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マクガイヤーチャンネル 第47号 2015/12/28
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こんにちは。いよいよ2015年も押し迫ってきました。この年の瀬にやることがいっぱいで、なかなか『Falout4』をプレイする暇がないのがストレスです。
前回の放送「Dr.マクガイヤーのオタ忘年会2015」は如何だったでしょうか?
オートファジーについては喋る時間が足りなかったのですが、皆の反応も良く、昨年と一昨年に続いて良い番組になりました。
初めてアシスタントを務めてくれたののみきさんも最高でしたね。「彼女のおかげでメジャー感が出た」とは遊びに来てくれたしまさんの弁です(笑)。
今後の放送予定ですが、以下のようになっております。
○1/9(土)20時~ (日時が変更になりました。ご注意下さい)
「マクガイヤーゼミ特別編 しまさんpresents 2時間でなれる編集者講座」
新春第一回は特別編。
現役編集者であるしまさんが編集者の仕事についてレクチャーします。
本の作り方から編集者あるあるまで、普段はアシスタントを務めているしまさん主役のスペシャル回です!
○1/28(木)20時~
「最近のマクガイヤー 2016年1月号」
いつも通り、最近面白かった映画や漫画やについて、まったりとひとり喋りでお送りします。
その他諸々について語る予定です。
以上、ご期待ください。
さて、今回のブロマガですが、連載『遺言』をちょっとお休みして、『スター・ウォーズ』関連で、ニコ生で喋りたりなかったこと3点について語らせて下さい。
1、おれと『スター・ウォーズ』
私が初めてスター・ウォーズを観たのは小学生の時分でした。ビデオでもDVDでもなく劇場で、『ジェダイの帰還』でも『ジェダイの復讐』でもなく『Return of the Jedi』を観ました。エピソード6ですね。
その時、私は父親の仕事の関係でアメリカに住んでいたのですが、劇場は老若男女の観客でいっぱい、とにかく劇場の前で並んだことと、上映中やたらと騒がしかったことが強く記憶に残ってます。
アメリカと日本では、映画の見方が全然違うのです。映画に連れていってくれた親父に後で聞いた話によると、「Shoot! Shoot!」とか叫んでいて、笑ってしまったそうです。そういえば周囲で叫んでいる同年代の子供達の真似をして、そういう振る舞いをしたような気もします。
ただ、本当に驚いたのはその後です。
映画で初めて『スター・ウォーズ』を認識したので、Kマートやターゲットといったスーパーに行くと、『スター・ウォーズ』の玩具やらグッズやらが置いてあることに、やっと気がつきました。
この玩具やらグッズやらが、映画公開後も、全く無くならないのです。それどころか、新製品まで発売されます。ハロウィン前には紙とビニールでできたスター・ウォーズのコスプレセットみないなものが並び、ケーブルテレビでは毎週のように映画本編が放送されます。日本では、スーパー戦隊やウルトラマンの玩具が、放送終了と同時に瞬く間に売り場から無くなってくのを目の当たりにしたり、いい年こいたオトナがコスプレするのをみたことが無かったりした(小学生なので、コミケに行ったことが無かったのです)ので、ものすごく新鮮でした。
映画の内容でいうと、冒頭に出てくるジャバの宮殿が印象深いです。ロボにエイリアンに巨大モンスター、おまけに少しトウが立っているけれども女奴隷までいるではありませんか! あれこそ男の夢そのものです。
そうそう、ジャバがエイリアン語を喋っていて、英語の字幕が下に出るのも面白かったです。アメリカは識字率が100%じゃないので字幕が出る映画は珍しいのですが(というのも小学生の自分は英文の読み取りが不得意だったのです)、それでもやるというのは何らかの理由がある筈です。私が住んでいたカリフォリニア南部はヒスパニックが多く、カリフォルニアの北部モデストで生まれてロサンゼルスの大学で学んだルーカスにとってはメキシコとかスペイン語ってこんな印象だったのかなーと、タトゥーインの砂漠に居を構えるジャバをみて思ったものです。
