中川氏は、私と同じ1973年生まれということもあって親近感を持っており、中川氏が登壇するイベントに何回か参加したことがあるのですが、『夢、死ね!』に記されていた中川氏のエピソードは、そうした場で語られる内容と同じでした。しかし、中川氏はイベントの場では酔っていることが多く、ディテールや時系列などの確認が行えずにいました。つまり、そうした不完全な状態で知っていたエピソードを整理できたという点で、読んで良かったということが、第一の感想となります。
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また、中川氏の主張にも、おおむね同意することができました。どのようなことが書かれているかは、中川氏が自身のブログで書いているため、それを引用します。
・新刊『夢、死ね!』に入りきらなかった小者サラリーマンの見事な行動「会長エレベーター事件」をどうぞ!
http://blog.goo.ne.jp/konotawake/e/3d1bbe3832f8c32904a1056319b0b9af
・夢よりも目標を持てこうした感覚は、もしかすると私たちの世代においては、共通認識なのかもしれません。
・夢は時に人生を狂わせる
・仕事をする最大のモチベーションは「怒られないこと」にある
・社会人にも小者は大勢いて、仕事とは、日々小者どもが怒られないためにセコいことばかりしている
・そんな状況を理解したうえで、どうやって仕事をすべきか?
オレがこれまでの労働者生活で体験した、人間らしくドロドロした話から、世に流通するキラキラ系の経営者インタビューやら日経ビジネスアソシエ的イケてる有能若手ビジネスマンの話とは180度違う「人間って所詮そんなもんだよな……」的な話が連続します。
例えば、音楽ユニットPOARO(ポアロ)が、2009年に出したアルバム『NO NEGATIVE,NO LIFE.』に収録されている「dreams NEVER come true」という楽曲などは、まさに「夢はかなわない」を連呼する歌詞となっています。POAROのメンバーで作詞を担当した伊福部崇氏は1975年生まれ。もう1人のメンバーで作曲を担当した鷲崎健氏は1973年生まれ。まさに、私たちと同世代となっています。
「夢、死ね!」も「夢はかなわない」も同じメッセージを発信しており、それには同意できるのですが、『夢、死ね!』の副題である「若者を殺す『自己実現』という嘘」という部分には、疑いを抱いています。その説明をするため、なぜ、私が「夢はかなわない」と思うようになったのかの経緯を説明します。
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私にとって夢とは「ナンバー1」になることでした。現在においてはしばしば対義語にように使われるため、あえて記しますが、私にとって「ナンバー1」と「オンリーワン」は同義でした。つまり、世界一になることだけが意味のある人生だと思っていたのです。
しかし、「ナンバー1」になれないことは、小学5年生の時に気付きます。私は東京都北区立滝野川第二小学校に通っていたのですが、そこでは「頭が良い」とされていました。基本的に、国語・算数・理科・社会のテストでは100点満点がデフォルトだったからです。そこで、両親も私も調子に乗って、「よし、中学受験にでもチャレンジしたるか!」と思い、新板橋にある博文進学ゼミに通い始めたのです。
実を言うと、入塾当日に「ヤバい」ことに気が付いていました。国語の授業も算数の授業も、全く理解不能だったからです。周りの塾生たちは小学4年生から入塾しているため、私には途中入塾というハンディキャップがあったのですが、それを差し引いても、最後の最後まで追い付ける気がしませんでした。「もう、ナンバー1なんて無理」だと気付きます。
しかしながら、小学校の授業は退屈だったので、学習塾で勉強することはポジティブに思うようになりました。それに伴い、友達関係も小学校から学習塾へと重点がシフトすることになります。実際、小学校時代の友達で、今も連絡を取っているという人は1人もいません。小学校時代から同じ住所に住んでいるのに、です。(※正確には1人暮らしをしていた時期とかもありますが、それはさておき)ただ、学習塾の友人とも、中学校に進学してからは会っていないので、僕は友達が少ない気質なのでしょう。
先ほど、「もう、ナンバー1なんて無理」だと気付いたと記しましたが、それは、私に限ったことではありません。学習塾の友人たちも同様でした。私が所属していたのは、優秀ではない生徒が所属するクラスだったので、周りは皆、落ちこぼればかりでした。もちろん、その中でも、私の成績は下位だったため、友人たちを頭の良い連中だと思っていましたが、彼らも自分の能力に絶望していたのです。
