少し前に八木秀次が産経新聞で
「憲法は国家権力を縛るもので、国民を縛るものではない」
という憲法観がここ数年、静かに広がっていると書き、
これに異を呈していた。(産経新聞5・8)
八木は国民にも憲法を順守する義務は課せられていると言い、
「納税、普通教育、勤労」などの義務を上げていた。
そりゃ、当たり前だろう。
上の三大義務がなければ国家が成立しないし、国民が制定
するのだから、国民も憲法を守る義務はあるだろう。
だが国民の義務が最小限に留められて、
むしろ国民の権利の方が多いのは、
やはり民主主義と言えども権力が腐敗し、
暴走し、独裁になる危険性を、憲法が抑止することを
期待しているからである。
それこそが「立憲主義」の役目であり、現在の安倍晋三や
自民党が「憲法が何たるか分かっていない」のは確かだし、
「反知性主義」そのものなのであることも言を俟たない。
集団的自衛権を行使容認した場合、
「限定的」などという条件が守れるはずがなく、
シーレーンの機雷除去ひとつとっても、朝鮮半島、台湾海峡、
ペルシャ湾、どの海域の機雷を除去しても、
他国の作戦の妨害であり、戦闘行為と認定されるのだ。
では今回の解釈改憲の後に、
もはや憲法改正を目指す意味はあるのか?
八木は憲法学者らしいが、立憲主義を否定する憲法学者って
他にいるのか?
Y染色体を主張したり、立憲主義を否定したり、
八木秀次という人物はとても学者には見えない。
学者の誠実さがなく、運動家に成り下がる体質は、
ちょうど慰安婦問題で、歴史学者の史料検証を誤魔化してでも、
日本の加害責任をでっち上げようとした吉見義明に
そっくりである。
八木と吉見は学者ではない。運動家である。