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80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマは超獣ブルーザー・ブロディです。イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付き!



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■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期
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――今月は7月ということで、1988年7月16日に亡くなったブルーザー・ブロディをテーマに語っていただきたいと思います。

斎藤文彦(以下フミ) ブロディが亡くなった1988年は昭和63年だから、ブロディは平成の時代を生きていないんですよね。

――昭和は64年1月7日までですから、ブロディは昭和と共に消えたレスラーと言えるんですね。

フミ ブロディは1946年生まれ。もし生きていたら今年で70歳ですね。プロレス界の同い年はアンドレ・ザ・ジャイアント、ディック・マードック、永源遥さん……あとターザン山本さんもです(笑)。

――ハハハハハハハハハハ! 最後の方はよけいですね。

フミ 芸能界でいえば、吉田拓郎さん、岡林信康さん、杉田二郎さん、倍賞美津子さん、堺正章さん。ハリウッドだとスピルバーグ監督、シルベスター・スタローン、ドナルド・トランプも1946年生まれです。

――続々と出てきますね(笑)。

フミ 以前、ブロディのことを書いたときに調べたんですけど、ブロディはバリバリ団塊の世代なんです。この「団塊の世代」という言葉を作ったのは堺屋太一さんで、その区切り方はいろいろあります。終戦直後からの3〜4年という捉え方もあれば、2005年前後に定年退職した人たちという分け方もされる。日本でも人口にすると2000万人くらいいるわけですね。

――アメリカにも団塊の世代に相当する言葉はあるんですか?

フミ アメリカには団塊の世代という言葉はないんだけど、ブロディは第二次世界大戦後の第一次ベイビーブーマーなんですよ。日本でもアメリカでも学生運動をしていた世代。日本はベトナム反戦運動と安保反対、フォークロック世代。アメリカでいうと公民権運動やベトナム反戦運動、女性の運動でいうとウーマンリブ。サブカルチャー、ポップカルチャーが各方面に影響を与えていた世代ですね。

――政治や文化への思想が強い世代なんですね。

フミ ブロディはタッグパトーナーでもあったスタン・ハンセンより年齢は3つ上。ブロディが全盛期なので気にしなかった方が多いかもしれませんが、ブロディが全日本から新日本に移籍したときは40代に手が届いていたんです。

――それであんなにパワプルだったんですか!(笑)。

フミ 1987年に全日本に復帰したときは白髪が見え始めた「黄昏のブロディ」だったんです。さらに興味深いのは、ブロディのプロレスデビューは73年。27歳というかなり遅いデビューで、88年に亡くなっているから、じつは15年しかプロレスをやってないんですよ。

――思っている以上に活動期間が短いんですね。

フミ プロレスを20年間やるのはそれほどめずらしくないから「ブロディは15年しかやってないの?」という意外な感じがあるんですね。

――ブロディはすぐにプロレスラーになったわけじゃないんですね。

フミ 大学を出てすぐにプロレス入りしたわけじゃないです。ブロディが通っていたウエスト・テキサス州立大学というと、先輩にはドリー&テリーのザ・ファンクスがいて、後輩にはスタン・ハンセン。ディック・マードック、ダスティ・ローデス、ティト・サンタナ、タリー・ブランチャード、テッド・デビアス、マニー・フェルナンデス、バリー・ウインダム……。のちにプロレスラーとして名を馳せる人間がゴロゴロしていたんですよ。

――でも、ブロディは即プロレス入りをしなかった。

フミ ブロディはそもそも大学を退学処分になっている。なぜかというと、これはハンセンから聞いたんですけど、校内にあった由緒正しい木を切ってしまったんだって(笑)。

――ファッ!? なぜそんなことを……(笑)。

フミ わからない。ある日、ブロディがその木を切ってしまったことで放校処分になってしまった。学生時代から謎が多い人ではあるんだけど。学生時代のブロディは長いカーリーなヘアスタイルではなく短かったと言いますね。大学中退後はフットボールのNFLに入ったり、インディペンデントリーグにチャレンジしたりして。

――新聞記者にもなったんですよね。

フミ スポーツコラムニストというんですかね。フットボールの記事を書いていたので、インテリというか、言葉で何かを伝える表現力はあったということですね。そしてテキサス州サンアントニオのジムでイワン・プトスキーに薦められてプロレスラーになったんです。

――盟友ハンセンとは別々にプロレス入りしたんですね。

フミ 2人は一緒にプロレスラーになったわけじゃないです。それぞれデビューして、ビル・ワット王国といわれたルイジアナ、オクラホマ、ミシシッピのテリトリーへ参加したときに再会を果たすわけですね。まだ若手だった2人はそこでタッグを組む。タッグチームに見えるようにと、カウボーイハットを被ったんです。

