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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第30回 第三章 補論2:なろう小説におけるダダ漏れの欲望を考えるための2つの「切断」
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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第30回 第三章 補論2:なろう小説におけるダダ漏れの欲望を考えるための2つの「切断」

2018-11-07 07:00
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回のテーマは「なろう小説」の欲望のあり方についてです。従来のフィクションを(主人公と読者の)「主体の切断」を前提とした作品と捉えた上で、なろう小説やゲームを「利得の切断」の側面から改めて検討します。

     昨今のコンテンツに詳しい人ならば、言うまでもないことだろうと思うが、「なろう小説」の欲望だだ漏れ感は、何かタガが外れているという感触がある。
     チートによる俺Tueeeeと、(奴隷)ハーレムがセットになるというフォーマットは、控えめに言ってもやばい。「なろう小説」をはじめとする、異世界転生等の一群の物語については、本連載の第22回について扱ったが、俺Tueeee展開はともかくとして、あのハーレム展開っていうのはさすがにどうなのという人は多いと思う。この欲望ダダ漏れの表現はなんなんですかね、ということを、今回は書きたいと思う。

    <お断り>ハーレムものの「望ましくなさ」について

     本論に入るまえの、すこし「お断り」的な話をしておこう。今回、ゲームや物語における欲望について触れるが、ハーレムもの(あるいは逆ハーレムもの)の物語は、その多くが性的な欲望がだいぶ露骨な物語である。今回の原稿は、これを擁護するとか、批判するとかそういう話ではない。
     もちろん、なろうの累計ランキングベスト10に居続けている、蘇我捨恥『異世界迷宮で奴隷ハーレムを』みたいな作品とかについて話すとなると、かなり色々と厳しいところがある。全部読んだが、本当にタイトルどおり異世界に行って、女の子の奴隷を買って、ダンジョンを探索していく話だ。主人公がわかりやすい悪人なんかであれば、ヤクザもののような、ある種の特殊な世界を描いた小説として切り離して読めるのでまだ良かったのだが、主人公は平凡で善良な日本人の青年だということになっていて、奴隷にも対等(?)で優しく、奴隷から愛されている「善良な」奴隷主をやっている話だ。主人公は読者にとって遠い存在として描かれているというよりは、読者の欲望を代行する存在として描かれている側面がどうしても強い。それも含めて、やはりこれは、露骨な欲望ダダ漏れ小説なのではないかという感触がエゲツない。
    「書いてるほうも読んでるほうも、そこらへんの準ポルノ的な性質は、もちろん、わかって書いてて、わかって読んでますよね!?」ということに同意が得られる状態なのであれば話は簡単だと思うのだが、いかんせん、ここらへんの細かい話は複雑になりがちだ。
     ハーレムものの反対で、イケメンにかこまれる逆ハーレムの令嬢モノというのもあるが、そういうものを見たら「これは、女性の欲望の話ですよね」と、多くの人が感じると思う。ハーレムものも、それと同様で「これは、男性の欲望の話ですよね」と言われたら、「まあ、そりゃ、そういう風に思われるよね」で、みんな納得してればいいのだけれども、どうも、そうなっていない。
     「いや、でもこの作品はそれだけじゃない…!」みたいなことを言い出したりする人もいるし、「うーん、これは…微妙…男性側の欲望…と言えなくもない…?かな?どうだろ?」みたいなボーダーラインケースも多数ある。そしてボーダーラインケースについて、過激な主張をする人が出てくると議論に収拾がつかなくなる。
     もっとも、なろう作品のハーレムもの(ないし逆ハーレムもの)については、ボーダライン上の作品もないとは言わないが、露骨に性的欲望の溢れ出た作品もかなり多い。そういった露骨な作品について「性的な欲望を満たす作品ではない」という主張をする気もないし、それは望ましくもない。

     加えて言うのであれば、もし問題化するのであれば、個別の作品がどうこうというより、ジェンダーへの想像力が失われやすいメディア環境が総体として構築され、読者が批判を受け入れる感覚がなくなってしまうのは望ましくないと思っている。たとえば、映画の中でジェンダーバイアスを測る基準である、ベクデル・テスト(注1)というものがある。これは(1)少なくとも2名の名前のある女性が出てくる。(2)女性同士が互いに会話をする。(3)男性以外のものを話題にする。という3つの基準を測るもので、ベクデル・テストは個別の作品のジェンダーバイアスを論じるためには必ずしも妥当な基準だとは言えないが、おおまかな基準としては理解がしやすいため解釈にブレが生じにくいという意味で、信頼性(注2)の高い調査をしやすい基準である。この基準をもとに「ベクデル・テスト・コム」(注3)というユーザーが編集できるサイトで、実際に7800個以上の作品がチェックされ、データとして可視化されている。

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    Source: Robin Smith(2017),”Sizing Up Hollywood&#39s Gender Gap” (注3)http://bechdeltest.com/