学習塾での授業が終わった後、夜の公園でジュースを飲みながら、「○○の野郎、調子に乗り上がって」とか、講師の愚痴を言ったり、授業内容への不満や周りの大人に対する呪詛(じゅそ)を並べたりするわけですよ。で、リーダー格のMくんは家が金持ちらしく、たばこを吸っていたのですが、「もう、中学生になってから逆転するしかないよな」みたいなことを言うのです。小学校時代に上位クラスに入ることは無理だから、中学進学という環境の変化に賭けるしかない。今にして思えば、もう、本当に負け組の発想なんですよね。
私は結局、公立の中学に進学するのですが、今度は水道橋の館山塾に通って、逆転を狙います。しかし、成績はやっぱりほどほどで、都立の北園高校に進学することになるのでした。
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どんな人間でも、自分が「ナンバー1」になれないことは、すぐに気付きます。もちろん、「オンリーワン」も同じです。大体の人間は、自分が得意としている分野で世に出ようと瞬間に、「無理だ」と気付くのです。中川氏も『夢、死ね!』で指摘していますが、一生幸せな夢を見続ける方法は「何もしない」ことだけなのです。私の場合であれば、学習塾に通わず、例えば中学3年生ぐらいで死んでいれば、「将来、東大に入って、ノーベル賞級の発明をする」ぐらいの夢を抱いて一生を終えられたかもしれません。
しかし、実際には、そうはなりませんでした。というか、どんなボンクラな人生を歩んでいても、いつかは「夢はかなわない」ことに気付くはずです。そう、「気付く」のです。誰に教えてもらわなくても、自分で気付くことなのです。
そう考えると、中川氏の「夢を持つことを煽るな! あなたは成功したからそんなことを言えるのだ!」という、夢を持つことの重要性を説く人たちへのメッセージは、余計なお世話なのかなと思えてしまうのです。なぜならば、全ての凡人は、夢はかなわないことに気付いているからです。それこそ、「何もしない」人たちを除けば、みんな気付いていることなのです。
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ただ、そうは言っても、一瞬、忘れていた夢を取り戻す瞬間があることは確かです。それは「環境の変化」です。環境が変化する瞬間、これまでの怠惰な自分をなかったことにして、「新しい自分」としての成功を抱いてしまうのです。ただし、これも一瞬です。積み重ねた怠惰な自分は、環境が変化しても、やはり、これまで通りの怠惰な自分に落ち着くと気付くのです。そして、「環境の変化」により注目を集めた人間に対し、「あいつは運が良かっただけ」と呪詛の言葉を並べるしかないのです。
そういう意味で、「環境の変化」を商売道具にしている人は、あこぎだなぁとは思います。セカンドライフがブームらしいと聞いたら「これからはセカンドライフです!」とあおり、Twitterがブームらしいと聞いたら「これからはTwitterです!」とあおり、facebookがブームらしいと聞いたら「これからはfacebookです!」とあおる。中川氏も『夢、死ね!』で、こうした事態を「頓珍漢」と指摘していましたが、それでも、夢は一瞬で覚めるものです。
また、これは『夢、死ね!』の内容とは全く関係ないですが、現在流行しているソーシャルゲームは、手軽に夢を実現できる環境だと思うんですよね。もちろん、登録者数が400万人を超えている『アイドルマスター シンデレラガールズ』のイベントで1位になろうと思ったら、そりゃ、10万円以上は必要なのかもしれませんが、称号がもらえる2000位以内であれば、そこまで金を注ぎ込まなくても大丈夫かもしれません。また、他のゲームであれば、10万円で天下を取ることも可能かもしれません。
中川淳一郎氏も、仕事が大事だと主張していますが、ソーシャルゲームで夢を実現するためにも、仕事は大事なのかもしれませんね。
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しかしながら、私が若者たちだったころに比べて、「夢はかなわない」ことが気付きにくい環境にあるような気はしています。その元凶の1つが、『世界に一つだけの花』をキッカケにまん延した「オンリーワン」思想です。この思想の危険性は、岩崎夏海氏がしばしば指摘しています。
・「世界に一つだけの花」の本当の意味
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar19276
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar19319
