夏目家の猫も名前がなかった。漱石は「猫」と呼んでいたという。飼い犬には「ヘクトー」というギリシャ神話の英雄にちなんだ立派な名前があった。主人の文名を高めた功労者の割には冷遇されていたように見えるが、そうでもない。
〈眼の色は段々沈んで行く。日が落ちて微かな稲妻があらわれるような気がした〉。
『猫の墓』と題する一編には死の床にあるらしい猫の、瞳の色の移ろいが描かれている。そばにいて、じっと見つめていたのだろう
漱石が門下生4人に猫の死を知らせたはがきのうち、所在の不明だった1枚が所蔵者から東京都新宿区に寄贈されたという
俳人の松根東洋城に宛てたもので、1908年(明治41年)9月14日の日付がある。黒枠で縁取られた文面は〈逝去〉〈埋葬〉の事実を告げ、〈御会葬には及び不申候〉と結ばれている。短いながらもユーモアのなかに哀惜の情がにじむ名文である
瞳に浮かんだ稲妻の光を忘
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吾輩は猫である。名前はまだない。
全身黒ずんだ中に虎斑の歩く波をしており、「福猫」といわれ、大事に育てられたようである。家族に可愛がられながら、最後まで名前は「ネコ」である。何か、海外で花の名前を聞くと、「花」という返事が返ってきたのを思い出す。
「稲妻」の意味するところは不明であるが、漱石は猫が本当に好きでなかったのであろうか。「吾輩は猫である」で印税がたくさん入っており、「ネコ」のことを思い出すたびに、お墓の中から、「お前たちの行動はいつも見張っているぞ」と、恫喝されていたのでしょうか。
>>1訂正
「歩く波」は「ある毛並み」に訂正します。
海千山千が跋扈しているであろう外交情報分野がご専門ながら、元来 斜に構えるところがない孫崎さんならではの引用でしょうか。あるいは、私など絶対発音できない きゃりー何たらとか、もうそれだけで聴く気がしませんが、孫崎さんはそうでない柔軟性をお持ちだから?
この随筆も、有名作品の手前、敢えて名無しにしただけでないかと訝ってしまいます。飼い猫を「猫」などと呼んでいたなら益々そう思う。「以て瞑すべし」に至っては人間のご都合主義もいいところでしょう。
いつかスイス人の友人が「ハイジの家」を訪れる日本人多いことを冷めた感じで不思議がっていました-「ハイジは実在しないのに」と。やはり、自分を気持ちよくする幻想に酔い痴れ易い国民性故か。
光を失いつつある眼に稲妻があらわれる という表現は、死にゆくものの描写として、深い観察眼と情感がともに感じられ、なにか心の深いところに落ちてくる感じがする。
加藤幸子に「海辺暮らし」という短編がある。水俣病とおもわれる病気による主人公の死が暗示されて小説は終わるが、その最後の部分はこうだ。
【お治婆さんの視野がしだいに狭くなり、中心に細い光のリボンが残った。闇を縦に切り開いたその光の中に、猫だけがいつまでも坐っていた。】
昔この小説を読んだとき、この部分に強くひかれた。水俣病の症状としての視野狭窄もうけてはいるだろうが、それだけではない厚みを感じた。今回、漱石の表現にその起源があるのだとわかり(今のところ自分でおもっているだけだとおもうが)、腑に落ちた気がする。