「総合格闘技が生まれた時代」シリーズ第4弾!(前回の菊田早苗はコチラ)
まだプロレスと格闘技が交じり合っていたグレーな時代。パンクラスファンとリングスファンが憎しみ合っていた時代、ターザン後藤がUFC出場に名乗り上げていた時代……プロレスが格闘技に変換していくダイナミズムに満ち溢れた90年代を振り返っていく今回は、ヤノタクこと矢野卓見選手が登場
 矢野選手といえば堀辺正史氏率いる日本武道傳骨法會出身ながら、退会後は骨法に否定的な発言を繰り返していた。しかし、その挑発的な言動に至る理由は“公の場”では語られる機会はあまりなく、矢野選手と骨法の確執は把握しているが、その実態を知る人間は少なかったといえる。そこで今回は90年代の格闘技界をリードしていた骨法の実態とともに、その真相を語っていただいた。愛と悲しみの17000文字インタビュー!!



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――「1990年代の格闘技」を振り返るうえで骨法は絶対に欠かせないということで矢野さんに話を聞きにきました。よろしくお願いします!
ヤノタク というか、東中野(骨法の道場)には話を聞きに行かないんですか?(笑)。 
――いやあ、堀辺先生はそこを多くは語らないんじゃないですかねぇ。確かめたわけじゃないですけど……。
ヤノタク そこは黒歴史になってますからね。ハッハッハッハッ。いま何をやってるんですか? まだナイフを振り回してるんですかね。
――そんなに詳しくないんですが、小林よしのりさんたちと一緒に言論活動は続けてるみたいですね。
ヤノタク 小林よしのりさんとか、あの経歴を真に受けてるんですかね(笑)。あんなの全部デタラメですからね。
――そうなんですか(笑)。それで今回、矢野さんに話を聞こうと思ったのは、いま世間から注目を集める佐村河内(守)さんの件で真っ先に堀辺先生のことを思い出したからなんですよ。堀辺先生は競技や武道の実力は怪しかったのにとんでもなく幻想的だったし、佐村河内氏ばりにプロデュース能力に長けていて。かつての格闘技はなにかしら“佐村河内”的要素が必要だったのかもしれませんけど。 
ヤノタク あー、そこは一緒ですよね。あんな感じ。俺は佐村河内さんに曲を提供して一生黙ってる新垣(隆)さんになるはずだったのに(笑)。
――堀辺先生と矢野さんは“佐村河内・新垣”の関係!
ヤノタク 佐村河内さんは世間を巻き込むことができる才能があったわけじゃないですか。やっぱりね、俺になくて先生……当時は弟子が名前を呼ぶのは不敬ってことで「創始師範」と呼ばなきゃいけなかったんですけど。先生の才能はそこなんですよね。適当な大口を叩いて他人を惹きつける。ただ、佐村河内さんと新垣さんのコンビと違うのは、俺が先生に捨てられたんですけどね(苦笑)。
――なるほど(笑)。矢野さんも骨法だけを語る機会は早々ないですよね。
ヤノタク そうですねぇ。みんな骨法のことは聞きたがらないですよね。いろいろと面倒くさいんじゃないですかね。俺にしゃべらせると、なんか東中野からクレームが来るみたいで。まあ、いまさらクレームが来たところで……という感じなんですけど。
――まず骨法との出会いからなんですが、そもそも矢野さんが格闘技を始めたのはかなり遅かったんですよね。
ヤノタク 22歳からですね。それまで“なんにもない人間”だったので。やりたいことをやろうかな、と。
――当時の矢野さんはほかに趣味は何もなかったわけですか?
ヤノタク 趣味はあったけど、べつにね、スキルが上がるような生産的なものでもないし。趣味といえば、このへんを見渡せばわかると思うんですけど(笑)。
――特撮ヒーロー等のおもちゃ収集ですか。
ヤノタク こんなものは他人に言えるような趣味でないですからね。
――いまでこそオタク文化は市民権を得てますけど。
ヤノタク いまでは公表してもいいような空気になってきてるから、地下に潜っていた人たちが表に出てきてるんでしょうけど。当時は中学生でも恥ずかしい趣味だと思われてましたから。いまは大人もそういうおもちゃを買うというか、ウチの道場に通ってる5歳の息子がいる人も奥さんに黙って集めて、この道場に隠しとく不思議な状況ですからね(笑)。
――そんな事情もあってこんな山のように(笑)。それでなぜ格闘技だったんですか?