――最初はブロディもカウボーイハットを被っていたんですね。

フミ ファンクスが被るようなテンガロンハットではなく麦わら帽子みたいなもので。この帽子さえ被っていれば、タッグチームに見えるだろうということでハンセンが用意したんですけど。ブロディがある日レストランに忘れてきちゃったそうなんです(笑)。それ以降、ブロディはカウボーイハットを被らなくなったんですけど。

――置き忘れてなかったら被り続けていたかもしれない(笑)。

フミ ハンセンとのタッグを解散したブロディは、フロリダで試合をしていたときにキラー・コワルスキーの推薦を受けて、WWWF(現WWE)に上がることになります。そのときに「ブルーザー・ブロディ」というリングネームになったんです。そのリングネームをつけてくれたのは、いまのビンス・マクマホンのお父さんのシニア。それまではフランク・ザ・ハンマー・グデッシュ。

――昔はゴーディシュ」と報道されていましたが「グデッシュ」と発音するんですね。

フミ 「Goodish」という英文を初めて見た日本のマスコミが「ゴーディッシュ」と訳してしまったんですね。

――格闘家の「セミー・シュルト」を「セーム・シュルト」と訳したようなもんですね(笑)。

フミ 余談ですけど、ヒョードルと呼んでいるのは日本だけなんですよ。アメリカでは「フェダー」なんですよね。まあ、そこはどういうカタカナ表記されるかの話で。日本も雑誌によってはブロディではなくて「ブローディ」と書かれていたけど(笑)。

――雑誌によってこだわりがありましたね(笑)。

フミ 話を戻すと、ブロディはWWWFで当時のチャンピオンだったブルーノ・サンマルチノに挑戦してるんです。会場はマディソン・スクウェア・ガーデンですよ。

――いきなりの大抜擢ですね。

フミ それはブロディが将来有望な大型レスラーだったこともあるんですけど、WWWFって新人をいきなり上で試合させるんです。そこがメジャーリーグの面白いところで、チャンスを先に与えて、その力があればその番付のままいられる。そこでポカをやるともうチャンスはもらえない。

――なるほど。ハンセンがサンマルチノに挑戦できたのもそんなシステムだったからなんですね。

フミ そうです。日本だったら下から番付を上げていくんだけど、WWWFはレスラーの能力を見抜いてチャンスを与える。たとえばAWAでスーパーデストロイヤー・マーク2を名乗っていたマスクマンがサージェント・スローターとして素顔でボブ・バックランドに挑戦したこともあった。昔の『月刊ゴング』や『月刊プロレス』を読むと、そういったレスラーは「無名の挑戦者」という書き方をされてるんですけど。じつはそうじゃなくて新しいスターとして抜擢されていたんですね。

――ブロディも将来を嘱望されたということですね。

フミ ブロディが2カ月連続、MSG定期戦でサンマルチノに挑戦してるんですけど、決まり手がスクープスラム。いまでいうところのパワースラムじゃなくて、ロープから帰ってくるところをボディスラム一発でフォールする。身体の大きいブロディをボディスラムすることが凄いことだったんでしょうね。

――2ヵ月連続で挑戦できたということは、ブロディはチャンスをものにしたということですか?

フミ もちろん。ところが、現役でフロント業務も手がけていたゴリラ・モンスーンと大喧嘩をしてニューヨークを追放されてしまったんです。

――ブロディらしいです!(笑)。


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作/アカツキ


――しかし、そんな若手の頃からプロモーターに楯突いていたんですか……。

フミ 理由はわからないですが、ブロディにとって気に入らないことがあったんでしょうね。誰が相手でも「NOと言えるレスラー」だったブロディの姿勢は、ハンセンいわく「グリーンボーイ時代に培われた」と言うんですよ。ハンセンとのタッグでツアーしていたときに「このビジネスはプロモーターの言いなりになったら本当のスターにはなれない。プロモーターがおべっかを使うくらいじゃないとスターじゃない」ってことを思い知ってしまった。その頃のハンセンとブロディは全然食えなかったので車の中に一緒に住んでいたんですよ。

――超獣コンビが車の中で!

