80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマは馬場、猪木から中邑真輔まで!「WWEと日本人プロレスラー」です!
Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー
■WWEの最高傑作ジ・アンダーテイカー、リングを去る
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■『1984年のUWF』はサイテーの本!
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■プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」
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■オペラ座の怪人スティング、「プロレスの歴史」に舞い戻る
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■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期
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■超獣ブルーザー・ブロディ
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■「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……
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■『週刊プロレス』と第1次UWF〜ジャーナリズム精神の誕生〜
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■ヤング・フミサイトーは伝説のプロレス番組『ギブUPまで待てない!!』の構成作家だった http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1115776
■SWSの興亡と全日本再生、キャピトル東急『オリガミ』の集い
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■「現場監督」長州力と取材拒否
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■ジェイク“ザ・スネーク”ロバーツ…ヘビに人生を飲み込まれなかった男
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■追悼ジミー・スヌーカ……スーパーフライの栄光と殺人疑惑
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■ドナルド・トランプを“怪物”にしたのはビンス・マクマホンなのか
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――現在多くの日本人プロレスラーがWWEに上がっていますが、今回はWWEと日本人プロレスラーの歴史についてお伺いいたします。
フミ WWEは歴史の長い団体です。契約形態もその時代によって異なっています。WWWF時代はニューヨークを中心とした東海岸地域の団体だったのが、 1983年にいまのビンス・マクマホンが引き継いでからは全米に展開するようになり、いまや世界一のプロレス団体ですから。
フミ 男子だけではなく、女子レスラーでもクラッシュギャルズ、ダンプ松本がマディソン・スクウェア・ガーデン(以下MSG)の定期戦には上がったことがありましたね。あとJBエンゼルス(立野記代&山崎五紀)が6ヵ月契約で上がっています。90年代になるとブル中野さんも参戦します。アランドラ・ブレイズことメドューサとの試合は定番カードとなって、1ヵ月で28回戦ったこともあります。
フミ ありとあらゆる街でそのカードで戦ったんです。その街のお客さんとしては初めて生で見るわけですから、見せるべき動きはすべて出さないといけない。でも、アスリートとしては同じことを繰り返すのはプライドが許さないところがあるので、煮詰まらないようにちょっとずつ内容を変えていく。技の順番を変えたり、新しい技にトライするわけですね。
――そうでもしないとモチベーションが保てないでしょうね。
フミ WWEというプロレス団体の歴史をさかのぼると、あのリングで初めて活躍した日本人はジャイアント馬場さんなんです。当時はWWE発足前でビンス・マクマホンのお父さんがプロモーターをやっていた時代でした。
――ビンス・マクマホン・シニアですね。
フミ 馬場さんは1961年、つまり昭和36年の秋に初めてアメリカ遠征に出るんですけど、単身ではなくて芳の里、鈴木幸雄(マンモス鈴木)の3人でツアーを行なったんです。そのときに馬場さんはMSGデビューしたんです。記録によれば、61年9月から62年12月まで16大会連続でMSG定期戦に出場してますね。ちなみにWWEが誕生したのは翌63年3月です。
――WWE誕生以前のニューヨークを馬場さんは知っているんですね。
フミ 馬場さんは1963年のワールドリーグ戦に出るために帰国して、その秋から再びアメリカ長期遠征に出たんですが、力道山が突然死んでしまうんです。馬場さんは遠征中なので力道山の死に目に会えていないけれど、帰国もしていない。馬場さんはNWA世界チャンピオン候補だったこともあり、マネジャーのグレート東郷が「アメリカに残っていたほうがいい」とアドバイスしたんです。そして力道山死去の3ヵ月後の1964年2月17日、MSG定期戦でブルーノ・サンマルチノvsジャイアント馬場のWWWF世界戦(WWEのルーツ)という大メインイベントが行なわれます
――日本に緊急帰国していたら実現していない。
フミ その後、馬場さんはグレート東郷の誘いを断って帰国するんですが、力道山が死んだことで日本ではもうプロレスというビジネスがなくなってしまうではないかという憶測も流れていたんです。馬場さんは海の向こうから日本の状況を眺めていたんでしょうね。
――あのままアメリカに残っていたらプロレスの歴史は変わっていたんでしょうね。
フミ NWAのチャンピオンになって全米をサーキットしても1〜2年、長期政権でも3〜4年ですから、馬場さんはいずれせよ日本に帰ってくることになっていたと思いますね。
――昭和のプロレス界だとNWA幻想が凄かったですが、WWEはどういうものだったんですか?
