長年付き合っている編集者によると、わしは最も常識のある作家だそうだ。
大概の作家というものはクセがあり過ぎて、常識なんか通用しないのだという。
常識があって、仕事がしやすいのが小林よしのりだそうだ。
わしが見てきた、あるいは知っている作家や知識人を考えてみても、多分そうなんだろうなと思う。

だが他人の立場を重んじてばかりいると、自分の「個」が貫けない事態に陥ってしまう。
自分が小市民になってしまうし、それは自分の表現者としての魂を喪失することになる。

本来、わしはもっと我が儘でなければならないのだ。
社会性を重んじるあまり、あと十年かそこらしかないだろう作家生命を、無駄に使ってはならない。
いざとなれば、「個」は貫かねがならない。 

出版社や雑誌は、人気がなくなれば必ず打ち切りにする。
これは出版界不変の法則で、容赦なく打ち切る。
40年以上描いてきて、温情で描かせてくれた編集者などいない。
カネになるか、ならないのか、それだけだ。
徹底的な弱肉強食。徹底的な実力主義。ただそれだけだ。 

そしてわしとしてもそれが望むところで、カネになるか、ならないかが最重要なのだ。
ところが、それでもこの物語をもっと描いてみたいという作家としての表現欲がどうしてもある。
カネにならなくても描きたいという欲望と、カネになる作品でなければ意味がないという野心との葛藤の激しさは、普通の人には分からないだろう。

SAPIO」は嫌いでも『大東亜論』は読みたいという読者ほどありがたい人たちはいない。
女性なら一人ひとり抱きしめてあげたいが、男なら握手で我慢してくれ。

 

 

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