在も台風14号が来ているようです。
特にひどかったのは台風10号でした。 まるで道に迷ったようにうろうろを繰り返した上に上陸。 ウェザーニュースにはその動きを追った動画が掲載されていました。
◆台風10号追跡動画 迷走11日間を一気に1分で
http://weathernews.jp/s/topics/201608/300205/
台風の被害に遭った地域の方には、 心よりお見舞い申し上げます。
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最新刊の話。
『数学ガールの秘密ノート/やさしい統計』の初校ゲラ読みをしています。 今週末の初校読み合わせまで、ずっと初校ゲラ読みを続けます。
◆『数学ガールの秘密ノート/やさしい統計』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4797387122/hyam-22/
初校ゲラに対してレビューアさんからの指摘を反映したり、 気になっていた図のリライトをしたりといった作業はもちろん大切なのですが、 何よりも大事なのは、
新たな気持ちで頭から精読すること
だと思っています。
初校ゲラに書かれていることをまずは素直に読みます。 普通の気持ちで、読者になったつもりで読み進めます。 何か気になったらそこにマークを付けます。 そうしているうちに自然と、
・書かれている細部について引っかかる点はないか、
・章ごとの説明に大きすぎるギャップはないか、
・伝えようとしていることが全体として理解できるか、
などを考えることになるでしょうね。
《読者の帽子》を被って初校ゲラに対峙し、 《著者の帽子》をかぶり直して気になるところを直す。 そのように進めていくのです。
初校ゲラはアラが目立つので、 しょっちゅう引っかかります。これは本を書くたび、毎回そうです。 再校になってくるとスベスベ滑らかになるのですが、 初校ゲラはまだまだザラザラなのです。
初校読み合わせまで、ザラザラに耐えつつがんばります!
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チェックリストの話。
ふと、コマンドラインから使える「チェックリストプログラム」 を作ろうと思いました。名前は check とします。
たとえば、原稿をメール添付で送るとき、 以下のようなチェック項目があります。
1. バックアップする。
2. ファイルを添付する。
3. 送信アドレスをチェックする。
4. 感謝しつつ、送信。
ファイル送信前にバックアップを取っておくとか、 メール送信前にファイルを添付しておくとか、 一つ一つはあたりまえのチェック項目です。 でもチェック項目が増えてくると、忘れたりいいかげんになったりします。 そのため、check プログラムを動かして、 これらの項目を一行ずつ表示させて自分自身に「大丈夫?」 と確認させたらどうかと思ったのです。
仕組みは単純です。 チェックリスト一つはテキストファイル一つに対応させ、 チェック項目一つはテキストファイルの各行に対応させます。
そして、テキストファイルを決まったディレクトリ (たとえばホームディレクトリ下の .check ディレクトリ) に置いておくのです。
checkコマンドを引数なしで実行すると、 チェックリスト一覧が番号付きで表示されます。こんなふうに。
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0: 原稿送付
1: 定期的バックアップ
2: 一日の仕事終了
--------
次に、checkコマンドを番号付きで実行すると、 その番号のテキストファイル(チェックリスト)を一行ずつ表示します。 表示するたびに、Enterキー待ちに入ります。 たったこれだけなのですが、 チェック項目を確認するには十分ですよね。
公開するほどのプログラムではありませんが、 いちおう gist として公開しておきます。以下です。
◆何か行動するときのチェックリストをチェックする簡単なRubyスクリプト
https://gist.github.com/hyuki0000/4388f83c38d56945dc6c58611560c7c4
こういうのも、執筆中の『老いに備える知的生活』に関わる話になりそうです。
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「作者であること」の話。
インターネットで暮らすというのは、 自分の名前とidとアイコンに信用を乗せていく行為だと思っています。