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar19320
『世界に一つだけの花』には、次のような歌詞があります。「花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた」。そして、岩崎氏は「花屋の花」とは何かを問いかけます。
花屋の花とは、一体何なのか? 花屋の花は、一体どこから来るのか? それは、言うまでもなく「生花市場」からである。花屋の花は、お花屋さんが生花市場に仕入れに行き、そこで買いつけてきたものが並んでいる。要するに、岩崎氏は、「花屋の花」は花屋に並んだ時点でエリートであり、野に咲いている花とは別物。「ありのまま」の自分で「オンリーワン」になれるほど、世の中は甘くないということです。このことは、中川氏も指摘しています。
では、生花市場の花というのは、どこから来るのか? これも、言うまでもなく「お花農家」からである。お花を商品として栽培している農家が育てたものが、市場に納入されているのである。
ところで、みなさんはお花農家の花がどういうふうに出荷されるかご存じだろうか?
・新書『夢、死ね!』刊行記念 中川淳一郎&担当編集者全裸対談!
http://ji-sedai.jp/book/publication/zenrataidan_2014.html
http://ji-sedai.jp/book/publication/zenrataidan_2014_02.html
http://ji-sedai.jp/book/publication/zenrataidan_2014_03.html
アニメはアニメであり現実ではないように、歌は歌であり現実ではないと気付くことは必要ですよね。
世界に一つだけの花 - Explorer
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ところで、「夢はかなわない」と申しましたが、中には夢をかなえたという人物も存在します。その1人が、私の友人である津田大介氏です。津田大介氏は、私が行ったインタビューで次のように答えています。
・インタビュー企画「有料メルマガのキーパーソン」第3回 津田大介(『メディアの現場』発行責任者)
http://www.targma.jp/watanabe/2013/09/04/post3015/
http://www.targma.jp/watanabe/2013/09/06/post3044/
http://www.targma.jp/watanabe/2013/09/08/post3060/
http://www.targma.jp/watanabe/2013/09/10/post3074/
http://www.targma.jp/watanabe/2013/09/12/post3081/
http://www.targma.jp/watanabe/2013/09/14/post3102/
http://www.targma.jp/watanabe/2013/09/16/post3117/
http://www.targma.jp/watanabe/2013/09/18/post3128/
渡辺:現状に満足している?津田氏は「環境の変化」、具体的には「Twitterの流行」により、運だけで著名人になったかのように見られていることが多いのですが、高校時代から「夢」を持って活動を続けていたし、いろいろと努力しているんですよね。確かに、「Twitterの流行」に乗れたことはラッキーだったと思いますが、それだけで著名人になれるほど、世の中は甘くないのです。
津田:さまざまな場所で言っていることですが、「夢は全てかなってしまった」と思っています。ライターとしても本を出せたし、ビジネスの面でもナタリーでそれなりに成功できたし、社会活動にも興味あって、そういった活動もやっていますし、さまざまな人に会って話すこともできたし、そこそこモテるようになったし……。高校時代の妄想していたことは全てかなってしまったので、これからは人生のボーナストラックと思うようになった。それが2年前ですね。
ただ、こういうことを言っても、あまりウケが良くないので、「津田大介はオワコン」とか「津田大介はセルフプロデュースがうまいだけ」みたいなことを言っています。というか、夢を見続けるために、何もしないことを選択した人たちに、夢をかなえることがいかに大変かなんて話をしても無意味ですからね。
ちなみに、中川氏も『夢、死ね!』で、「売れていないお笑い芸人や、ミュージシャンと会うと、驚くほど彼らに自信があることが分かる」と指摘しています。そして、彼らは売れている芸人・ミュージシャンを評して、「あいつらはラッキーだ。オレらは運がなかった」と結論付けるそうです。
