北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第4回。
1995年の外貨兌換券の廃止前後、中国国内にも市場経済の恩恵が行き渡り、一般家庭にビデオCD(VCD)デッキが爆発的に普及します。そこから映画やアニメを中心とした大量の海賊版コンテンツが流通するようになるなか、日本産のゲームやアニメを紹介する情報誌が次々と創刊。現在に続く中国オタク文化の礎を築いていきます。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究
第4回 VCDと情報誌が育んだ中国アニメ・ゲーム文化
1990年代は日本アニメの黄金期の一つで、国際的にも多くの作品が注目を集め、ブレイクしていった時期にあたります。そして中国では、外貨兌換券が廃止され、家電製品が普及するなか、ビデオCD(VCD)を通して大量の日本のアニメとゲームが流入した時期でもあります。また、挿入歌やBGMを収録したCD、キャラクターグッズ、プラモなども多数販売されました。大量のコンテンツから好きな作品を見つけるために、また、アニメやゲームについて論じるために、情報誌が続々と創刊され、大きな影響力をもちました。
1.兌換券の廃止
1995年、中国の消費を変える大きな出来事が起きます。1月1日をもって、15年続いた兌換券が廃止されたのです。
中国では、物資の不足と外貨管理を理由に、1980年から通常の人民元とは別に兌換券を使用していました。そもそも主食や油、肉などは配給制で、「糧票」と呼ばれる主食用チケットに代表される様々なチケットと引き換え制でしたが、まずそれが徐々に地方から廃止されていき、1993年に正式に全廃となります。しかし兌換券は95年までかかりました。
兌換券とは、正式名称を外貨兌換券(外汇兑换券)といい、人民元と等価値で、外国人が中国で消費活動を行う際に使用する紙幣を指します。中国銀行しか発行できない紙幣で、外貨はすべて人民元ではなくこの兌換券に換金し、国内で使用します。この時代、中国では外国人と中国人ははっきりと区別されており、列車のチケット、観光名所の入場料などにはすべて外国人向けの高い価格と中国人向けの安い価格、時には2倍以上の差がある二つの価格が存在し、外国人が宿泊できるホテルも限られていました。外国人向けの場所では基本的に兌換券しか使用することはできません。価格が違うということは設備やサービスも異なるため、中国人にとっては兌換券をもち、そうした場所に出入りすることは大きな憧れでした。そして当時、この兌換券でしか購入できないものがありました。洋酒や高級たばこ、テレビや洗濯機、冷蔵庫などの家電製品、高級腕時計などは、今も存在する友誼商店と呼ばれる外国人向けの商店にしかなく、そこでは兌換券でしか買い物ができませんでした。兌換券を持つ外国人は、まさに特権階級でした。
そのため、人々はなんとか兌換券を手に入れようと必死になります。闇ルートができ、等価ではない高い値段で兌換券を入手できたり、兌換券で買うよりも高い値段で家電製品をこっそり販売したりする人が出てきます。貴重な海外出張の機会を持てた人は、親戚や友人を総動員してお金をかき集め、家電製品をまさに背負って帰国しました。90年代になると、兌換券は徐々に形骸化し、テレビや冷蔵庫を入手する人も増えてきます。
1995年、製造業が軌道に乗り物資の供給にも余裕があらわれ、外貨準備高も少しずつ増えてきたため、兌換券はようやく廃止されます。つまり中国は、95年になってようやく、お金があれば誰でも自由にテレビを購入できる時代になったのです。95年以降、テレビを始めとする家電製品は販売台数を増やしていき、2000年前後には、中国の90%以上の家庭にテレビが普及することとなりました。
2.VCDの登場
1990年代に入り、カラーテレビは沿岸部を中心に少しずつ普及していきました。そして上海や広州等南方の沿岸部にVHSデッキが登場しますが、空テープが一本100元以上と中国でも非常に高価で、広がりませんでした。100元は当時の一般的な家庭収入の1/3に相当し、18インチテレビとVHSレコーダーを購入すると総額5000元にもなります。VHSテープの国産化により価格が30元まで下がると、VHSも普及し始め、VHSレンタル屋が登場し、限られた一部の裕福な層の娯楽として定着していったようです。1995年にはガイナックス作品の『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987年)の海賊版VHSが発売されていたことから、一定数は普及していたのではないかと考えられます。日本でもおなじみのレーザーディスクは、中国ではVHS以上に高額で6000元もしたため普及には至りませんでしたが、ハリウッド映画『トゥルーライズ』(1994年)、『ザ・ロック』(1996年)等何本かがLDで発売されています。
そして1993年、万燕(Wyan)という電子機器メーカーが「活動図像光盤播放機」としてVCDデッキを発売します。VCDとは、MPEG1かMPEG2で制作されたCD-ROMです。
▲世界で初めてのVCD機器
(参考記事:https://m.zol.com.cn/miparticle/5206782.html)
