国語学者の金田一春彦さんに初恋の回想がある。

旧制浦和高校に入ってまもない初夏のこと。

学生寮から東京に帰省したとき、

近所の道で可憐(かれん)な少女ににっこり挨拶(あいさつ)された。

〈魂が宙に飛ぶというのはこういうときだろうか〉(東京書籍『ケヤキ横丁(よこちょう)の住人』)。

恋文をしたため、

少女宅の郵便箱に託した。

やがて返信が届いた。

〈私の娘は、

 まだ女学校の一年生である。

 貴下の手紙にお返事を書くようなものではない。

 貴下は立派な学校に入学された前途ある方である。

 どうか他のことはしばらく忘れて学業にいそしまれよ。

 少年老い易(やす)く…〉

何年かして応召するとき、

見送りの人垣のなかに少女の顔を見つけた。

金田一さんが少女と初めて言葉を交わしたのは、

それから30年余り後のことである。