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80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト
斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回は、斎藤氏が構成作家を務めた伝説のプロレス番組『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』からプロレスとテレビの関係性に迫ります! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!






斎藤文彦・最新著作
『プロレス入門』神がみと伝説の男たちのヒストリー
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https://www.amazon.co.jp/dp/4828419071/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_.ROZxbW0XSD1C

〘神がみと伝説の男たちのヒストリー〙
鉄人テーズ、神様ゴッチ、人間風車ロビンソン、魔王デストロイヤー、
呪術師ブッチャー、ファンク兄弟、ハンセン、ホーガン・・・・・・

日米プロレスの起源から現代まで
150年以上にわたり幾多のレスラーが紡いだ叙事詩を
レジェンドたちの生の声とともに克明に綴る
「プロレス史」決定版

キャリア35年のプロレスライター・フミ・サイトーが、
幾多の取材、膨大な資料、レスラーへの貴重なインタビューをもとに記した
「プロレス入門―歴史編」



『昭和プロレス正史 上巻』

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http://u0u0.net/ygEd


活字プロレス誕生から60余年――
いま初めて綴られる、プロレスのほんとうの歴史。

日本のプロレス史は力道山、馬場、猪木という3人の偉大なスーパースターによってつくられた。そして彼らの歴史的な試合や事件の多くは主に田鶴浜弘、鈴木庄一、櫻井康雄という3人のプロレス・マスコミのパイオニアによって綴られてきたが、ひとつの史実でも語り部によってそのディテールが異なっている。たとえば力道山のプロレス入りのきっかけとなったとされるハロルド坂田との出会いや、力道山から馬場、そして現在の三冠王座へと継承されたインター王座の出自についても、それぞれストーリーが違ってくる。本書は過去60余年に活字化された複数のナラティブを並べ、ベテランのプロレスライターでありスポーツ社会学者でもある著者がこれを丁寧に検証し、昭和プロレス史の真相に迫った大作である。






Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー

■プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1010682

■オペラ座の怪人スティング、「プロレスの歴史」に舞い戻る
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1022731

■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1039248

超獣ブルーザー・ブロディ
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1059153


「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1077006

■『週刊プロレス』と第1次UWF〜ジャーナリズム精神の誕生〜
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1101028







――
今日は前回の続きで天龍さんが全日本プロレスを離脱した以降の『週刊プロレス』の話を……。

斎藤文彦(以下フミ) その話題に入る前に80年代後半の新日本プロレスについて話をさせてください。1987年(昭和62年)にテレビとプロレスの関係が劇的に変わる出来事が起こるんですね。

――80年代前半のプロレスはゴールデンタイム中継で隆盛を極めましたが、徐々に時間帯が悪くなっていきましたね。

フミ そういう流れの中に『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』という番組が始まるんですね。

――山田邦子がメインパーソナリティを務めた、伝説のスタジオバラティプロレス番組ですね。

フミ あのときボクはまだ25歳の若手だったんですけど、じつは構成作家として『ギブUPまで待てない!!』に参加してるんです。

――えええ!? そうだったんですか!!

フミ 映像を持ってる方がいれば番組のエンドロールを見てもらいたいんですが、ボクの名前がスタッフクレジットに入ってます。

――本日は歴史的証言が聞けそうです!(笑)。

フミ あの『ギブUPまで待てない!!』が始まる頃のプロレス界はどういう状況だったかというと、全日本プロレスから長州さんたちが新日本に帰ってきたときです。長州グループがジャパンプロレスという名前で全日本プロレスに上がったのは85年、86年の2年間だけで、あっという間にやって来て、あっという間に去っていったんですけど、当時まだ10代だったファンにとってはもっと長いあいだ活躍していたイメージが残ってると思うんです。

――ジャパンプロレスにはそれほど強烈なインパクトを受けたということですね。

フミ 長州軍団が参戦していた頃の全日本には、正規軍や外国人選手、国際血盟軍という軍団も存在したりして、もの凄い人数のレスラーを抱えてたんですよ。あの当時ボクらが会場取材をするときは、受付で名前を記帳して、次に足を向けるのはパンフレット売り場なんです。そこでは和田京平さんがパンフレットの1ページ目にゴムスタンプで「本日の対戦カード」を押しています。ボクらはパンフではなく取材ノートにそれを押してもらう。いまでもこのスタンプ形式を続けてるのは全日本とNOAHだけなんですけどね。

――古き良き伝統のスタンプなんですね。

フミ 長州軍団が参戦していた頃の全日本は1日13試合も組まれてたんですよ、かならず。

――13試合!

