ある時期、僕はYOSHIKIのそばにいて、僕にできることをすべて全力でやっていた。
 
 当時の僕は、2つの理由からそのような自分の役割を自分の使命だと思っていた。
 
 ひとつは、その頃つまり1988年から東京ドーム公演の実現まで、僕が自分自身ではなくXというバンドのために命を懸けて生きる、と決めていたから。
 
 もうひとつは、YOSHIKIというひとりの若者に、無限の可能性を感じていたから。 
 
 僕自身も26才と若かったけれど、まだ20代の前半だった若きYOSHIKIの人間としての魅力はただ黙って見つめているだけで時間を忘れてしまうほどだったから、これからの長い人生でどれだけ凄いことを成し遂げてくれるのだろう・・・と、その期待は僕の中で限りなく膨らんでいたのだ。
 
 もちろん、欧米と比べてあまりにも稚拙な日本の音楽業界を変えることが目標だった僕にとって、出会ってすぐに気がついたYOSHIKIの圧倒的な音楽の才能と音楽に懸ける情熱はYOSHIKIの魅力の最たるものだったけれど、音楽的才能のみならず、日々見つめていて気がつくYOSHIKIの人間的な魅力は、決して音楽面にはとどまらなかった。
 
 今思えば、それは人生がそのまますべて作品へと帰着する芸術家としての生きかたそのものなのだけれど、当時の僕はまだ若かったから、音楽という大きな目的のため常識という壁に挑戦する、若い情熱の賜物だと理解していた。


 
 僕は当時、YOSHIKIに「両極端の美学」を感じていた。

 というか、「両極端の美学」こそがYOSHIKIの人間性を物語っていると感じていた。
 
 創作のため誰も寄せつけず部屋に閉じこもっている時は、本人以外何を考え何をしているのか決してわからない。
 
 孤独どころか世の中の全てを遮断している状態で、バンドであるにもかかわらず、その期間YOSHIKIはあたかも存在しないようにすら感じる。
 
 一方、リーダーとして、あるいはあらゆるバンドの友だちとして、社交的な場にいる時は、人懐こくて自然体の人間性が炸裂し、その場にいる全ての人間と繋がっているように見える。
 
 そこに酒などが加わってしまうと他人との壁が完全に消失してしまい、その愛らしさで人を虜にする状態から手のつけられない大喧嘩まで、あらゆる人間関係が剥き出しで展開される。もちろん喧嘩のエピソードはあくまで昔の話だが。
 
 
 創作や音についてのこだわりが尋常ではないため、普通の人であればその違いが全くわからないほど緻密な違いに納得がいかず、そのために何時間も何日も諦めずにトライを続ける一方で、時にはずっと積み上げてきたものを、他のメンバーが呆気にとられるほど一瞬にして何のこだわりもなく未練もなく大胆にリセットしてしまう。
 
 
 激しいリズムと美しいピアノに象徴される両極端に位置する音楽性もまた、Xのパンクミュージックの持つ破壊性とクラシック音楽の持つ様式美という二面性に色濃く表れている。
  
 
 女性のように繊細な美意識は、両性的なビジュアル表現に色濃く表れているが、一方の男気溢れる性格は、本人と関わるあらゆる男性の心を掴み、独特な人間関係を築いてしまう。
 
 普通の青年なら何ともないような些細なことを妙に怖がる一方で、いざという時の度胸はとてつもなくて、同じ人間とは思えないほどの強さを感じる。

 
 誰もが驚くような英断をたった一人で下す背景には、実に素直な心で様々な人の意見をきちんと聞く姿がある。
 

 
 あげていけばキリがないが、このような「両極端の美学」がどこから生まれていたのかを考えると、YOSHIKIの魅力の本質が見えてくる。
 
 そもそも・・・両極端の間には何があるのか。
 
 間には何もなくて、ただひたすら相反する二面性のようなものがYOSHIKIの美学なのか。
 
 そうではない。
 
 両極端のど真ん中には、当然のことながらYOSHIKIが存在する。
 
 揺るがないYOSHIKIそのものが存在する。
 
 では、中心に存在するYOSHIKIから、あらゆる側面でなぜ、強いエネルギーに満ちた両極端のベクトルが発生するのか。
 
 それはすべて「YOSHIKIが人生に求めるもの」に起因している。

 何か。