便宜上「信用」と言いましたが、 その信用とは「信用できる」「信用できない」という二値ではありません。 また、一次元でもありません。 Aさんは、分野aでは信用できるけど、分野bではまったく信用できない。 そんな場合はいくらでもありそうです。
ネットで、他人の名前やidやアイコンを正当な理由なく使うのは、 非常に嫌悪される行為だと思っています。そのような行為をする人は、 いわゆる「アイデンティティ泥棒」(identity theft)になりかねません。
ネットで、 他人が描いた絵を自分のものだと言って(つまり盗んで) はばからない人がたまにいます。 あの感覚は結城にはまったくわかりません。 オリジナルの作者に咎められて逆に怒り出す(いわゆる逆ギレする) 人は驚きです。先日はもっとすごい人を見かけました。
そこでは、盗んだ人が、 「自分が広めているんだから、あなたはネットから絵を引っ込めなさい」 とオリジナルの作者に対して主張していました。 いったいあれはどういう心理なんでしょう。 まったく理解できません。
引っ込めろと言ってるのだから、 オリジナルの作者が誰であるかバレるのは困るのでしょう。 だから、作者というものの重要性を考えていないわけではありません。 それなのに、人の作品を盗む自分がおかしいとは思っていません。 それは、とても不思議なことだなあと思いました。 その人の中では「作者」という概念は、 どのように整合性が保たれているんでしょうか。
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「四六時中」の話。
何年か前、ヨーロッパ行ったときに、 Bluetoothのイヤフォン(+マイク)を片耳に挿して、 ずっとおしゃべりし続けている若者を街中でよく見かけました。 友達と電話しているわけですね。
歩きながらしゃべっている人、 スーパーで買い物しながらしゃべっている人、 友達としゃべりながらタクシー運転している運転手までいました。
何をそんなに四六時中しゃべることがあるんだろう。 友達とのおしゃべりでどれだけ時間を使っているんだろう…… そんなふうに思いました。
そのことを先日思い出して、はっ!と気付きました。
自分(結城)だって、 同じようなことをTwitterでやってるではないか! 朝起きてから夜寝るまで、ひっきりなしにツイートしてる。 さすがに仕事中は控えているけれど、 仕事の合間を見てはツイートしている。
それって、あのときにおしゃべりし続けていた若者と、 まったく同じだなあ……と思ったのです。
きっと結城がTwitterで知り合いとやりとりするのが楽しいように、 あの若者たちも知り合いとおしゃべりするのがよっぽど楽しかったんですよね。
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観点に注目する話。
旧約聖書(サムエル記上16章)にこんな一節があります。
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わたし〔神〕が見るところは人とは異なる。
人は外の顔かたちを見、主〔神〕は心を見る。
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ここに書かれているのは要するに、
人は、人間の外見を見るけれど、
神は、人間の心を見る。
という話です。 こんなふうにまとめてしまうと、 ありふれた教訓話みたいに聞こえるかもしれませんけれど。
この部分を少し応用して、
「見抜く目を持った人が見るところは違うよ」
と読み替えるとどうなるでしょうか。 上の聖書の一節では「人間を見る」話でした。 これは、いろんな成果物に応用ができるでしょう。
たとえば、プログラミング。 プログラミングに関する初心者がプログラムを読むときと、 熟練者がプログラムを読むときでは、観点(見る場所)がまったく変わります。
初心者は「こう書けば動くだろう」と思ってプログラムを書きます。 でも同じプログラムを見ているにも関わらず、 熟練者は「いや、そう書くとこういう場合に問題が起きるし、 メンテナンス性も悪くなる」と判断することはよくあるでしょう。
たとえば、学校のテスト。 生徒は「これで完璧だ」と思って答案を書きます。 でも教師は生徒が見逃したミスを見逃しません。
もしもあなたが何かの専門家ならば、 いえ、専門家とまでいえなくても、 何かに関する熟練者であるならば、
「初心者と熟練者は《観点》が違う」
という話には納得してもらえるのではないでしょうか。
同じ成果物が目の前に置かれているにも関わらず、 《観点》が違えば見えるものも変わります。 そして当然ながら、成果物に対する評価も変わるでしょう。