もう一つ、強く印象に残ったのは、ヘルメットを脱いだダース・ベイダーの姿でした。全身黒ずくめで、いかにも悪そうな姿形をしたダース・ベイダーは主人公のライバルで、ラスボス的な存在に違いないと思っていたのですが、まさか主人公を助けるなんて! 親父がこの映画に自分を誘ったのは、もしかしてこの場面をみせて、おれはいつでもお前の見方だということをアピールしたいからでは? なんて邪推したりしちゃいました。嫌な子供ですね。
……が、その後、無印スター・ウォーズ(エピソード4)と『The Empire Strikes Back』(エピソード5)を観て、やっと意味が分かりました。ダース・ベイダーは主人公の父親で、主人公はエピソード5でやんちゃした結果右腕を失っていて、エピソード6にて父親の中に自分と同じ種類の苦悩や葛藤だらけの人生をみたのですね、で、それが親子の和解に繋がる――そういう構造を持った話であることが段々と分かってきました。
段々と分かってきたのはそれだけではありません。私はオタクなので他の映画や小説や漫画なんかも、その後浴びるように消費してきたのですが、『スター・ウォーズ』という作品は宇宙船やロボットが出るけれども、決してSFなんかではないということが分かってきました。どちらかといえば『指輪物語』や『ゲド戦記』といったファンタジーに近いです。
また、『隠し砦の三悪人』や『バルジ大作戦』は確かに元ネタの一つですが、一番大事な元ネタは神話でした。ルーカスがスター・ウォーズの脚本を書く際は神話学者のジョーゼフ・キャンベルの著作を参考にした、なんて話も聞きましたし、ジョーゼフ・キャンベル自身が『スター・ウォーズ』について「神話無きアメリカの神話」などと評していることも知りました。
(ジョーゼフ・キャンベル自身は『スター・ウォーズ』について「神話なきアメリカの神話である」と言っていましたが、ポップカルチャーがまるで神話のように扱われるさまを始めて目にした、と表現すれば私の驚きを理解して貰えるかもしれません)
『スター・ウォーズ』のテーマとは何でしょうか? 私のみたところ、それは「内なる自分との対決」です。宇宙戦闘機でドンパチやったり光の剣でチャンバラやったりしますが、物語としての『スター・ウォーズ』のテーマはかなり精神的なものです。
で、「内なる自分」とは心の闇であったり、もう一人の自分であるところの血をわけた父親であったりします。『指輪物語』や『ゲド戦記』でも最大の敵は指輪の誘惑に負けそうな自分の心であったり、自分の「影」であったりしました。
この種の物語の場合、もう一人の自分や父親を倒すことがハイライトになります。いわゆる「父殺しの物語」ってやつです。最も有名なものはギリシア神話のエディプス王のお話で、エディプス・コンプレックスの語源にもなりました。
『スター・ウォーズ』の凄いところは、「父殺しの物語」である筈なのに、父を殺さないばかりか、最後に和解するところだと思います。しかも、これは単なる思いつきではなく、上述した右手機械化や、ジェダイやシスの師弟制度や、フォースの暗黒面といった設定や演出を用いて、最後の最後の葛藤と和解に向けて積み上げていきます。
しかもしかも、単に神話や物語の定形の逆をやったというわけでも無さそうです。ルーカスの父親は生まれ故郷のモデストで一番大きな文房具店を経営する厳格な父親だったそうです。自分の店を継いで欲しいルーカス父は町を出て大学に行きたいルーカスに大反対します。この体験がエピソード4の、タトゥーインを出て宇宙アカデミーに行きたいルークの姿に反映されてるのは有名な話です。その後、『スター・ウォーズ』の公開で(一応の)成功を得たルーカスは、きっと父親と和解したのでしょう。