ヤノタク ボクはプロレスが大好きだったので「体験してみたいな」と。格闘技を身につけようというか、身につくとは思わなかったんですけど。ちょっとそこの世界に触れてみたかったというか。
――どの選手が好きだったんですか?
ヤノタク 総合格闘技的な感じでいうと旧UWFですよね。もうちょっとさかのぼると初代タイガーマスクと小林邦昭の抗争。ボクは小林邦昭派で「もっとやれ!マスクを剥いでしまえ!!」と。
――小学生で小林邦昭派とは渋いですね(笑)。
ヤノタク やっぱり格闘技性の高いスタイルが好きだったんですね。そんときはタイガーマスクはまだピョンピョン跳ねていたから。あと『空手バカ一代』もありましたね。
――当時のプロレス格闘技界って梶原一騎プロデュースで動いてましたね。
ヤノタク そうそう。『プロレススーパースター列伝』も読んでましたし。梶原一駒にどっぷり使っていた世代ですよ。
――でも、格闘技を始めるのに22歳って遅いじゃないですか。
ヤノタク でも、歳とか関係なく「好きなことをやりたい」という気持ちだったんですよね。いろんな意味で抑圧されて、いろんなことを我慢してきた人生だったので。我慢したわりには行き詰っていたから、それなら先のことを考えないでやりたいことをやって散ろう!と。
――「散ろう!」だなんて相当、思いつめていたんですねぇ。
ヤノタク それで開き直ったわけですよね。最初は町の柔道場に通い始めたんです。もともと骨法をやりたかったんですけど、いきなりは危険かな、と(笑)。
――柔道は骨法への準備運動的に始められて。
ヤノタク 続くかどうか不安だったんですよね。自分の人生で何を続けたってこともなかったんで。だから骨法と被っていた時期もあったんですけど、柔道場には10ヵ月近く通って「あ、格闘技だったら続くかもしれない」と。だったら本命の総合にもチャレンジしてみよう、と。
――当時、総合格闘技に触れられる場所はそんなにありませんでしたね。
ヤノタク あの頃、都内で総合を習えるのは、東中野か三茶のスーパータイガージムのどっちかですよね。で、ボクが通える距離には骨法しかなくて。
――当時の骨法はメディアに頻繁に取り上げられてましたから、矢野さんもそれなりに骨法の知識はあったんですよね。
ヤノタク ただ、実態はわかんないんですよね。『大竹まことのただいま!PCランド』に出てきたりしたけど、ガチのケンカはこんなにかっこ悪いのか不安で(笑)。
――ゲームクリエイター渡辺浩弐のチャレンジ企画ですね(笑)。実際に骨法に入会してみてどうでした?
ヤノタク 人がいっぱいいましたね。電話した日がちょうど11月生の受付最終日かなんかで。だから電話してすぐ東中野へ向かったんですよ。そうしたら50人くらい入会希望者が2階にすし詰めの状態で。
――そんなに!
ヤノタク たしか当時は2ヵ月にいっぺん入会希望者を受け付けて。そのたびに50人くらい集まったみたいですよ。それくらい総合熱が高まっていた時期で、それは92年の11月のことですね。
――UWFが三派に分かれて、正道会館が『格闘技オリンピック』とかやっていた時期ですね。翌年にUFCやK-1が始まって。
ヤノタク 骨法も翌年には大会を開くことを発表していたんで、ちょっと急がないと入会できないと思って電話したんですよね。
――矢野さんは内弟子ではなかったんですよね?
ヤノタク 基本的に通いだったんですけど。「骨法の貴公子」と言われていた寮生が夜逃げしちゃって。それで人手が足りなくなって治療の手伝いもするようになったんですね。
――よ、夜逃げですか!?
ヤノタク ええ。まあ、実質、追い出されたんですけどね。
――……そのへんの話はおいおい伺うとして、入会当初はどんなスケジュールだったんですか?