フミ いまの常識だと7〜8試合もあれば充分なんですけど。当時はタッグマッチや6人タッグだらけで13試合。

――それほどの大所帯になってたんですね……。

フミ 長州力の試合も基本は6人タッグなんですね。ジャパン軍団の試合ってたぶん6人タッグのほうがデザインしやすい。太鼓の乱れ打ち、コーナーからの合体攻撃。次から次へと大技を繰り出して攻撃を続けるスタイルを長州さんは「ハイスパートレスリング」と呼んでいましたが、この単語はもともと英文では「HIGH SPOT」(ハイスポット)なんです。

――ハイスパートの語源は「HIGH SPOT」。

フミ ハイスパートというと、スパートをかけたり、ガンガンやるスタイルと長いあいだ誤解されていたんですが、「HIGH SPOT」がどういう意味かというと「大技を出す見せ場」というプロレスの隠語なんですね。長州さんは骨の髄までプロレスラーの方なので隠語だという感覚がなくて「HIGH SPOT」と使ったと思うんですよね。それがどうして間違って伝わったかというと、長州さんの発音が「ハイスパーッ」というアメリカ式だったからです。

――発音の問題! いや、長州さんだと滑舌にしたいですね(笑)。

フミ 長州さんがしゃべる英語は凄く発音がいいんですけどね。これは90年代入った頃の話なんですが、長州さんとベイダーが立ち話をしてる場面に遭遇したことがありまして。立ち話をしてるところに近づくと「来るな!」と怒られそうなので、知らんぷりしながら背を向けて話を聞いてたんです。そうしたら長州さんの英語って意外とうまいんですよ。ヒヤリングで覚えた英語、外国人レスラーの会話のままおぼえた感じで発音がいい。 

――プロレス記者が「HIGH SPOT」という言葉を知っていたらハイスパートとは認識しなかったはずですよね。

フミ そうですね。「HIGH SPOT」を知らない記者が多かったから「ハイスパート」として活字化されてしまったところはあります。天龍さんも記者たちが「ハイスパートが〜」とか言ったり書いたりしてるから「アンタら、それ意味をわかってるの?」ってしょっちゅう怒ってたんですね。

――長州さんたちのスピディーなスタイルと相まって、ハイスパートとして定着してしまったんですね。

フミ 「HIGH SPOT」がハイスパートとカタカナ化されて別の意味を持っちゃったわけですね。そしてそのスタイルは長州さんたちの置き土産として全日本のリングに残され、天龍革命を経て四天王プロレスに受け継がれていくわけですけど。長州軍団全員が新日本のUターンしたわけじゃなかったですし、 1987年3月の時点で長州さんも簡単に新日本に戻れたわけではなかったんです。

――谷津(嘉章)さんをはじめ全日本残留を選んだ選手もいましたね。

フミ そもそも全日本からすれば長州さんたちとは契約を結んでるわけですから、契約中の離脱は裁判になれば絶対に勝てるわけですよ。そのうえ長州さんたちは全日本を中継する日本テレビとも契約していましたから、新日本に戻ってテレビ朝日のプロレス中継に出ることも契約違反に当たるんですね。

――契約に縛られた状態で長州さんたちもよくUターンしようとしましたねぇ……。

フミ 「どうなるんだ?」と大騒ぎする中、『週刊プロレス』で仕事をしていたボクは「ジャパンプロレスを探ってこい」ということで、世田谷の三宿にあったジャパン道場の前で張り込みをしてたんです。時期はたしか2月だったので夜になると寒いんですよね。当時『週刊ゴング』の小佐野(景浩)さんも道場前で張っていたんですが、自動販売機で買ってきたワンカップ大関をチビチビと飲みながら待機してましたよ(笑)。

――ハハハハハハハ! 芸能マスコミのノリですね。

フミ あのときのジャパン道場には東スポ、内外タイムス、デイリー、レジャーニュース、当時は新参だった日刊スポーツの記者とカメラマンも集まっていたんです。専門誌は『ゴング』、『週プロ』、『ファイト』の記者とカメラマンもいたからけっこうな大人数ですよ。

――事務所に出入りする選手や関係者に直撃するんですか?

フミ そうです。誰かが中から出てきたら、さもたったいま道場に着いたかのように挨拶して近づくんです。

――騒動の最中だから喋りたくない選手もいたと思うんですけど……。

フミ そこは人によりますね。小林邦昭さんなんかは「あんまり言えないんだよ〜」と言いながらもちょっとは喋ってくれて。佐々木健介は全日本プロレスと契約していたジャパンプロレスの選手なんですけど、まだ新人だから「ボクはどうなるんですかね……」ってあまりよくわかってなかったんですよね。

――そういえば、三宿にはジャパンプロレスのたまり場となっていたバーがあったとか。

フミ あっ、「鶴」のことですね。マスターと奥様がお亡くなりになってお店自体はもうないんですけど、町のスナックです。焼き魚、煮物、炒め物、鍋物、カレーうどんと、なんでも作ってくれるし、長州軍団はそこに座り込んで飯を食ってお茶を飲んで、夜になったらお酒を飲みながらカラオケを歌って。