エピソード1から6までを通して観ると、それまで「命と同じもの」と言われたライトセーバーを棄て、父を救うと共に救われるルークの姿に、そのようなことを感じてしまいます。
まぁ、『指輪物語』で、何かを得るためではなく指輪を棄てる為に冒険し、最後の最後に義父が救った(見逃した)ゴクリに救われる主人公――という構成に影響を受けた、という理由もあるかもしれませんが。
『スター・ウォーズ』は何度も何度もテレビ放映されました。初見では単にダース・ベイダーの中身がキモいタコ親父であることに驚いていた私ですが、自分の知識や読書体験といったものを総動員すると、その度ごとに新しい発見がありました。自分にとって『スター・ウォーズ』という映画は、成長すると共に映画や物語の見方というものが自分なりに分かるようになる、一つの指標のようなものでした。
きっと、この先作られる新々三部作や、ディズニーが権利を持っている限りまず間違いなく作られるであろう新々々三部作(エピソード10~12)も、自分が年をとっていくに連れて、また違う見方をするようになるでしょう。
そういえばアニメ版の『ゲド戦記』も父殺しから始まりましたね。宮崎駿の息子が最初に監督する映画で父殺しのエピソードを描く――あれは最高のつかみだと思ったのですが……つかみだけだったのが残念なところです。
2、世界を救うのは童貞
新々三部作第一作の公開直後である現在、新三部作――エピソード1~3に対する評価は地に落ちています。「CGが稚拙」「キャラクターが子供を受け狙ってばかり」と、ちょっと検索しただけで散々な評判を目にします。
確かに旧三部作が映画界へ与えたインパクトに比べれば、新三部作の価値というものは相対的に小さなものになるのかもしれません。でも、自分はエピソード1~3もそれなりに好きだったりします。ケバケバしいおもちゃ箱の中身をひっくり返したような世界観が、なんだか魅力的に感じてしまうのです。
何よりも、一議員でしかなかったパルパティーンが権力を握る過程がじっくり描かれていたことに価値があると思います。あれは外部からの脅威を声高に唱えることで、集団内部での権力を増し、遂には独裁者にまでなれるという、歴史的手法です。フランス革命がナポレオンを生み、世界恐慌がヒットラーを生み、911がネオコンを生んだ、みたいなことです。自作自演という意味では満州事変やベトナム戦争のトンキン湾事件とも重なります。
新三部作の凄い所は、このようなファシズムや独裁者の誕生の定型を、神話的構造を持つ作品において、エンターテイメントの形でやりきったということではないでしょうか。他の作品で真正面からこういうことをやったのは、ゲームの『タクティクスオウガ』くらいしか思い浮かびません。
世界で何億人もの人間が観る映画がこのようなテーマを扱うということは、少なからず世界のありように影響を与えているのではないでしょうか――大げさでなく、そう思います。たとえば、中国や韓国への脅威を訴えることで自らの権力を拡大させようとする政治家や文化人やネトウヨをみて、分離組織に対する脅威を煽ることで権力を拡大していったパルパティーンを連想する――といった具合です。
また、脚本を書いたルーカスは「単に独裁者が権力を握るパターンというのを踏襲したに過ぎない」というようなことを言っているのですが、イラクに侵攻した911以降のアメリカの姿を重ねてしまうのは、それほどうがった見方ではないでしょう。何しろ、砂漠や荒野の惑星を力で抑えつけていた支配者が、穴ぼこだらけの惑星に逃げ込むのですから。どうしても小穴に隠れていたサダム・フセインの姿を連想してしまいます。
ただ、新三部作の最大の魅力というのは、やはり旧三部作との比較によって生まれると考えます。この二つは要所要所で似たような展開を経たり、似たようなキャラクターが現れたりと、どうぞ比較してくれと言わんばかりの作りです。
では、同じような道筋を歩んだにも関わらず、何故アナキンとルークの結末はここまで対照的なのでしょうか? 何故アナキンは暗黒面に墜ち、何故ルークは世界を救うことができたのでしょうか?