津田氏がいかに大変な努力をしているかは、津田氏の有料メルマガで確認できるので、ここでは省略させていただきます。
・津田大介『メディアの現場』
http://tsuda.ru/category/tsudamag/
で、なぜ、津田氏の話を持ち出したかというと、強く主張したいことがあるからです。それは、津田氏が夢を実現できたことは、友人としてうれしく思っているのですが、だからと言って、津田氏がうらやましいと思ったことはない、ということです。で、何が一番腹立たしいかといえば、私と津田氏を「差が付いたライバル」のように言ってくる存在なんですよね。
全く違います。そもそも、津田氏と私では持っている夢が違うのです。津田氏の夢は、ジャーナリストとして一角の存在になることなのですが、私には何かになりたいという夢がないのです。というか、「夢はかなわない」と思った時点で、そういう夢は死んでいるのです。
あえて夢らしき願望を挙げるとしたら、それは、楽しい人生を過ごすことになります。つまり、津田氏が夢をかなえれば、それは友人とうれしいことなので、楽しい人生の一環ではないかと思うのです。ぶっちゃけ、何かあるたびに髪の色がどうだと言われたり、天ぷら騎士団だ在日だ何だと言われたりする光景を見るに、「面倒だろうなぁ~」という感想しか浮かばないのです。
本音を言えば、美人声優と仕事できる可能性がある分、津田氏のことが「うらやましいなぁ」と思うこともありますが、それも、今ぐらい深夜アニメを鑑賞できる時間があればこそ。そういう意味では、成功者は夢を実現したメリットだけでなく、デメリットも語るべきではないかとは思いますね。
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私にとって「楽しい人生」とは、楽しい人たちと時間を過ごすことです。これについては、中川氏も『夢、死ね!』で同じようなことを記しています。
「大学生の時は『中川世界』という自分を中心とした世界にいた感覚がある。これが世界のすべてだった。(中略)それが会社に入った途端、会社の人だけでなく、クライアント企業、取引先、芸能人、媒体社の人、カメラマン、ライター、役所の人などなど、本書でこれまで挙げてきたような多数の人々と接することとなるのだ。誰かと接すれば、そこから『今度面白い人紹介しますよ!』などとさらに世界が広がっていく」
「楽しい人生」を送るために必要なことは何か。中川氏は、その答えを「仕事」に求めており、その意見に私は同意できたということが、第二の感想となります。
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最後に。ここまで読んできて、おそらく何人かの人は「ナンバー1やオンリーワンになる以外にも夢はある」みたいなことを感じていると思うんですよね。ただ、それは夢の本質が理解できていないと言わざるを得ません。夢がかなったら、かなえている状態を続けないと意味がないのです。もしくは、夢がかなったら次の夢が生まれる。夢には「続き」があるのです。
例えば、夢がかなったという津田氏も、そんなことを言えるのは「夢がかなっている」状態を維持できているからです。例えば、津田氏よりもイケメンで、さらにトークがうまい金髪の人間が出現したら、その時点で、津田氏は現在のポジションを失うことになります。そうならないためにも、つまり、自分が「オンリーワン」でいるためにも、津田氏は今でも精力的に仕事をこなしているのです。もしくは、「夢がかなった」ことで、新しい夢が生まれたのかもしれません。
つまり、夢は、ナンバー1やオンリーワンになることだけで、かなえられるのです。「ナンバー2でもいい」という人間は、より優れた「オンリーワン」の出現によって、「ナンバー2」というポジションを奪われてしまうのです。また、凡庸な人生を過ごすことが「夢」だという人がいますが、それは、私なりに解釈するならば、「夢がかなった」のではなく「夢を放棄した」状態いうことになります。
しかし、凡庸な人生を過ごすことも大変なんですよね。ちょっと優れていれば、さらに上のステータスが用意されてしまうし、ちょっと劣っていれば、さらに下のステータスが待ち構えている。真の意味で凡庸な人生を過ごそうと思ったら、やっぱり、その人生を過ごすのに適した「オンリーワン」になるしかないんですよね。
以上、常にライバルの出現におびえる、有料メルマガ評論家がお送りしました。
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『夢』の字源には二つあるようです.
