制度としての名言1の続きです。

以下は、とつげき東北が2000年~記述していた文章です。


「戯れの欠如としてのバス床への信仰」


「あなたを信じる」という言明がなされるときに、痛々しい押し付けがましさがどうしても滲み出されずにはいられないのは、信じられるはずのないものを「信じる」と言い張ることに一種の道徳的高揚とでも呼ぶべき感動の安売りを見て取れるからというだけではない。「信じていたのに!」という見え透いた責任の水増しにつながる下品な伏線として感じ取れるからというだけでもない。そうではなく、「信じる」ということが明示的に語られるときには、多かれ少なかれ、「信じない」という選択肢が現実的に存在したという事実が、否応なく私たちの前に顕在化されてしまうからである。
「私はバスの床が抜けないと信じる」と表明することが想像できないほど、バスの床抜けに対してあまりにも無防備すぎるかに見える私たちの振る舞いは、「信じる/信じない」という文脈と無縁であり続けられるバス床の特権的な強固さを、これ以上になく明晰に物語ってしまう。「あなたを信じる」という発話は、話者によって、往々にして無制限の信頼の表明として口にされるのにもかかわらず、その限界がおのずとバス床の堅牢さを下回る部分に位置づけられねばならないという白々しい必然性が、私たちに違和感を与えるのである。

 去年1年間で総額183億円もの被害を出した「振り込め詐欺」と呼ばれる詐欺行為のうち、「おれおれ詐欺」に該当する手口には、「バス床的なもの」への絶対的な信頼感を利用する手順が存在する。
 本来、聞いたこともない口座にお金を振り込むという、明らかに疑わしい行為を正当だと信じさせるためには、数々の「疑い」を順に消去していく手続きが必要不可欠である。信じる状態とは、疑いのない状態に他ならず、あなたは誰なの、本当に息子なの、なぜお金が必要なの、どうして今すぐ必要なの、といった全ての疑いをきれいに払拭し「あなたを信じる」的蒙昧に追いやらなければ、およそ詐欺は成功しないからである。
 ところが「おれおれ詐欺」は、「おれ、おれ」という最初の一言とそれに続く一連の身振りとによって、先に挙げたいくつかの「疑い」のうち最初の2つを「信じる/信じない」の文脈から削ぎ落とす。老夫婦の多くにとっては確かに、電話口でいきなり「おれ、おれ」と叫びながら助けを求めてくる相手は、せいぜい息子でならなければならなかったのであり、件の詐欺がうんざりするほど報道される以前には、このことはほとんどバス床の固さと同じ程度に蓋然性の高いことだったのである。
 電話口で最初に「私はあなたの息子です」と宣言する手法が詐欺の成功を恐ろしく困難にしてしまうことと対比させて考えれば、相手が「信じるかどうか」を判断する文脈を新しく作ることをできるだけ避け、バス床的なもの、「疑われることなく放置されているもの」にうやむやに乗じるのが、上手な詐欺のやり方と言えるのだろう。相手が偽りの前提を滑り込ませてくるならば、こちらも同様に「落ち着きなさい。こないだの30万も降ろして振り込むけど、いいね?」のように切り返してみるのもよろしかろう。