フミ 70年代終わりから80年代前半だと「MSGシリーズ」といえば、新日本プロレス春の本場所のイメージが強いですよね。でも、日本プロレスでもMSGシリーズ(1967年2月)をやっていて、全日本プロレスでも一度だけ開催されたんです(1974年5月)。
――MSG自体がブランドだったんですね。
フミ いまのWWEはメジャーだとわかっていても、日本のファンからすればちょっと遠いような感じがしますよね。70年代80年代のプロレスファンからすれば、日本で「MSGシリーズ」が開催されて、ニューヨークのスターがアメリカからやってきていたので、いまとは違った意味で近い存在ではあったんですね。
――新日本プロレスはWWEと業務提携もしていましたね。
フミ 猪木さんの新日本とWWEが業務提携を発表したのが1974年5月。当時ボクは少年ファンだったからMSGに出ているレスラーが続々と来日するんだという期待感が大きく膨らみました。新日本とWWEの業務提携に全日本の馬場さんはどういう反応を示したかといえば、1974年6月にひとりでニューヨークに出かけて、10年ぶりにMSG定期戦に出場したんです。馬場さんは新日本とWWEの提携が本当かどうか探りに行ったわけですね。
――馬場さんにとって、それほど寝耳の水な発表だったんですね。
フミ 当時の新日本は外国人レスラーが弱点だったんです。トップがタイガー・ジェット・シンで、第1回ワールドリーグ戦決勝戦の猪木さんの相手はキラー・カール・クラップでした。
――NWAのトップレスラーが来日していた全日本と比べると華やかさに欠けますねぇ。
フミ ワールドリーグ戦も猪木、坂口征二、ストロング小林、大木金太郎と日本人レスラー主体の争い。日本人対決は見ごたえはあったのですが、その後のWWEとの提携によって新日本の外国人レスラーがガラッと変わることになるんですね。
――馬場さんも焦るわけですね。
フミ 馬場さんと親友だったWWE世界王者のサンマルチノだけは新日本のリングには上がらなかったんです。そこは馬場さんとの友情を選んだサンマルチノに対して、シニアも無理強いはしなかったということでしょう。サンマルチノは全日本でWWEのタイトルマッチをやったり(75年5月)、10周年記念シリーズでは馬場さんとタッグを組んで、ジェットシン&上田馬之助組と対戦しています(81年10月)。
――業務提携したことで新日本のレスラーがWWEのリングに上がることにもなるんですよね。
フミ 猪木さんが初めてWWEのリングに上がるのは、業務提携を結んだ翌年の75年12月。MSG定期戦でフランク・モンティーというレスラー相手にニューヨークデビューするんです。テレビ朝日のカメラクルーも連れて行ったので『ワールドプロレスリング』で中継されました。
――ゴールデンタイムで中継されたら、WWEとの距離はますます縮まりますね。
フミ 1978年1月には藤波辰爾がMSGでWWEジュニアヘビー級チャンピオンのタイトルを奪取してスターになります。そのときのメインイベントは王者スーパースター・ビリー・グラハムに、ミル・マスラカスが挑戦するタイトルマッチ。翌月(78年2月)にチャンピオンになるボブ・バックランドも前座に登場してるんです。バックランドは8人タッグイリミネーションマッチに出たんですが、ベビーフェイスの3人が早々に負けてしまいバックランド一人残りになるんです。そこからバックランドがヒール4人を全員やっつけちゃったんですね。
――スター誕生前夜のMSGだったんですね。
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