《観点》の違いこそが、初心者と熟練者とを分ける…… とまでいうと言い過ぎかもしれませんが、 あながちまちがってはいないのではないでしょうか。
そしてこれは初心者にとっては恐ろしい話でもあります。 つまり、 自分が初心者で、熟練者からアドバイスをもらうときに、 そのアドバイスの根拠が自分に「まったく見えていない」 可能性があるからです。
熟練者に見えているものが、 自分には見えていないとしたら…… 自分だけで成果物の良し悪しが判断できないということになりますね。 見えないんですから、直しようもありません。
これは恐ろしい話ですが、 逆に考えれば「学びのコツ」がここに隠れていますね。 つまり、熟練者から成果物に対する指摘を受けたときには、
指摘そのものを学ぶだけではなく、
その指摘がどんな《観点》から出てきたのかを学ぼう、
ということです。
このように、熟練者の《観点》を追うという態度は、 学びを大きく加速するコツではないでしょうか。 熟練者が持つ《観点》を自分のものにすることで、 たとえ熟練者からの指摘がないときでも、 自分自身で成果物を評価できるようになれば素晴らしいことです。
結城は、 書籍執筆中にレビューアさんからたくさんの指摘をいただきます。 一つ一つの指摘に対してレビューアさんに、 「この指摘はどんな《観点》から出てきたものですか」 と具体的に聞くのは時間的に難しいことです。 でも、結城はいつも、
「指摘の背後にある読者の《観点》」
に注目して指摘を読むように心がけています。
そのように心がけることで、 たった一つの指摘が何十倍にも価値を持つものとなるからです。
* * *
NEW GAME!の話。
最近アニメのNEW GAME!を観ています(アマゾンプライムビデオにて)。 これは、ゲーム会社に就職した女の子の物語です。
(ちなみに聞かれてもいないのに書きますが、 結城の推しキャラは、ひふみん・アハゴン・葉月さんです)
その中で主人公の青葉ちゃんが3Dモデリングで作ったキャラクタを、 上司のコウさんにチェックしてもらうシーンが好きです。
がんばって作ったものを上司にチェックしてもらい、 よければOKが出て、まずければリテイクになる。 そのシーンが好きですね。
もちろん青葉ちゃんはいっしょうけんめい時間を掛けて作るのですが、 入社したてなので経験もほとんどない。そのような状態で、 上司のコウさんの指摘をメモしつつ、 作り直し(リテイク)という指示を受け止める。
実際の仕事を通して、少しずつ青葉ちゃんが学んでいく姿というのは、 大きくはげまされますね。
結城もがんばるぞい!
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信頼関係の話。
二十年近くネットで活動して分かることがひとつあります。 それは、
「顔を合わせなくても、信頼関係を築ける場合はある」
ということ。つまり、 「顔を合わせること」は信頼関係を築くために必須の条件ではありません。 結城には、顔を知らないけれど信頼できる知人がたくさんいます。
その知人のうちの何人かは、 顔だけではなく性別も年齢も国籍も住んでいる場所も知りません。 でも、信頼している知人です。
信頼しているといっても(リアルでの知人と同様に)限界はあります。 何から何まで信頼しているわけではありません。 けれど「信頼している知人」といってかまわない人間関係は、 顔を合わせたことがなくても築くことができると思います。
もちろん、人間関係を築くために「顔を合わせることが無意味だ」 と言ってるわけではありません。 顔を合わせることは、信頼関係を築くためにいくぶんか寄与はしますが、 今後のためのとっかかりに過ぎないと思います。
ネットで知り合って、 十分な情報量をやりとりしてから会うのには意味があると思っています。 ネットでは外面は見えないけれど、 その人の考えていることが見える。 顔を合わせたときには外面は見えるけれど、 その人の考えていることはすぐにはわからない。 外が先か、中が先かという話。
あっと、念のために書いておきますが、 ネットで知り合った人と安易に会うのはたいへん危険ですので、 そこは十分にご注意ください(特に未成年の人)。
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では、今週の結城メルマガを始めましょう。
どうぞ、ごゆっくりお読みください!
目次
- はじめに
- 再発見の発想法 - デッドロック
- 新機能追加と指数関数的爆発 - 仕事の心がけ
- 執筆ノウハウは自分のために - 文章を書く心がけ
- Web連載と書籍化 - 本を書く心がけ
- おわりに