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女性、イギリス、ホワイトカラー──野球というスポーツの起源|中野慧
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女性、イギリス、ホワイトカラー──野球というスポーツの起源|中野慧

2021-07-21 07:00
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    本日お届けするのは、ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の‌第‌11回‌「女性、イギリス、ホワイトカラー──野球というスポーツの起源」。
    アメリカから輸入されたものであるにもかかわらず、しばしば保守的なイメージを喚起させる日本野球の起源はどのようなものなのでしょうか。スポーツをめぐる人類史の概略と近代の欧米諸国民のライフスタイルから、「ベースボール以前」のベースボールを振り返ります。
    ※アイキャッチ画像は、2019年6月、イギリスの首都ロンドンにあるロンドン・スタジアムでニューヨーク・ヤンキースとボストン・レッドソックスのMLB公式戦が開催された際のもの。アメリカ合衆国空軍がパブリック・ドメインで公開している(出典)

    中野慧 文化系のための野球入門
    第11回 女性、イギリス、ホワイトカラー──野球というスポーツの起源

     前回までは、日本における高校野球の文化性について書いてきた。現代日本における野球の文化的位置は、これまでの人々の意識や社会の構造にかなり規定されている、というのが暫定的な結論であるが、では日本の野球文化はどのようにして構築されてきたのだろうか。
     ここからは〈歴史編〉と題して、さまざまな要素と絡めながら野球史を批評的に記述していきたい。なお本連載ではこれまで「です・ます調」で執筆してきたが、批評的な叙述と馴染みにくいということを考慮し、編集部と相談の上、「だ・である調」に変更することとした。

    「旧日本軍」「武士」と結び付けられる日本野球

     高校野球について考えてきて改めて気付くことだが、日本の野球はなぜか「旧日本軍」や「武士」のイメージと結びつけられがちではないだろうか。
     たとえば表層的な面だけとっても、高校球児たちがみな坊主頭にしていたり、甲子園の開会式で一糸乱れぬ軍隊式の行進をしていたり、終戦の日の正午に戦没者に黙祷を捧げていたり、9回2アウトで負けている側のチームの打者が内野ゴロを放ったら必ず一塁ベースにヘッドスライディングで「特攻」して「玉砕」する、という風習が堅持されていたり……などなど、見るものに何やら軍国主義的な印象を与える行動様式を維持している。こうしたことが「前近代的な非合理性の象徴」として、21世紀のネット空間では批判の槍玉に挙げられることが多い。
     また、学生野球の練習着は、なぜかシャツとズボン、帽子ともに無地の白のものを着るというのがスタンダードになっている。これは柔道や空手の道着を想起させるデザインである。さらにいえば、野球日本代表の愛称は「侍ジャパン」であり、ユニフォームも武士の甲冑をイメージさせるものが採用されている。日本野球にはなぜか、このように復古的・保守的な要素が埋め込まれている。言い換えれば、それはある種の「右翼性」と言ってもいいものだろう。
     なお「右翼」という言葉自体は非常に多義的である。もともとはフランス革命で議会ができた際に、比較的穏健な主張をしていた人々が議会の右側に陣取り、逆に急進的な主張を持つ人々が左側に陣取っていたことに端を発する。このふたつの言葉の定義を、評論家・浅羽通明の著書『右翼と左翼』から引いてみよう。

     「左」「左翼」は、人間は本来「自由」「平等」で「人権」があるという理性、知性で考えついた理念を、まだ知らない人にも広め(「啓蒙」)、世に実現しようと志します。これらの理念は、「国際的」で「普遍的」であって、その実現が人類の「進歩」であると考えられるからです。
     ですから、現実に支配や抑圧、上下の身分、差別といった、「自由」と「平等」に反する制度があったら、それを批判し改革するのが「左、左翼」と自任する人の使命となります。ゆえに多くの場合、「改革派」「革命派」なのです。
    (中略)
     対するに「右」「右翼」は、「伝統」や「人間の感情、情緒」を重視します。「知性」や「理性」がさかしらにも生み出した「自由」「平等」「人権」では人は割り切れないと考えます(「反合理主義」「反知性主義」「反啓蒙主義」)。
     ゆえに、たとえそれらに何ら合理性が認められないとしても、「長い間定着してきた世の中の仕組み(「秩序」)である以上は、多少の弊害があっても簡単に変えられないし、変えるべきでもない」と結論します。
     こうした「伝統」的な世の中の仕組みには、近代以前に起源を有する王制、天皇制、身分制などが含まれ、それらは大方、「階層的秩序」「絶対的権威」を含んでいます。
     「右、右翼」と称する人は、それら威厳に満ちた歴史あるものを貴く思って憧れる「伝統的感情」を重んじ(「歴史主義」「ロマン主義」)、そんなものは人権無視で抑圧的で差別の温床だなどとさかしら(「知性的」「合理的」「啓蒙的」)に批判する左翼らが企てる「革命」「改革」から、それらを「保守」しようと志します。(浅羽通明『右翼と左翼』幻冬舎新書より)

     この浅羽の定義に倣うならば、いわば右翼とは「歴史あるコミュニティに貢献し、昔ながらの伝統を守ることを重視する態度」だといえる。これは野球に関わる守旧派と一般的には目されている高野連や、昔ながらの体罰や罵声を伴う指導や文化を維持しようとする人々の行動様式とも重なっている。

     しかし、よく考えてみるとこれは奇妙なことである。というのも、もともと野球は、アメリカ由来のものであるはずだからだ。その「輸入された」ものに、なぜ「武士」や「旧日本軍」といった右翼的イメージが重ねられるのだろう。
     多少は野球の歴史に詳しい人であればすぐに気付くことだが、戦前、特に日中戦争〜太平洋戦争の期間、野球は政府・軍部によって「敵性スポーツだ」ということで迫害されていた。「ストライク」が外来語だということで「ヨシ一本」などと言い換えさせられていたのだ。
     それがなぜか、戦後から現在に至るなかで高校野球を中心とするアマチュア野球は「日本軍的」なイメージ、さらには日本古来の伝統的な価値観である「武士」のイメージを背負わされるようになった。たとえば戦前の軍国主義日本に肯定的な価値を認めている靖国神社の戦争博物館「遊就館」には、戦争で亡くなった「英霊」たちの名簿のすぐそばに「戦没野球人」たちの特別コーナーが設けられている。戦前の野球人たちは軍部から迫害され、徴兵された先の軍隊でも「敵性スポーツをやっているから」という理由でいじめにすら遭っていた人たちであるにもかかわらず、である。そう、野球という「アメリカ」的なものが、戦後の長い時間をかけていつの間にか「日本軍的」「武士的」なものに鋳直されてしまっているのである。
     さらにいえば、アマチュア野球がそうした復古的な性格を持った一方で、なぜかプロ野球のほうには「自由」の文化性が宿っている。野茂英雄やイチローのような個性的なフォームの選手が活躍し、長嶋茂雄や新庄剛志のような奔放な選手が「スター」になりえた。投手・打者双方で高いレベルのパフォーマンスを発揮する大谷翔平の「二刀流」というプレースタイルも、日本プロ野球では許容された。「日本の野球」と一口に言っても、大きくこの二通りの文化性が生きているのである。
     そこで、ここからは、スポーツの歴史、野球の歴史を追いながら、なぜ今の日本野球がこのような文化性を宿しているのかを、現代の事象とも照らし合わせながら考えていきたい。


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