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もしも僕が頭上に広がる青の大きさに初めて感動した人類だったならば、それに「空」という名前をつけただろうか。そもそも海と同じその色を「青」と名付けただろうか。さらに言えば、自分が圧倒的に小さな存在に過ぎないことを時に激しく、時にやさしく波打ちながら教えてくれるその水を「海」と名付けただろうか。
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ものの名前について、自分と他人は一緒に見ているものを同じ名前では共有できているけれど、はたして全く同じに見えているのだろうか。たとえば葉っぱの緑にしても、同じ「みどり」という名前では合意できているけど、相手の見ている色は自分にとっての赤色なのかもしれない。人の目で見ることはできないのだからこれは絶対証明できない疑問だ。なんてことを若いときに考えたことがありました。
ものの名前や体験のトレースとかについては一度も疑問に思わず受け入れていました。いい名前だなあとか昔の人が言ったことって本当にその通りだなあとか、逆に感心さえしていました。人の感じ方ってさまざまですね。
でも、つむぎちゃんだったら空とか雲にどんな名前をつけるんだろうって一緒に考えてみるというのはとても面白い発想ですね。つむぎちゃんがどんな名前をつけるのかぜひ知りたいです。
小原信治(著者)
>>1
いつから空を空と、海を海と、青を青と呼ぶようになったのか、記憶の彼方に置き去りにしてしまったその瞬間を、これからその瞬間を迎える娘を通じて見てみたいと思っています。