ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞は、「文学」の世界に住む人々に驚きを与えている。日本で、「純文学」と「大衆文学」との差があるように、何となく「high (高度)」と「 low(低俗、大衆的)のカテゴリーがあったが、この垣根を払った様だ。
今回の受賞で興味深いのは、日本の新聞のコメントで、「反戦」等の政治性を強調するコメントが多いのに対して、米国ではニューヨークタイムスは政治性にほとんど言及しないだけでなく、授与に政治的要素の欠如が今回の特徴としている点だ。
「近年、ノーベル財団は著名な人物よりも明確な政治的メッセージをもち、比較的無名の人を選ぶ傾向がある(In previous years, writers and publishers have grumbled that the academy seems to favor obscure writers with clea
コメント
コメントを書く事物、言動にとらわれ、こだわり、偏るのが、我々人間であるが、「風が吹く」という現象、すなわち,「有とも無ともいえない」絶対性の本質に目を向け、風の本質「吹く」ということが分かれば、すべてが解決できるということでしょう。
肌に感覚的に風を感じれば風が吹いていることを実感する。感じない時は、扇子を使う、扇風機を使って、風を実感することができる。風の本質は、吹く、吹かないを超えているが、見聞覚知する範囲で、物事を判断しているに過ぎない。
戦争と言ったって、そんなものがあるわけでなく、条件が整えばなくなるわけであり、人間の欲望のコントロールをいかにして成し遂げるかが問われているともいえる。視点によって、「反戦歌」ともいえるわけであるが、人それぞれの判断基準がどこにあるかによって、政治性云々につながるのでしょうか。米国においては、大きな思想の対立はなく政治性が問われないが、、日本では、毎日新聞の視点のように、思想の対立が厳然として存在しているといえる。
ボブ・ディランがノーベル文学賞と聞いて、大抵の人は意外と感じ、そして納得したのではないだろうか。
「風に吹かれて」に影響を受けた世界中の若者たちが、ピーター・ポール&マリーの「花はどこへ行ったの」やジョンレノンの「イマジン」なども大ヒットし、日本でも数多くの反戦フォークソングが生まれた。米軍がベトナムから撤退せざるを得なくなった原因の一つとも言えるだろう。
その後、勢力を取り戻した軍産複合体が、中東やアフリカで戦争を引き起こし、あたかもイスラム教徒=テロリストといったムードまで作り出して世界を恐怖に陥れている、この時点でのノーベル賞。この決定をしたノーベル財団に拍手を送りたい。
私みたいに反戦、反ネオコン・シオニズムの立場で世界の紛争を追っかけているものにとってボブ・デイランの受賞はノーベル財団の時宜を得た粋な計らいだと思えてなりません。私は素直に感動しました。
中国のノーベル文学賞受賞者の莫言が数年前に村上春樹のほうが自分よりノーベル賞にふさわしいと謙遜気味に吐露していましたが、やはり、当時も、ノーベル財団は莫言の政治性を取ったと私は思いました。莫言の発言で村上春樹は世界の注目を浴びてますが、今回はジャンルの違う表現者のボブ・デイランに賞をさらわれ、村上小説を好む私にはショックです。私は村上春樹の小説は政治性の薄さ故に好きなんです。村上春樹は政治性に力点を置くノーベル賞には今後も縁がないのではないかと慨嘆せざるを得ません。
21世紀になってニューヨーク・タイムスはネオコン・シオニズムの戦いを扇動する役割を何のためらいもなく鋭意務めていますので、ボブ・デイランの受賞は苦々しいことでしょう。今回の受賞について「政治性が無い」との嘘の強弁を敢えてしたと私は判断して居ます。