ズンドコ・トラブル興行研究会――プロレス格闘技のウラに精通する書き手たちがマット界を騒がせたズンドコな事件を振り返ります! 最終回の今回は、昭和プロレス研究家の小泉悦次さんによる「力道山対木村政彦」です!




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力道山対木村政彦戦は、闘った当人だけでなく、大山倍達など多くの人々のが複雑に絡み合ったこの試合は、日本プロレス史最初にして最大のトラブル興行である。

シュートマッチイコール、トラブル興行ではない。ルー・テーズの師匠エド・ストラングラー・ルイスの最後のシュートマッチは、第二次世界大戦中に行われた対リー・ワイッコフ戦である。これは闘う両者、そしてプロモーターが同意しており、興行自体はトラブルと無縁であった。

ルイス対ワイッコフ戦のような事前の同意がない場合にはシュートマッチがイコール、トラブル興行となる。力道山対木村戦がトラブル興行に発展したのはこの試合がシュートしてしまったからである。

この試合については、今まで、多くの議論が交わされてきた。試合が行われてからすでに63年も経っている。しかし、未だ決着がついたようには思えない。それはまたこの試合の「賞味期限」の長さともいえ、そこに露見するのは「昭和日本」のプロレスの本質である。以下、(1)「ブック破り」、(2)「力道山と木村の共犯関係」、(3)「相撲対柔道」、(4)「プロレスの解釈」の4つの論点からこの試合についての私の視点を述べる。世間で流通している「世論」とはかなり異なるので、驚かれないでいただきたい。


述べるに当たって、この試合について簡単に述べておこう。試合が行われたのは1954年12月22日、場所は東京・蔵前国技館、初代の日本ヘビー級王座決定戦として3本勝負で行われた。

ゴングが鳴って10分あまり、両者共に相手に合わせて投げたり投げられたりと、オーソドックスな試合展開であった。木村が力道山の下腹部(急所ではない)を蹴ったのをきっかけに、力道山がまずは右パンチ、これは軽く当たっただけでダメージはほとんど与えていない。

しかし以後、力道山の張り手と蹴りで木村は昏倒し、マットは血に染まった。ここで試合は打ち切られ、力道山の勝ちが宣せられた。3本勝負だったことはどうでもよくなってしまったが、ルール上は1本目も2本目もレフェリーストップということになる。



(1)「ブック破り」

力道山の猛攻は「ブック破り」というのが現在のところの「世論」のようだ。しかし、「ブック破り」の5文字でこの試合を片付けるべきではない。なぜなら、何の説明にもなっていないからだ。この「ブック破り」の5文字にこだわる必要がある。

まずは「ブック破り」の「ブック」について。「ブック」、言い換えれば筋書きだが、この「ブック」は誰が書いたのか、ということだ。一般に「ブック」を書くのはブッカーもしくはプロモーターである。



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