・草枕から夕闇に目を覆われる姿になる、睡眠の際に見る、夢。こちらが夢々しさ、儚さ、幽かなものに通ずるようです。
・古代の戦いの際に、媚女が敵の睡眠へ殺す呪いを掛ける姿、夢、を。
日本の訓読みに対する『ゆめ』は上の一つ目が強そうです。二つ目が、意志の力で希望に通じるように感じますが、希望の意味合いは江戸時代後期以降に拡まったもので、英語のdreamの訳語からの方が強そうです。
夢々しきものを掴み取るのは、どんな時代や場所でもそれ相応に難しいと私も想います。その世間によって幽(微)かなものは変わりそうです。自身の夢によって呪縛される、洗脳されるくらいの意志がなければ、幽(微)かなものを感じ取る繊細さは得られない、と私は想います。それが傾奇者へ誘い、掴み取ろうと齷齪(あくせく)努力し自然の徴候をより感じ取れるようになった頃には死が近付いている。神は細部に宿る。その微小な中に光り輝く王たる徴(しるし)を求めて、それこそ夢だった。生死が近付くほどに直感が鋭敏になる、生まれる際と死際が一番自然に近く、奇跡を導きやすい、と認識し出すのかと。その意志が世間の異端になれば夢に殺される、志士として、夢に殉じた貴人たる侍として、薨(こう)ずるものになるのかと。志半ばに死ねるのが一番綺麗に観えます、徒花として。良い奴ほど早く死ぬ。死んで初めて一人前。蓋棺事定。自ら独力で立ち上がる人として。自らの精神性に立ち上がる士として。仕事なるは、士たる人の事ふるを。人が動いて初めて働く事になる。人間という人の間に迎合するだけの存在にはなりたくないです。世間が怖い。迎合したら悪になる。
どちらにしろ、自ら示した座標に於ける、世間を超越した姿(特異性)を持つか、多勢による力押しでしか、『夢を叶える』姿を演じることはできないように、私は想います。ただ、多勢の力押しだと『叶える』行為にはなっても、細部には到れないとは想いますが。神にならなければ『楽』の姿を観ることはできない。限界を越えて初めて自由を得る。しかし、夢への経路に乗ることすら世間に邪魔される。世間という何十年と重ねた因果の雨矢の間では、その因果に迎合することが憂いを持った人の優しさであるかのように、人間によって村八分が実行される。因果は論理ではない。現段階で因果の証明が存在しない以上、因果なものに自信を持つことはできない。論理だけを武器に闘う数学しか自信を持つことは無理だ。だからこそ、無理に観える夢を事に割り込もうとしない限り、自由も、楽しさも手に入れることはできない。私は夢を殺すより、せめて夢への道程、夢路にて死にたいです。私は、カシミール効果による奇跡を求めて、夢に殺される道を撰びます。
人の夢は儚い。されど、失い之く程に輝きを増す光かな。
葛藤なき人生に意味はなし。