ヤノタク 基本的には昼間バイトして、それが終わったら道場に向かうという繰り返しですよ。原付きで1時間半くらいかけて東中野まで通って。練習はいうと、入って1年間はずっと掌打の素振りをやってました。
――えっ、1年間、素振りだけですか!?
ヤノタク 基本的にそれ以外はやった記憶はないですね。まず掌打の構えは、足は内側に向けなきゃならないんです(実演しながら)。
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ヤノタク この構えがまた難しいんですよ。「こう構えろ!」と指導されるんですけど、脇も肘も腿も内向きに閉めると自然体では打てないじゃないですか。
――昔の試合動画を見ても凄く打ちづらそうですし(笑)。それは先生の指導だったんですか?
ヤノタク 指導は基本的に内弟子や寮生たちですね。先生の指導を受けられるのは特訓生と言われる、骨法の選手か選手候補だけで。一般道場生は2階で、特訓生たちは3階で練習するんです。
――矢野さんは2階で1年間、掌打の素振りをしていたわけですか。
ヤノタク はい。ずっとね(笑)。
――素振りだけやらされることに疑問は抱かなかったですか?
ヤノタク だって格闘技をよく知らないですもん。知らないうえに1年経っても上達しないから疑問に思いようもないんですよ(苦笑)。
――でも1年間、素振りですよ!?(笑)。
ヤノタク そこまで自分の能力に自信を持っていたわけじゃないし。当時は寝技を含めたスパーリングはやってなかったし。それでも基本的に骨法に不満はなかったんですよ、下っ端でやってるあいだは。当時格闘技の最先端と言われていた骨法に触れているだけで楽しいという。
――たしかに骨法は当時の総合を引っ張っているイメージはありましたね。
ヤノタク 疑問に思ったといえば、ある先輩がスパーになると構えも何も関係なくメチャクチャにやるんですよ。それで教えを忠実に守っている人を圧倒しちゃって、それなのに先生に褒められちゃうから意味がわからなくて(笑)。「指導どおりにやってない人が褒められるのはどうなんだろう……?」とは思ってましたね。
――けっこういい加減なんですね(笑)。
ヤノタク いまにして思うと、打撃系でサンドバックがないところはダメですよ。東中野もサンドバックを寝かせてはありましたけど。サンドバックを打たないと距離感もわからないし、当てた感触もわからないじゃないですか。当時は拳を作って自分の身体に当てて、なんとなく感触をたしかめてましたけど、いまにしても思えばまったく意味がない(笑)。
――どんな喧嘩芸なんですか!(笑)。
ヤノタク だから打撃がなんとなくわかってきたのはサンドバックを叩き始めてからです。叩いてるうちに拳の握り方とか、当たったときの力の入れ方がわかってきて。ホント素振りだけやってるのは意味ないですよ。
――菊野(克紀)選手が沖縄拳法の型だけやるのとはわけが違いますねぇ。
ヤノタク あの人はある程度、進んだ人じゃないですか。それでいま身体の使い方として古流を学んでるんでしょうけど、素人に素振りを延々とやらしたところで土台が何もないわけですからね。
――では、最初の1年間は堀辺先生から直接指導を受けることはほとんどなかったわけですね。
ヤノタク 格闘技とは離れたお話は聞かされましたけど。先生は明治維新の話が好きでしたね。その当時だと先生は非常に愛国者で、そういう先生の話で自分の価値観が変わったところはあります。ボクはそれまで日教組教育を受けてきて、どちらかというと日本に対するネガティブなイメージを植え付けられた反動左翼世代ですけど、骨法で新しい価値観が芽生えたというか。
――そうしてとくに骨法に疑問を抱かずに通い続けて。
ヤノタク ボクはなんの疑問もなかったです。なんていうんですかね。格闘家としてどうこうと何も考えてなかったので。選手の人たちに「おまえは選手になる気はあるのか?」と聞かれて「まったくありません」と答えたら怒られましたからね。骨法をやるかぎりは選手を目指さないとダメだと。でも、どう考えてもそこまではたどり着けないだろうなと思ってたんです。うまくなってる感じはしないですし、いまから考えるとホント教え方がヘタなんですけど(苦笑)。いまの俺が指導したら5分で済むことを1年経ってもできなかったというかね。
――当時は指導体系が確立されてなかったんでしょうね。
ヤノタク 何もわかってなかったと思うんですよね、当時指導していた人たちは。先生も自分で指導しながら自分で何を言ってるのか意味がわかんなかったと思いますし。いま俺が当時の骨法を指導したら相当凄いと思いますけどね。あのとき骨法がやろうとしていたこと、いまだいぶできますから。
――“骨法完成”!(笑)。
ヤノタク はい(笑)。いまから考えると先生は「こういうことをやらせたかったんじゃないかな……」って。
――そんな矢野さんが格闘家として覚醒するきっかけってなんだったんですか?