フミ 車の中で寝起きをしながら週200〜300ドル程度の安いギャラで試合をしていた。アメリカのプロレスでは最低ランクのギャラ。レンタカー代やホテル代は自腹ですから、飯代にしかならないんですよ。

――アパートも借りられないわけですねぇ。

フミ それでもブロディは「週300ドルのギャラの中から俺は何ドルセーブした」とハンセンに言ってたそうです。

――稼ぎが少なくても管理していたんですね。

フミ レスラーとして出世していく中で、ブロディの中ではギャラに対するこだわりや、執着が生まれていったんでしょう。余談ですけど、80年代当時の日本で最もギャラをもらっていた外国人レスラーは、ハルク・ホーガンとアンドレを除けばブロディとハンセンですから。

――ゴリラ・モンスーンとのトラブルは、ブロディというレスラーの評判に影響しなかったんですか?

フミ ニューヨークでケンカしたあとはブラックリストに入ってしまって「ブロディというレスラーを使うな」というお触れが出まわってしまった。当時のレスラー同士の口コミの世界ですから「ブロディというレスラーはとんでもない奴だ」という評判になり、その話を真に受けて使わないプロモーターも出てきてしまったんです。仕事がなくなったブロディはオーストラリアでプロレスをやるようになったんです。

――ブロディがオーストラリアで試合をしていたのはそういう理由だったんですか。

フミ 「ブロディはトラブルを起こして、アメリカやカナダの全地区で試合をする機会が失った……」というストーリーもないことはないんだけども、ブロディの反骨の精神を表わす逸話として「アメリカを捨ててオーストラリアに行った」と伝わることになるんですね。そのオーストラリアのメルボルンではアンドレ・ザ・ジャイアント戦がありましたよね。写真も映像も残っていないんだけど、ブロディがアンドレにフォール勝ちしたという伝説の試合。

――アンドレをボディスラムで投げたというオマケ付きで。

フミ そのオーストラリア時代に奥様のバーバラさんと出会ったし、みんなが思い浮かべるブロディのスタイルがこの時代に完成されたんです。髪の毛を黒くして、ソバージュのように肩まで伸ばして、手を舐めるしぐさ、トランス状態の目つき、「ハフ、ハフ、ハフ」という雄叫び……ありとあらゆる仕草はその当時、オーストラリアで活動したキング・カーティス・イヤウケアからインスパイアされたんです。キング・カーティス・イヤウケアの試合を見ると、ブロディのモチーフだってことはわかります。

――あのブロディが影響を受けるって凄いですね。

フミ プロレスの大先輩にインスパイアされたってことなんだと思いますね。ブロディ以降、まったく同じ仕草をするレスラーがたくさん出てきましたよね。ハーキュリー・ヘルナンデス、ジョン・ノード、ゼロワンにも来ていたプレデターもそう。みんながブロディというキャラクターをコピーしたように、ブロディも、ふた世代前の大先輩から習っていたことなんだと思います。

――オーストラリア時代はブロディのターニングポイントになったんですね。

フミ ブロディはまたアメリカに帰るんですけど、どんなプロモーターとも仲良くできなかったブロディがアメリカで一番親戚付き合いしたのがフリッツ・フォン・エリックだったんです。どこの地区でも大ヒールのブロディがダラスだけではベビーフェイスでしたし。

――エリックとブロディはウマが合ったということなんですね。

フミ そうでしょうね。エリックはブロディをブロディのまま何も変えずに重宝していました。ブロディは「俺はエリックと似過ぎていて仲良くなれない」と言っていたんですけど、2人とも身体も大きいし、性格は似ている人だったんでしょうね。 

――アメリカ再進出以降は、プロモーターとのトラブルが起きなかったんですか?

フミ ブロディが全日本プロレスに初来日したのは1979年、昭和54年。それ以降は日本で年間10〜15週間くらいのツアーをこなして、アメリカではひとつの団体、ひとつの地区に定住せずに試合をする。日本をツアーしていたとき以外は、週末の土日はどこかのインディでメインを張っていて、アンドレ・ザ・ジャイアントのような存在になっていった。

――ブロディが来ればお客さんが入る。

フミ それこそ日本のプロレス専門誌にも引っかからないインディ団体がアメリカのどこの街にもあって、ブロディはそういう団体で試合をしてたんです。半年後にその街に行ったらもうなくなっているような団体ですけど(笑)。どこの大会ポスターも「ブルーザー・ブロディ、来たる!」なんですよ。
その興行のメインイベントはブロディvsキマラ、ブロディvsキラー・ブルックスなどのスペシャルマッチ。アンダーカードはボクでさえ一人も名前を知らないレスラーたちの試合なんですけど。ブロディひとりで3000人4000人のお客さんを集めてしまうんですよ。ブロディひとりさえいれば興行が成り立つと言われた時代ですね。