――新日本時代にマサさんの付き人をやっていた小原道由さんもそこにしょっちゅう呼び出されていたと聞きました。

フミ 話を戻すと、結果的にジャパンは2つに割れることになるんですけど、長州さんのUターンは暴走でしかないんですよ。絶対に裁判沙汰になるし、動かないほうがいいと判断したのは谷津さん、仲野信市、寺西勇、栗栖正伸さんら。キラー・カーンさんもですね。永源(遥)さんはプロモーターを兼ねる立場なので全日本残留を選んだ。

――長州さんの相棒だったアニマル浜口さんは引退の道を選びましたね。

フミ 浜口さんは新日本から全日本に移るときに「俺たちは一蓮托生。今度揉め事があったらやめる」と宣言してましたから。しばらく経って長州さんに引っ張られるかたちで新日本で復帰するんですけど、ジャパン分裂により浜口さんの引退のような残念なことも起きましたね。

――最終的に長州さんたちは強引にUターンしましたね。

フミ はじめは新日本のリングに上がれなかったんです。弁護士と相談もしたんでしょうけど、リングに上がったら試合じゃなくても契約違反になる。どうしたかというと、私服のまま場外フェンスの前まで乱入してくる。

――あくまでお客さんというスタンス。

フミ あれは契約上ギリギリのアクションだったんです。画的には立派な乱入なんですけどね。テレビ朝日も日本テレビから訴えられる危険性があったから、そのギリギリの映像をカメラで撮ってオンエアした。

――長州さんがそれから10数年後に大仁田さんに言い放った「またぐなよ!」はその経験から来てるんですかね(笑)。

フミ まあ、感覚はそれに近いものがあったかもしれませんね。そして長州さんがUターンした87年4月に『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』がスタートするんですけど。そのリニューアル前の前年、86年(昭和61年)10月に『ワールドプロレスリング』はプロレスの指定席だった金曜夜8時から月曜夜8時枠へ移動するんです。その金曜夜8時に収まったのはいまでも続く『ミュージックステーション』なんですね。

――今年で30周年を迎える『ミュージックステーション』。『ワープロ』金曜夜8時撤退後、いまでもあの枠を守り続けてるですねぇ。

フミ 当時のテレビ朝日は「2大ステーション」が看板番組だった。ひとつはタモリさんの『ミュージックステーション』、もうひとつは久米宏さんの『ニュースステーション』。

――現在は『報道ステーション』という名称となり、司会者も変わりましたが、ニュース枠はいまでも続いてますね。

フミ 久米さんが『ニュースステーション』の司会をやめられるときに、久米さんの代わりを探しに探した結果、その席に座ったのは古舘伊知郎さんだった。

――かつての“プロレス駅長”が“ニュース駅長”に転身したわけですね。

フミ 金曜夜8時の当時の『ワールドプロレスリング』中継の視聴率は、平均10%台だったんです。だけど、80年代のテレビ業界の考え方ではゴールデンタイムで10%台は低いんですね。燃える闘魂アントニオ猪木にハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアント、タイガーマスク、維新軍団がリングを飛び回っていた時代の視聴率は20%を超えていたわけですしね。

――プロレス人気が下がったと捉えれられますね。

フミ テレビ局の感覚からすれば、そういう捉え方になりますね。当時の新日本は第1次UWFから戻ってきた前田日明さんがいましたが、まだ民放で数字を獲れるスターではなかったんでしょうね。前田さんの人気が神がかったものになるのは第2次UWF以降ですから。

――視聴率回復策として『ワールドプロレスリング』がリニューアルされることになるんですね。

フミ そうです。『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』という番組タイトルがどういう意味かというと、テレビ朝日としては、このまま視聴率が下がるならギブアップするまで待てないよ?ということなんですよ。

――ええええ!? テレ朝がギブアップするまで待てないという意味ですか!

フミ ボクが参加したときには番組タイトルはもう決まってましたけど、テレビ朝日のプロデューサーから直接聞きました。「このままだとプロレスはゴールデンタイムから消えるよ。ギブアップまで待てないよ」と。

――危機感溢れるタイトルだったんですね……。フミさんはどういう経緯で番組に参加することになったんですか?

フミ フリーの人間で、プロレスのことがわかっていて、現場を取材してて原稿も書ける人間いうことですかね。驚いたのは、それまでの『ワールドプロレスリング』中継はテレビ朝日のスポーツ運動部が制作していたんですが、『ギブUPまで待てない!!』は制作3部というバラエティ制作班の担当になったんです。

――最初からバラエティ志向だった。

フミ その制作を外部のIVSテレビという番組制作会社に委託したんですが、IVSがどんな番組を作っていたかというと、メジャーなものでは日本テレビの『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』なんですね。

――テリー伊藤さんが所属していた会社ですね。すると、のちに物議を醸す「たけしプロレス軍団」の影が見えてきました。


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