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久野です。
今月5日発売の雑誌『歴史群像』12月号に、
インタビュー記事「ハワイからレイテまでを戦い抜いた戦艦乗り
海軍大尉小尾武敏」(p.132~137)を執筆しています。
現在95歳の小尾さんを初めて取材したのは3年近く前ですが、
今回はようやく貴重な経験を記事として書く機会を得ました。
ところが小尾さんは少し前に入院してしまって追加取材が困難になったので、
奥様にも御世話になりながら原稿を仕上げました。
http://rekigun.net/magazine/
大正11年(1922)上海の租界で生まれた小尾さんは、
父親の仕事の都合で名古屋の東海中学に進学しました。
東海中学(現:東海高校)は、海部俊樹元総理大臣をはじめ
多くの政治家・経営者・学者を輩出してきたところです。
東海中学在学中に小尾さんは、当時最高エリートとされた
陸軍士官学校と海軍兵学校に合格して、海軍(兵学校70期)を選びます。
432名中280名以上が戦死した同期には、
最初に特攻隊として出撃し最初の戦果を挙げた
関行雄中佐(戦死後)もいました。
日米開戦直前の昭和16年(1941)11月に
海軍兵学校を繰り上げ卒業した小尾さんは、
すぐに戦艦「比叡」に測的士として配属されました。
当時まだ戦艦を主力艦と見なす人も多かったので
栄えある配置を得たはずですが、
実は小尾さん本人は飛行機乗りを志望していました。
日本初の国産超弩級(巡洋)戦艦である「比叡」(「金剛」型二番艦)は、
ロンドン海軍軍縮条約で練習戦艦に改装されてしまいましたが、
条約失効によって最高速力30ノットで
空母機動部隊とも共同行動できる高速戦艦に生まれ変わっていました。
そのため同年12月のハワイ作戦では
同型艦「霧島」とともに真珠湾攻撃の機動部隊を護衛し、
小尾さんは皮肉にも戦艦乗りとして、
我が国最初の機動部隊による航空作戦に参加することになります。
計350機の大編隊による真珠湾攻撃で、
日本側は戦艦5隻/駆逐艦2隻/標的艦1隻撃沈、
戦艦3隻/巡洋艦3隻撃破という大戦果を挙げ、
世界の歴史を変えたと言われています。
戦艦中心で見ればアメリカ太平洋艦隊は壊滅ですが、
これを受けてアメリカ側でも、空母中心の艦隊編成が始められました。
その後の戦いでも「比叡」は機動部隊と行動を共にしますが、
空母を中心とした航空戦力こそ
海戦の主力であることが明らかになってゆきました。
昭和17年5月に小尾さんは霞ヶ浦航空隊で飛行学生となり、
志望した飛行機乗りの道をいよいよ進み始めます。
ここでは関行男も一緒でした。
ところが間もなく小尾さんは肺結核で海軍入院し、
飛行機乗りの夢が断たれました。
小尾さんは知るよしもありませんでしたが、
この頃ミッドウェー海戦の大敗北がありました。
主力空母4隻を失う大損害を負った大日本帝国海軍は、
戦時急造空母の建造に加えて、
旧式戦艦「伊勢」「日向」を航空戦艦に改装しました。
小尾さんは昭和19年4月、
その「伊勢」に左舷高射指揮官として乗り組みます。
そして10月、ダグラス・マッカーサー率いる
アメリカ軍が日本統治下にあったフィリピンのレイテ島に上陸。
「捷一号」作戦が発動され、
連合艦隊は総力を挙げてレイテ島に向かいました。
このとき「伊勢」は、我が国最後の機動部隊である
小沢艦隊に属していました。
しかしその前のマリアナ沖海戦や台湾沖航空戦で
熟練パイロットが底をついていて、「瑞鶴」以下4隻の空母の艦載機も
ほとんど戦力にはなりえまえせんでした。
小沢艦隊には、世界最大の戦艦「大和」「武蔵」を擁する
栗田艦隊がレイテ島に突入するのを助けるため、
空母18隻/艦載機1000機以上をもつ
敵機動部隊を引き寄せるオトリとしての任務が与えられていたのです。
結局このレイテ沖海戦で、真珠湾攻撃から
常に最前線で戦い続けた武勲艦「瑞鶴」含め
全空母が撃沈されてしまいます。
飛行機乗り志望だった小尾さんは「伊勢」から、
名実ともに空母機動部隊の最期を見届けることになったのです。
そしてよく知られているように、栗田艦隊がレイテ直前で反転したため、
オトリ作戦も実りませんでした。
また同期の盟友であった関行男大尉が、
このとき爆装ゼロ戦5機を率いて出撃(敷島隊)、
特攻攻撃で敵護衛空母を撃沈しています。
「あのまま航空隊にいたら、僕もこうなってたかもな・・・」
と小尾さんは言います。
世界史上初めて複数の空母を
同時運用する航空作戦を行なったのは日本であり、
そして空母機動部隊同士の海戦を行ったのも日本とアメリカでした。
小尾さんは我が国空母による最初と最後の航空作戦の場に、
戦艦乗りとして参加したのです。そして奇しくも「比叡」は
日米戦争で最初に(昭和17年11月)撃沈された日本戦艦となり、
「伊勢」は日本戦艦最後の戦いとなった
呉大空襲(昭和20年7月)で浮き砲台として対空射撃を行いました。
「常に海兵出が先頭に立たねば」
「今回が自分にとって最後の戦いになってもいい」
といつも思って戦いに臨んでいた小尾さん。
ここでは伝え切れないことも含めて、
『歴史群像』記事にはガッツリ書いていますので、
ぜひ読んでみて下さい
(ついでに言うと、付録のカレンダーもカッコいいです♪)。
当事者にしか分からない戦争の実相が、そこにはあります。
( 久野 潤 )
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