結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2021年6月1日 Vol.479
目次
- 顧客の時間を節約する - 仕事の心がけ
- 「完璧」と「中途半端」
- 社会人二年目、先輩の指示がうまく理解できない - コミュニケーションのヒント
- 「仕事ができない自分はダメな人間」と思う気持ちを切り換えたい - 仕事の心がけ
はじめに
結城浩です。
いつもご愛読ありがとうございます。
早くも六月ですね!
今年は何となく季節が早く推移しています。毎朝のように近所を散歩しているのですが、五月の中頃から紫陽花がよく咲いていました。
あなたは、いかがお過ごしでしょうか。
* * *
《危険》な数学ガールの話。
調べ物をするため、自分が書いた「数学ガール」シリーズや「数学ガールの秘密ノート」シリーズを読み返すことがたまにあります。
- ベクトルの内積をどんなふうに説明していたかな。
- 三角関数の加法定理はどこまで詳しく書いていたかな。
- 区分求積法の解説はどういう順番にしていたかな。
自分のそんな疑問をチェックするために読み返すのです。
それはそれでけっこうな話ですが、実はとても《危険》です。
なぜ《危険》か。
それは「ちょっと調べる」ために読み始めたのに、はっと気がつくと最後まで読みふけってしまうことが非常によくあるためです。
自分が書いた本なので、話題の提示方法や説明の順番などがとても心地よく、ついつい読み続けてしまう。気がつくと最後のページまで読んで「ああ、おもしろかった!……はっ、調べ物はどうなった?」となるのです。
時間が溶ける溶ける。溶けていく〜。
* * *
「ネットに落ちている」という表現の話。
ときどき「ネットに落ちている」や「ネットから拾った」という表現を見かけます。
たとえば「このプログラムはネットに落ちてたものを使っているんだよ」や「このイラストはネットからの拾い物です」のような言い回しのことです。
私は、この「ネットに落ちている」という表現はできるだけ使わないようにしています。その理由は、誰かが作った成果物に対する配慮に欠けた表現だと感じるからです。
どんなものでも「ネットに落ちてた」わけではなく、誰かが作り、誰かが公開しているものです。それを「落ちている」や「拾った」と表現することには抵抗があります。
言葉狩りをしたいわけではありませんし、このような表現を使っている人を見つけて糾弾したいわけでもありません。また、私はその表現を絶対に使わないし、使ったこともないぞ!と大声で言いたいわけでもありません。うっかり言っちゃったり書いちゃったりすることはあるでしょう。
そもそも、私がこの表現を気にするようになったのは、あるとき知人が「『ネットで拾った』という表現は好ましくない」と言うのを聞いてからです。そのときに初めて「なるほど確かにそうだな」と思い、それから意識するようになりました。
文章を書くことで生計を立てている身ですから、誰かが作った成果物に対する配慮は忘れないように心がけたいと思っているのです。
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それでは、今週の結城メルマガも、どうぞごゆっくりお読みください。
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