進藤榮一著『アジア力の世紀』より:
「アメリカン・フットボールーアメフトと略称されるアメリカの国技だ。対する日本の国技は
相撲である。
この二つの国技の違いに、両国の外交文化の差が集約されている。
私はその差を、最初の留学先、首都ワシントンで、クラスメートと初めて練習試合をした時に痛感した。
「ボールは左に投げるふりをするから、お前は右に回り込め。そしてボールを取ってすぐ、敵の裏をかいて今度は左端のジョンに飛ばせ。」
試合開始前、綿密な作戦会議を行う。ハーフタイムごとに戦略を練り直す。まさに戦略と謀略ゲームである。 しかも重くて分厚い防具をつけて戦う。そして超ミニの華麗なチアガールはフィールドに繰り出し戦意を高揚させる。まさに重装備とソフトパワーで戦うゲームである。 対する日本の相撲は、まわし一本以外、何もつけない。土俵に塩をまき、不正をせずに技を競い合いますと観客の前で誓う
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スポーツは、個人競技と団体競技があり、自ずから重視される視点が異なってくる。また、日本の時代劇と西部劇をみると、相似性が垣間見られる。国技で、外交文化の差を明確化されたのでしょう。
論点は、個人の役割が組織の中で発揮されることによって、全体の力が相乗的に増加する組織であるかどうか。個が大切にされているかどうかである。
同じ様な事例が戦争時日本にもあったが、それは特攻隊のように個人的犠牲があって成り立つ戦術であり、戦いを綜観した戦略性にかけていたといえる。
TPP 交渉では、米国の主眼は農業ではない、金融緩和などの規制緩和である。日本の主眼は農業であり、製造業であり、圧力の強い団体の主張が重視され、声の少ない業界は譲歩の対象になる。
国をどちらの方向に持っていくのかによって、戦略が異なるのであるが、米国と同じ方向(同質化)を目指す政府の戦略は、日本の独自性があるのかないのか、農業以外は、皆目分からない。農業も他国との合意が得られなければ、全体として、日本の主張は通らないことになります。米国を相手にするときは、米国の主張を押さえ込む主張をする野党がないと、米国に従うしかなくなる弱い政府になってしまう弊害は否定できない。対米国においては、ネジレがないのは、大きなマイナスといえる。
根本的には、民族の特殊性によるのか、大陸的なのか島国なのか、分からないが、相手の心を読む力も大切ではあるが、議論を戦わす風土が出来ないと、綜観的見方が育たないし、相手を尊重する見方が出来ない。したがって、国益を目指すことが出来ない。法人税減税などといって、財政赤字解消の大目的がどこかに飛んで行ってしまった。
日本人、ことにその知識人は、外国との軋轢を論じる場合、すぐに持ち出すのが「文化の違い」である。日米間の外交交渉や経済に関する問題を考えるのに、アメリカンフットボールと相撲のスポーツとしての違いを持ちだすのはその典型である。なぜ具体的な問題点を理論的に議論したがらないのか。私はそこにいわゆる日本の知識人の論理性をなさを感じる。アメリカ人はこの点を嘲笑っていることを、ご存じだろうか。
相撲とアメフトと言うのは極端な比べ方かもしれませんが、自分はまさに相撲型の人間と納得。
外国とのお付き合いをするばあいに文化が基礎になってくると言うのは当然のことです。私には外国人の友人が一人しかいないのでおしなべて言うことはできませんが、その交流の中では「文化の違い」がお互いの土俵であったと思います。分化の違いは軋轢にもなるし、面白さにもなります。外交も経済も最前列には人がいて、人と人が話をすることからすべては始まる訳です。それぞれの人の背景が交流に反映してくることは当然のことです。アメリカ人は別に嘲笑ってなんかいないとおもうけど。
孫崎さんの今日のメールの中の下から2行目の「西京寺」の意味がわかりません。教えてください。
戦争の最初の犠牲者は真実である。アイスキュロス
嘘だけが国家権力を必要とする、真実は自身の力で立つ。トーマス=ジェファーソン
古典の中に既に留意すべきことは書かれている。道具を使うことが文明人の証なら知識というソフトを軽んじる日本人は野蛮人なのではないか?
跳舞草さんへ
私も理解に苦しみましたが、前後の文章の流れから、西京寺を、ウィキリークスに置き換えて読んでいます。
間違いかも知れませんが、ご参考までに。
tsutomizu様
「西京寺」を「ウィキリークス」に置き換えて読むと、なるほど理解できました。ありがとうございます。