 唐突だが、ある風景を想像してみよう。
 デート中、やや高級なホテルで食事をするカップル。女性が食事を残してしまったために、いささか過剰に装飾された器に、相対的には異質とも言い切れない肉片が無造作に散乱している。まさに直前に「あなたを信じる」とそそのかされた相手の男性の心の奥には、女性が食事を美しい作法で食べなかったこと、食べきらなかったことに対する、さほど深刻ではない苛立ちがくすぶりはじめている。男性は「育ちのいい」家庭環境を過ごしたのだ。
 男性の不機嫌を嗅ぎ取った聡明な女性は、頭の中で言葉遊びを開始する。食事のマナーのことを非難したいのかしら。満腹であっても眼前の皿上に配置された食物はすべからく胃壁の内側に移動させられなければならない、とする不自然で不健康な戦時的教育を守るように要請するのは、アフリカの恵まれない子供たちという陳腐な概念へのオマージュのつもりなの。それとも慎重なはずのあなたが、バス床と同じ構造で信仰してしまっている禍々しい風習に過ぎないの。「アフリカの猛獣」がフィクションでないと仮定するまでもなく、猛獣だってきっとおなかがいっぱいなら食べ残すに違いないのに。苦しい思いをしてこの残飯を平らげることが、腹部の肉の増加に加担し、私の女性としての美学的価値の低下を引き起こすことについてどうお考えです。もし「料理は中腰で食べる」というマナーがあったなら、あなたは社会問題になりつつある腰痛患者の急増を横目に、忌々しく顔をしかめながら、みすぼらしい格好で食事したかしら。病的なまでの持続的な愚劣のことを「伝統」とか「しきたり」と読み替えて喜ぶのは、しかるべき人たちだけで充分――。
 男性が、ついに口にされることのないこの女性の純粋な戯れを、それとなく看取でき、ただ「残す」という控えめな形で反対の意を表明した女性の俊敏さと謙虚さとを褒めてあげられるかどうかは、このカップルの知的素養に依存していると言ってよい。

 巧妙な詐欺師の言葉にも、人々の篤い信仰を一身に受けるバスの床にも、しゃがむことなく食べられる料理のあり方にも共通して見出すことができるものは、いったい何か。
 それは、おびただしく流通し続ける不自然としての自然の姿である。不気味であってしかるべき混沌とした何かが、「意味」や「制度」によって覆い尽くされ、それが私たちから違和感を拭い去るとき、すなわちすべての物事がバス床的に処理されるとき、私たちは恍惚とした盲目を体験する。
 もはやこのとき、「信じるべきかどうか」といった私たちの問いはほとんど無力である。信じるかどうかを選択できる時点で、その対象は私たちによって既に疑われていると言わざるを得ない。少なくともそれは「バス床的なもの」ではない。「私はこれを信じる」という形で信頼される占いや健康食品は、疑われつつも支持されているのであって、必ずしも常に盲目的とは言い難い側面がある。どちらかと言えば盲目はむしろ、それらを安易な「意味」を用いて――科学的に効果がないとか、お金がかかるとか――批判してみせるときのやり方の中にこそしばしば存在する。
 私は、取るに足りない「マナー」への人々の徹底的な無批判ぶりが、人間関係に余計な軋轢を生むという事実を、今ここで殊更に取り上げて糾弾してみせたいわけではない。バスの床の固さに対してさえも疑念を抱くような姿勢が、何かまるで知的なことであるかのように喧伝する連中の肩を持つつもりもなければ、「結局全ての判断は一種の信仰である」などといった「簡単な説明」を声高に叫ぶ輩の、言い尽くしがたい無残さを嘲笑したいのでもない。
 ただ、挿話の中に登場した架空の女性がそうしたように、スムーズに流れる意味の連続の中に、それと逆らうもの、わずかに調子の外れたもの、冗談めいたものを意図的に放り込んで違和感を強制的に作り出し、それらと繰り返し戯れることが、「信じるかどうか」の文脈を奪われつつあるバス床的なすべてのものに対する私たちの一つの態度となり得ることを、これといった目的もないまま書き記しておきたく思っただけに過ぎない。


とある偏執的な親の場合 

 社会的な不満や不安のはけ口がなくなった際には、往々にしてスケープゴートに仕立て上げられ、堕落が指摘され改革が求められてしまいがちな「教育」が、今日直面している厄介な問題について大上段から語るつもりはないのだが、あからさまに失敗に終わった私的教育というものが存在し、その結果がほとんど必然的に迎えられたとあれば、私がそれについて2、3語ることはできよう。

