A-1春名幹男『日本人の原爆の舞台にしたアメリカ』(月刊日本12月)
・広島・長崎への原爆投下は実験の側面があった。
・戦争が終ると、アメリカの戦略爆撃調査団がいちはやく広島、長崎を訪れ、レポートまとめ。
 彼らの調査の結果、通常の高性能爆弾や焼夷弾を使って広島程の死者を出すにはB29が210機、長崎程の死者を出すには120機必要がわかった、
副団長のポール・ニッツィはこうした事実が戦後の核戦略に大きい影響を与えたと書いている。
 防空壕、ガラス窓等の効用を調査→シェルター建設へ。
 米国は広島、長崎でなくなった人の臓器を取り出し、調査の為アメリカに送っている。
・(春名氏は『ヒバクシャ・イン・USA』書く)
ネバタで実権。17万人が暮らしていた。実験で白血症→死亡。
 米国政府は核兵器が使用された戦場で軍事作戦を展開することを念頭に、核実験場の真っただ中で演習。
 クーバー氏は1957年8月31日ネバタで