――大仁田(厚)さんが超花火で地方興行を成立させてしまうようなもんですね。

フミ 似てますね。近いものはあるでしょうね。

――インディ団体はNWAのチャンピオンは呼べないけど、ブロディは呼べる。だから「救世主」と呼ばれていたんですね。

フミ 当時はケータイもメールがなかったんですから、インディのプロモーターは黒電話でブロディをブッキングするんですよ。ブロディは自分で手帳にスケジュールを管理して。移動するにあたり、ブロディは自分でレンタカーを借りない人なんです。飛行機で移動して、その街の空港に着いたら、ブロディを呼んだ団体の人間が出迎える。その人間の車でホテルまで連れて行ってもらって試合まで一休みするという。

――NWA王者クラスの待遇ですねぇ。ギャラもひとりだけ違ったんですか?

フミ ブロディひとりだけ1試合契約5000ドルとかで必ずキャッシュで持ち帰っていたんです。90年代にこのブロディと同じスタイルでアメリカのインディを回っていたのは、サブゥー。面白いのは、もともとそれってシークのやり方なんですよね。

――サブゥーはシークの甥っ子ですね。

フミ あの“アラビアの怪人”ザ・シークも晩年はメイン以外は無名のレスラーばかりのインディに上がっていたんです。ブロディってミシガン生まれでデトロイト育ち。デトロイトが主要マーケットだったシークの団体の試合を見ていたはずなんですよ。それは現在のWWEのシステムとはまったく違う、ドサ回り的なプロレス。そういう時代の最後のスーパースターがブルーザー・ブロディだったというわけですね。

――こうしてブロディは最後までNWAやWWEという組織に組み込まれなかったんですね。

フミ ひとつの団体にいたり、その街にとどまることでキャスティングの一人に収まることをよしとしなかった。誰かにプロデュースされたくなかったんですね。そういうプライドもあったので、ブロディはシングルマッチで絶対に負けない。タッグマッチで負けるときはパートナーが負ける。全盛期のブロディからフォール勝ちを奪った人はほとんどいないんですよね。

――無冠にして無敗のプロレスラー。

フミ 日本では猪木さんと7回シングルでやってるんですけど、ブロディは一度もフォール負けしてない。1985年の猪木さん相手にですよ?

――それは相当凄いことですね……。

フミ 最初の全日本プロレス参戦した時期でも、チャンピオンカーニバルの決勝戦で馬場さんに取られることはあったけど、ビッグマッチでブロディがフォール負けすることはなかった。そしてブロディはそれまで7年間ホームリングにしていた全日本プロレスを後にするんですけど。1985年のことです。

――新日本に電撃移籍するんですね。

フミ そのとき全日本には長州力のジャパンプロレス軍団や、ロード・ウォリアーズがドーンとやってきた。ブロディはそんな全日本にプイと横を向いて、新日本プロレスに乗り込むわけですよ(笑)。

――全日本が新たなスターを投入したことに不快感があった。

フミ そうでしょうね。85年春に新装オープンした両国国技館、その1回目のプロレス興行の「メインが俺じゃない」ってことにも不快感を示したんですよ。

――ああ、メインはロード・ウォリアーズvs鶴龍コンビでしたね。

フミ あのときブロディはキラー・ブルックスと組んで長州&谷津との試合だったのかな。

――ブロディは長州さんのことを認めていませんでしたから、屈辱的なマッチメイクだったんですね。

フミ ブロディは身体が小さい選手のことを嫌ってましたからね。そういう不満もあってブロディは新日本に移籍するんですけど。いまの感覚だと「なぜそんなに簡単に移籍できるの?」という疑問があるかもしれない。いまだと、契約が切れても在籍していた団体に第一交渉権があったり、契約中は他団体と接触できないルールもある。

――タンパリングですね。

フミ なぜ全日本プロレスから新日本プロレスに簡単に移籍できたかというと、そこが馬場さんの凄いところでもあるんだけど。全日本とブロディは契約書を交わしてなくて、シェイクハンドだけで信頼関係を結んでいたんですよ。

――契約書なし!

フミ それはハンセンも同じ。「もう難しい契約はやめよう」ということでお互いを信用していた。全日本のシリーズが近くなると、全日本のオフィスからブロディの家に航空券が送られてくる。その飛行機に乗ってブロディは来日する。約束どおりの日程を消化して、シリーズ最終日に全日本のスタッフの方が控室にこもって、外国人レスラーのギャラを封筒に詰めて、馬場さんから手渡される。そこでも馬場さんとの信頼関係の厚さが窺い知れるんですけど、ハンセンもブロディもその場で封筒の中身を確認したことが一度もなかったそうなんですよ……。

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