日本は文明国か 考古学者シュリーマン
ハインリヒ・シュリーマンは1822年生まれ。ドイツの考古学者。トロイアの遺跡を発掘
1865年に日本を訪問。『シュリーマン旅行記 清国・日本』(エス・ケイ・アイ、1991年)からの引用。
帰るとすぐに、友人達は、私が日本をどう見たか尋ねるに違いない。私のほうは答える前に、こう問わざるを得ない。すなわち「君は文明という言葉をどのように理解しているか?」と。
もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人は極めて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上に行き渡っている。シナを含めてアジアの他の国では女達が完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができ
コメント
コメントを書く私たち日本人は、何をよりどころとして、生きていくべきか、自己追及ができていないということに尽きるのでしょうか。
生き方を指し示しているのは、宗教であることは間違いない。宗教の本質は、キリスト教であろうが仏教であろうが、「一心」が、「偏ることなく、こだわることなく、とらわれることなく」=「大自在に大活現成」具現化することであると理解が進めば、組織、地域、政党に所属していても、自由に発言することができる。現在の日本の組織、地域。政党などに、自由な雰囲気があるかといえば、「NO」である。足元を見つめることを怠って、自公が横暴だといっているだけでは、道が開かれないといえるのでしょう。体制、個人を超えた真実体が分かれば、宗教的慈悲、共生意識が根本的理念となりえるのですが、宗教無視し、自我の領域を超えられなければ、致し方ないのでしょう。宗教と言っても、「創価学会」など個別宗教を言っているのではありません。
> 政権が抑圧的になった時、それを跳ね除け自由に考える力があるだろうか。
大方の「私達」には無いでしょう。自由に考える力も日頃の訓練、あるいは習慣によるものと思いますが、日本では生まれてこの方 そうした力の芽を摘まれたり、力を殺がれる目に遭うのは数知れません。
一方、自由に考える力を鍛える機会、習慣づけるための刺激は殆ど無いままでしょう。特に今日日は「そんな力など日常生活には不要」と切り捨てているかの如くです。
日本の名立たるメーカーが軒並み経営不振~大リストラ断行が報道されてきましたが、「道を間違えた」衰弱した経営陣に対して、多くの社員が自由に発言し軌道修正を迫っていたなら、そこまでの致命傷には至らなかったのではないかと推察します。しかし、3.11ほどのショック療法でも「自由に考える力」を取り戻せなかったのですから、今の日本人には無いもの強請りという他ない気がします。