 とある専業主婦の、名言好きな母親がいて、息子に名言教育を施すとしよう。色々なことに挑戦しなさい、たくさんの経験を 積むことが大事、といったことを繰り返す母親はといえば、なるほど滑稽なまでの唐突さで「お琴」を始めたり、あるいはパッチワークに手をだしたり、健康食 品を大量に買い込んだりすることになる。一方の息子は興味の対象が狭いタイプで、ファミコンゲームに熱中してはそればかりに時間を割こうとする。とはいっ ても、必ずしも特定のゲームをしているかと言えばそうではなく、さまざまなゲームに挑戦し、色々なゲーム経験を積んでいると言えなくもないのだが、しかしそうした理屈とは無関係な態度で、この息子から、名言を武器にファミコンを奪い去ることはいとも簡単である。「ファミコンばかり」やっていては新しい挑戦ができず、たくさんの経験が積めない、という主張はなるほどファミコンゲームの奥ゆかしさを知らないか、知ることのできない者にとっては「当然の」理屈となる。
 ファミコンを一切禁じられた息子はしぶしぶ小説やマンガに手を出すだろう。もとより、母親が用意した「少年サッカーチームへの参加」だとか、「スイミングスクール」、あるいは「ピアノ教室」などといったものは、どれ一つとして少年の心をつかむことがなかったのだから。
 新しく開始される小説やマンガへの興味はどのように処理されるか。端的には、雑誌から毎月切り取って保管していた連載小説と、100巻まで集めた漫画 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が、ある日突然、少年の本棚から消滅し処分されているという悲劇的な結末によって、唐突に幕を閉じることになる。熱中し すぎ、偏りすぎはよくない、という名言が念のために添えられた。その後少年がノートに数年かけてしたためた、子供らしい稚拙な「自作小説」の数々も、同じ運命を辿ることになる。

 では少年は何か新しいことに挑戦できるだろうか。残念ながら、小遣いが少なく、お年玉の大半も「あんたのためにとっておく」という名言と共に奪われ、永久に自由に使うことが許されないだろう少年に、何か特別なことができるわけではない。父親が所有していたパソコンに興味を持ち、お金を貯めてプログラミングの本を購入してプログラムを始め、かなり高度な知識を身につけつつあった中学生は、やはり「一つのことに没頭してたらダメになる」「広い視点を持て」という理由で、半永久的にパソコンに触れることを禁止されるわけだ。
 少年に許された「挑戦」「いろいろなこと」とは、例えば父親と行う退屈なテニスの真似事であったり、マラソンであったりといった、非常に狭い範囲のものにあらかじめ方向付けられており、母親が理解できない高 度なものであってはならず、したがって母親が発する「選択を与える」かに見せる名言の恣意的な組み合わせは、結局のところ母親の選択を強要するためにしか 機能できなかったのである。事実、将来講談社現代新書から著書を出版することになるその少年が、出版について両親に報告する段になったとしても、両親は喜 ぶどころか、真っ先にそれに反対することになるだろう。

 気に入った名言を適宜選んできて、気が向いた対象にだけ適用することによる「真理の強要」ぶりは、それを受け取る側にしてみればとてつもない暴力 性として立ち現れる。語ることが許される者、関係性において強い者だけが名言を放つことができるために、主張を無前提的に援用する名言は、権力の手段とし て機能せざるを得ない。そうでなければ、「お父さんは頑張っている、みんながんばっている」という名言で、週に7つもある習い事の合間の休みの日に、小学生に延々と草むしりなどさせたりはしまいし、そのような全体をも「これもあんたのため」という言葉で装飾することはなかろう。「みんながんばっているからといって、なぜボクまでもががんばる必要があるのか。がんばりたい人が勝手にがんばれば良いではないか」という、恐ろしいほど的確で真理をついた命題の出番が、そこには用意されていないのである。
 こうした現実を前にすれば、暇をもてあまし、お琴やパッチワークどころか、麻雀だのお茶会だのをしながら「お母さんはいろいろなことに挑戦している」と 得意げに主張してくる「がんばっていない者」が、そういった作業をやれば良いのではないか、と子供心に反発するのも自然の道理である。
 そうはいっても、母親の卑しい暴力性に対して、子供が即座に反旗を翻し、それだけを理由に「ぐれる」とは限るまい。ある「論理的な思考をする」子供が、「矛盾」を感じるほどのことは、まだいささかも生じてはいまい。