九十四年の十月も私は《大童》だった。

グリーンチャンネルで毎日ナマの競馬情報が見られるようになり、競馬漬けの毎日を過ごしていたら、四日に釧路で震度六の北海道東方沖地震が起きた。

私の両親はとても悲しんだ。長年コレクションしている陶磁器の半数が割れてしまったという。ウェッジウッドもミッドウィンターもマイセンもスージー・クーパーも割れたらしい。

それを知った健ちゃんの両親が、見舞いにとカップ&ソーサー、ディナープレートやケーキプレートなどが入ったノリタケのフルセットを私の実家に送ってくれた。

サッポロビール東京工場の跡地に恵比寿ガーデンプレイスが完成し、同時に開業したウェスティンホテル東京のパーティーに出席した。タイユヴァン・ロブションで食事し、ジョエル・ロブションでパンを買い、上機嫌で帰宅すると、健ちゃんが缶ビールを飲みながら野球中継をテレビで見ていた。

私が恵比寿での感動を話そうとしたら、健ちゃんは「しっ」と自分の唇に人差し指を立てて「早くご飯作ってくれよ」と言った。

パンが入った袋をテーブルに置いたら「米の飯」と言われた。

「今すぐ支度するから」

私は普段着に着替え、エプロンをし、恵比寿の三越で買ってきた刺身の盛り合わせを皿に移した。小皿に醤油を注ぎ、わさびを添え

「これ食べてちょっと待っててね」

と、言って出すと健ちゃんが笑顔になった。

まず、研いだ米を炊飯器にセットした。祐天寺の商店街にあるおでん種屋で買ったおでんを小さな土鍋で温めた。焼き豆腐を加えて少し煮込んでから溶き辛子を添えて、

「ご飯が炊けるまでもう少し待っててね」

と言い、テーブルに土鍋を置いた。

ステーキ用の肉を冷蔵庫から出し、海老にパン粉の衣をつけ、里芋入りの豚汁を作った。

健ちゃんは野球に夢中だった。テレビではセ・リーグの決勝戦が生中継されていた。健ちゃんの好きな巨人が、中日とプロ野球史上初の首位同率で、最終戦対決をすることになったという。巨人が優勝し、長嶋茂雄監督の胴上げを見ながら、健ちゃんは嬉しそうに海老フライを食べていた。

私はデザートの柿をむきながら、胴上げしている選手の中に見覚えがある顔を見つけた。二年前、甲子園で五打席連続敬遠された石川県の高校生は、巨人の選手として活躍しているらしい。

あの試合は徹さんとホテルのテレビで見たことを思い出した。

私は翌日、競馬を終えてから愛知に向かった。

名古屋で板尾さんと打ち合わせをした。板尾さんの会社では、客によって出すコーヒーが違うと知った。事務員がザッセンハウスのミルで手挽きした豆で淹れてくれたコーヒーが美味しくておかわりをもらった。これは上客にしか出さないものらしい。

コーヒーの味の決め手は豆の焙煎かと思っていたが挽き方も大きいようだ。私はお茶を入れてきたアルフィの魔法瓶にコーヒーを入れてもらい、常滑でボートの全日本選手権競走で植木通彦が勝つのを見た。

槇原敬之がコンサートツアーを始めたので、私は旅打ちしながら、生『SPY』を七回聴いた。マッキーはいつもステージの上で汗だくで歌っていた。素敵だった。

広告代理店に勤める若松さんが、スタジオ観覧できるよ、と話していたので「槇原さんが出演する時に行きたいな」と言ったら、本当に収録を見れた。椅子に座ってのトークでも、マッキーの顔からは汗が吹き出ていた。ボタンを閉めずに羽織ったチェックのシャツが似合っていた。

美穂が『HEY!HEY!HEY!』のダウンタウンが面白いというので録画して見るようになった。この番組で小沢健二を知った母は、「こんな男性と結婚してほしいわ」と言い出した。

母は、『今夜はブギーバック』も『痛快ウキウキ通り』も知らない。カローラⅡのCMで聞いたことがある程度だろう。小澤征爾を叔父に持ち、東大卒の育ち良さげなスマートな風貌に好感を抱いただけだった。

東京競馬場で行われた秋の天皇賞は、ネーハイシーザーが勝った。私は負けた。