アメリカに留学していた中国人研究者、姜万勐、孫燕生の両氏が1992年にアメリカで発表されたMPEG形式の映像を収めたCDを再生する機器から着想を得たといわれています。両氏は安徽に会社を作り、巨額の投資を行って中国市場にVCDを流行らせようとしました。93年に1000台を発売しますが、これらは国内メーカーの買い占めにより即完売。買い占めたメーカーはデッキを分解して構造を研究,そもそも単純な構造の機械だったので、多くのメーカーが模倣してVCDデッキを製造、より安い値段で販売をはじめました。万燕はVCDデッキを開発したにもかかわらず、投資額が大きかったがために販売価格を高くせざるを得ず、さらに特許の申請もしていなかったため、すぐに埋没していきました。今ではその名を知る人も多くありません。当時の中国人の知的財産に対する知識の無さ、市場経済に不慣れな様子がよくわかる出来事です。この事例は、中国は模倣ばかりでイノベーションは起きないと言われていた2010年頃までは中国でもイノベーションはできるという事例として評価され、それ以降は市場経済に対する知識と経験のなさを反省する事例として取り上げられています。
VHSやレーザーディスクは庶民には価格が高く、日本をはじめとする先進国はDVDの開発が視野に入っていたためVCDには手を出さず、結果としてVCDはアジア諸国を中心に爆発的に広まりました。しかしそれだけが理由ではありません。VCDがここまで広がったのは、万燕がVCDデッキを販売するにあたり、11の映像出版社から版権を購入し、97種類のカラオケのVCDを同時に販売したからです。VCDは、カラオケができて映画も見れる電化製品として大ヒットしました。
1995年に60万台だった販売数は96年には600万台、97年には1000万台を超えました。その裏には膨大な量の海賊版VCDがあります。万燕のデッキをいち早く分解し、真似して組み立てた機器の販売をはじめたのは広東省の人たちだったといわれています。海賊版VCDも香港経由のものが多かったのでしょう。そのためか、まだあまり海外作品やホラー映画の上映が多くなかった中国で、ジャッキー・チェンやチャウ・シンチーを始め、キョンシー映画や、アーノルド・シュワルツェネッガーやシルベスター・スタローンの作品にVCDで触れた人が数多くいました。
VCDは中国全土の一般家庭、それからレストランなどで、カラオケができるビデオデッキとして受け入れられ、マイクもセットで販売されていました。映画はもちろんですが、実はこのカラオケの他に、VCDを普及させたコンテンツが3つあります。アニメ、ゲーム、そしてポルノです。ポルノについては表立っては語られませんが、当時香港には海賊版AVが大量に出回っていました。それが入ってきたのだと思います。デッキの購入には父親が積極的で、夜になると暗い部屋からテレビの明かりがぼうっと漏れていて、なかをのぞくと父親が一人テレビの前に座っていたという幼少の記憶がある人は数多くいます。
次に、アニメです。テレビで放送されるよりもはるかに多くのアニメが海賊版VCDとして出現しました。TVアニメだけではなく、劇場版などもありました。VCDは容量が少ないため最大74分程度しか収まらず、映画1本につき2〜3枚は必要になります。TVアニメのVCDは1話だけを収めたものや、劇場版アニメや映画には、映画館に行ってスクリーンを撮影したものまでありました。枚数が多いので、一度に数枚をセットして順番に再生できるプレイヤーなども出現します。最も人気のあった機能は、「エラー修正」です。そもそも粗悪な海賊版を読み込むため、クリーニングキットは必須でした。ディスクを読み取るレーザーヘッドもすぐに汚れます。新しいVCDを再生するには、まずクリーニングキットなどでディスクの汚れを取らなければいけません。傷がついてないか、購入する時にしっかり確かめることも必要です。筆者の経験からいうと、食器用洗剤でディスクをなで洗いするのが一番効果的でした。それでも読み込めなかったり、途中で詰まることがあります。「エラー修正機能」がついているデッキは詰まることが少なく、必須の機能となりました。2002年のお正月映画『ハッピー・フューネラル』では、お正月映画の顔、国民的人気俳優、葛優が皮肉交じりにこんなセリフを言っています。「スーパーエラー修正とはつまりスーパー海賊版だ。正規版は修正なんか必要ない」。
数少ない正規版VCDは、日本で一般的に使われるプラスチックのケースに入れられて書店で数十元から100元と高い値段で売られていましたが、海賊版VCDは薄いビニールの袋に滲んだ印刷のカバーとともに入っていて、路地裏の小さな店で1枚10元前後で売られていました。レコードを1枚1枚めくってほしいものを探すように、VCDを1枚1枚めくってほしいタイトルを探していると、指先が黒く汚れます。カバーのコピーだけがファイルに収められ、ファイルをめくってほしいものを探し、店員に伝えてVCDを出してもらう形式の店もありました。しかし1枚10元と言ってもそうたくさん買えるわけもなく、レンタルVCD屋もあちこちにありました。
もう一つ、VCDの爆発的な普及の後押しとなったのが、ゲームです。VCDデッキの競争が激化し、エラー修正機能など各メーカーがしのぎを削るなか、高性能をうたうデッキが出現します。98年に裕興というメーカーが、「パソコンVCD」なるものを発売しました。このVCDデッキには通常のリモコンのほかにキーボード、マウス、ゲーム用コントローラー二つ、より高価なラインにはフロッピーディスク・ドライブがついたものまであり、「勉強、インターネットにゲーム」という触れ込みで学習用として販売されました。
▲裕興「電脳VCD」351D型(『裕兴电脑VCD : 游戏机在中国走过的另一条路』より)