00年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマは「ミスターTからメイウェザーまで! WWEをメジャー化させたセレブリティマッチ」です!
Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー
■馬場、猪木から中邑真輔まで!「WWEと日本人プロレスラー」
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■WWEの最高傑作ジ・アンダーテイカー、リングを去る
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■『1984年のUWF』はサイテーの本!
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■プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」
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■オペラ座の怪人スティング、「プロレスの歴史」に舞い戻る
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■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期
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■超獣ブルーザー・ブロディ
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■「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……
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■『週刊プロレス』と第1次UWF〜ジャーナリズム精神の誕生〜
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■ヤング・フミサイトーは伝説のプロレス番組『ギブUPまで待てない!!』の構成作家だった http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1115776
■SWSの興亡と全日本再生、キャピトル東急『オリガミ』の集い
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■「現場監督」長州力と取材拒否
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■ジェイク“ザ・スネーク”ロバーツ…ヘビに人生を飲み込まれなかった男
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1167003
■追悼ジミー・スヌーカ……スーパーフライの栄光と殺人疑惑
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■ドナルド・トランプを“怪物”にしたのはビンス・マクマホンなのか
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フミ WWEのセレブ路線は、ビンス・マクマホンの“1984体制”から始まったんですね。
――ビンスがWWEを仕切るようになってからなんですね。
フミ ビンスの前にWWEのプロモーターだったのは、父親のビンス・マクマホン・シニアですが、彼はプロレスラー以外の人間をリングに上げることを嫌ってました。シニア時代のWWE王者だったブルーノ・サンマルチノや、ほかのレスラーたちも同じ考えですね。
――リング上はいま以上に聖域だったわけですよね。
――ニューヨークでも猪木vsアリのクローズドサーキットがあったんですね。
フミ 当時はまだPPVはなかったので、テクノロジーとしてはクローズドサーキットだったんです。場所はニューヨークのシェイ・スタジアムで、ニュヨークメッツの本拠地で3万人収容できる球場。セカンドベース上から3方向に映画のスクリーンを置いたんです。いまだったら巨大ビジョンなんでしょうけど。
――そんなに大きなスタジアムでクローズドサーキットをやるほど、猪木vsアリは注目を集めてたんですね。
フミ いや、集客面はシニアも心配だったようで、そこで保険をかけたのがサンマルチノvsスタン・ハンセンの完全決着戦なんです。その頃のハンセンは例の「サンマルチノ首折り事件」で有名になっていたんですね。あの事件はハンセンがボディスラムを投げ損なったことで、サンマルチノは首を負傷したんですけど、ストーリーライン上はハンセンのラリアットで首を折った、と。
――キラー・カンのアンドレ足折り事件と同じくアクシデントをビジネスに活かしたんですね。
フミ その事故から5ヵ月後、サンマルチノに復帰の目処は立ってなかったんですけど、シニアからの強い要請でハンセンと再戦したんです。ニューヨークのファンは、アリvs猪木よりも、この遺恨決着戦を見にシェイ・スタジアムに来たと言われてますね。
――猪木vsアリの試合内容からすれば、サンマルチノvsハンセンをやっておいてよかったかもしれない(笑)。
フミ アンドレ・ザ・ジャイアントvsチャック・ウェプナーの異種格闘技戦もあって、こちらは決着が付いてますからね(アンドレのリングアウト勝ち)。日本で思われている以上にウェプナーのステータースは高いんです。なにしろ映画『ロッキー』のモデルになったボクサーですからね。白人ボクサーはヘビー級では活躍できないという風潮がある中で、ウェプナーは成功した部類に入りますし。
――ボクサーはアスリートですけど、俳優なんかをリングに上げちゃうのは1984年以降なんですね。
フミ 1983年にビンスは父親のシニアからWWEを買い取ったんですが、1985年の第1回レッスルマニアの前に重要なことが起きてるんです。それはMTVとWWEのコラボです。MTVはミュージックビデオをひとつのジャンルとして築き上げたパイオニアですが、1981年に開局されたんです。
――ミュージックシーンの革命にWWEが乗っかったんですね。
フミ 機を見るに敏じゃないですけど、ビンスはMTVとコラボすることがプロレスブームに繋がると判断したんですね。
――凄いセンスですよねぇ。マイケル・ジャクソンの『スリラー』のあの有名PVがMTVで流れたのはその頃ですよね?
――ルー・アルバーノはWWEの悪党マネージャーですね。
フミ ルー・アルバーノは日本で思われてるよりはニューヨークでは超有名で、シンディ・ローパーとは飛行機で隣の席だったことがきっかけで意気投合したんです。ミュージシャンからすれば、マディソン・スクウェア・ガーデンでライブをやることは大きなステータスなんですが、シンディ・ローパーはWWEが毎月マディソン・スクウェア・ガーデンで定期興行を行ない、常に2万人近くも動員してることを知らなかった。「そんなジャンルがあるの?」って驚いて興味を持ったんでしょうね。
――そこからシンディ・ローパーがWWEのリングに姿を見せるようになって。
フミ MTVでWWEの特番が組まれたときのメインはハルク・ホーガンvsロディ・パイパーだったんですが、ホーガンのセコンドにシンディ・ローパーがついたんです。そのシンディ・ローパーにロディ・パイパーが襲いかかると、俳優のミスターTが助けに乱入してくる。
――ロディ・パイパーとミスターTの決着戦が第1回レッスルマニアだったんですね。
フフミ いきなりミスターTがWWEに現われたんじゃなくて、MTVの特番の盛り上がりがレッスルマニアに繋がったんです。当時のミスターTといえば『特攻野郎Aチーム』のコング役で大人気の俳優。ホーガンも出演した『ロッキー3』にも出てましたから、当然のように大きな話題になったんです。
――でも、業界内からの反発も大きかったんじゃないですか。素人をリングに上げるのか?と。
フミ 当然反発はありました。ミスターTと対戦するロディ・パイパーも「素人がリングに上がったら、いっちゃうよ?」というタイプだったんです。ロディ・パイパーは昔気質のレスラーですし、試合前に実際に公言してたんですよ。それは試合を盛り上げるための発言ではなく、ミスターTをただでハリウッドに戻らせるわけにはいかなかったんです。
――素人ができるものだと思われちゃいますよね。
フミ だから「やっちゃうよ?」ということなんですね。当時はNWAやAWAもありましたし、バーン・ガニアやフリッツ・フォン・エリックにしても、プロモーターにはレスラー上がりが多い。「レスラーであらずんば人にあらず」という考えは強かったんです。ビンスはプロレスラー出身じゃないから、こんなくだらないことをやってしまうんだと思われてたんですね。
――プロレスを汚す行為に見えたでしょうね。
フミ でも、ビンスからすれば「いまのプロレスは3大ネットワークやメジャーな新聞から取れあげられることはない」ということなんですね。戦後の1950年代から80年代までプロレスに人気がなかったことはないんですよ。人気のあるジャンルなのに一般マスコミは見向きもしなかったんですね。ビンスはニューヨークや東海岸のテリトリーだったWWEをケーブルテレビに乗せて、ホーガンをエースとして全米ツアーを始めた。そこからWWEの一般人気が高まっていったんです。
――そのひとつの象徴がシンディ・ローパーやミスターT。
――ホーガンにはパイパーみたいな昔気質なところはなかったんですか?