     このデータを見るとわかるとおり、昔の映画は明らかにベクデル・テストの結果が悪い。1970年代前半の映画でベクデル・テストに合格しているのはわずか四分の一程度だ。1970年代に比べれば、2010年代の状況はマシだ。1970年代のメディア環境は、2010年代のメディア環境よりも、ジェンダーバイアスのことに思いを至らせるのが相対的に難しい状態にあった可能性が高い。
    個別の作品についてどうこうというよりも、全体的なメディア環境をこのような指標を立てながら論じていくことができればよいと思う。重要なのは、個別の作品よりも、人々の想像力を生み出すトータルなメディア環境のあり方ではないかと思う。なろう小説などが、総体として、ジェンダーやセクシュアリティの多様性や、敏感であるべきポイントへの想像力を失わせるように機能してしまうことがあるのであれば、それは望ましくない。

     以上のことを踏まえた上で本題に入る。

    利得の切断

     ゲームというメディアは、しばしば欲望を表出することをよしとするメディアである。RPGでキャラクターを育てて最強になろうが、ギャルゲーでハーレムエンドを目指そうが、『シヴィライゼーション』で帝国主義を展開しようが、『メタルギア・ソリッド』で敵兵士を虐殺してまわろうが、好きにして良い。むしろ、その欲望が叶えられていくプロセスを楽しむことこそが、ゲームを楽しむことと、しばしば同義である。
     もちろん、『moon』『Undertale』『mother』など、そうした状況を批評的/批判的にとりあげる作品も一定数あるので、すべてのゲームメディアが、欲望を丸出しにすることを肯定しているとまでは言えない。ただ人文学者がゲームについて語る時、欲望を丸出しにすることへの「批判」はしばしばなされるし、海外のゲーム研究でも多数の議論がこうした素朴な欲望への批判が議論されている。
     ただ、『moon』や『Undertale』はあくまでも、メインストリームに対する「批判」として機能している作品であって、ゲームシーンのメインストリームは、やはりゲームプレイヤーの欲望を叶えていくプロセスを肯定するものが多い。
     敵がうざいから、殺す。虐殺してもよい。
     女の子がかわいいから、落とす。ハーレムでもよい。
     国を大きくしたいから、周辺諸国を征服する。帝国をつくりあげてもよい。
     こういった欲望を実行するというのは、我々の日常的な倫理観からすれば、かなり問題のあることだ。しかし、ゲームのなかで、これは許される。
     これが許される理由の一つは、これらの行為が「本当」になされるわけではないからだ。少なくとも、我々の生きる日常的な現実の利得とは切り離されたところに、ゲームプレイヤーの欲望は成立させられている。
     ゲームをはじめれば、遊び手は一次的現実とは切り離され、特殊な目的を設定され、任意のルールのなかでインセンティヴ構造を与えられる。一次的な「本当」の現実とは別の、二次的な現実のなかでの行為であるというのが、ゲームを遊ぶときの前提である。ゲームのなかでゲーム内通貨を得ても、普通は円やドルに換金できるわけではない。
     ゲームを遊ぶということは、特殊なルールを受け入れる、そこが特殊な時空間であることを受け入れることだ。ゲーム内の人々の行為のインセンティヴは、現実世界には即さない。勝利を大目的とした階層化した目的構成にしたがって、プレイヤーはどのような振る舞いをするのかを選ぶ。
     ここでは振る舞いの特殊性も同時に成立している。これらは、ゲームというメディアの特質がそもそも持ってしまっているものだ。それが、ゲームという二次的現実において、「帝国主義的」であったり、「非人道的」とされる振る舞いが許される(場合によっては、積極的に推奨される)ことの理由だ。それゆえに、ゲームにおいて、「ゲームが設定したインセンティヴ構造」にしたがって動くことは、恥ずかしいことでも悪でもない、ある意味で普通の行為だ。町中で人を銃殺すればそれは犯罪だが、FPSで敵を銃殺するのはふつうの行為である。もし、ゲームプレイヤーの行動が、一次的現実の観点から見た時に「恥ずべきもの」であるのならば、それは少なくともゲームプレイヤーのだけの責任ではない。それはゲームのインセンティヴ構造を設計したゲーム制作者との共犯である。
     一次的現実から切断された環境のなかで行為するとき、プレイヤーはゲームの構造が要請する欲望の代理人でもある。RPGで敵を殺したがっているのは、プレイヤーなのか、ゲームの構造なのか。明確な区別は、ふつうできない。
     ここでは、プレイヤーの欲望や行為は日常の利得から切断されている。この切断を「利得の切断」と呼んでおこう。
     この利得の切断が生じている状況下において、プレイヤーが殺人をしたり、他国を征服したり、ものを盗んだりしても、プレイヤーにとっては特殊な行為をしたという感覚にはならないことのほうが多いだろう。

    主体の切断


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