ヤノタク 大雪が降った日に生徒がそんなに集まらないことがあって。そのときに先生が「顔面なしのなんでもありのスパーリングをしよう!」と言い出したんですよ。それは特訓生とか関係なく。で、大原(学)さんが強かったんですよ。みんなのことをバンバン極めて。
――大原さんは骨法のエースとして有名でしたね。
ヤノタク でも……ほかの選手はたいしたことなくて。
――といいますと?
ヤノタク 見た感じ「特訓生と言っても俺とそんなに差がないな」って。実際にやってみても「意外と行けるじゃん! 思ったより強くない!」と。
――それは矢野さんに格闘技の才能があったということですか?
ヤノタク いや、なんというか、そのときに骨法の真の実力が見えちゃったというか。要は一般道場生も掌打の素振りばかりでちゃんと格闘技を習ってなかったわけですよね。それは3階の特訓生も同じで、まともな格闘技の練習をしてなかったという。
――そ、そうだったんですか……!!
ヤノタク でも、俺は町道場で柔道をやっていたことが活きたんですよ。
――あっ!
ヤノタク 大原さんも柔道で実績があるでしょ。大原さんとリアルタイムで柔道を習っていた俺だけが強かったという(笑)。
――といっても、矢野さんが柔道場に通っていたのは10ヵ月くらいのあいだですよね……?
ヤノタク いや、だってほかの人は何も格闘技歴がないから。素人同然だから、みんな腰が弱かったんですよ。小柳津(弘)さんなんて、俺が組んで腰を入れただけで、すっ転んでましたから。
――“骨法の狂気”が! じゃあ、のちに小柳津さんが無名のムエタイ戦士に三角絞めであっさり一本負けしたのはわからないでもないんですねぇ。当時は衝撃的に報道されてましたけど。
ヤノタク 俺はそうなるのはわかってましたよ。「勝てるわけがないな……」って。
――すると、大原さんも「骨法の中では強かった」ということなんですか。
ヤノタク 特訓生の中では圧倒的でしたね。でも、そりゃそうですよね。素人の中でひとりだけ柔道の高段者がいるわけですから。
――その大原さんもペドロ・オタービオには完敗してしまい、小路(晃)さんにも圧倒されて。
ヤノタク そりゃあね、格闘技の練習をさせてもらえなかったわけですから。要は強くなれるノウハウが骨法にはないわけですよ。そうするとリアルタイムで知識を身につけていかないと強くはなれないわけですけど。先生にはその知識はなかったんですよね。
――時代の流れに対応していく感じではなかったんですか? 
ヤノタク 俺はそのつもりでしたよ。でもね、先生にとっては「自分の指導で強くなってもらわないと困る」んです。結局そこなんですよね。先生に頼ってらんないから自分たちで学習することを黙認してくれる方向に持って行きたかったんです。「手柄は先生に上げるから黙認してくれ!」って。でも、先生はそれが許せなかった。越権行為だとは言われなかったんですけど、途中からそんな空気をヒシヒシと感じていましたね。
――そのとき矢野さんは特訓生に昇格していたんですか?
ヤノタク あるときまでボクは2階でワチャワチャやってたんですけど。ヒクソンがVTJで来日したときにセミナーをやったんですよ。それが日曜日だったのかな。日曜は特訓生の練習日で誰もセミナーに行けないから「見てきてくれ」と。15000円ですよ?(笑)。
――あ、自腹ですか(笑)。
ヤノタク 自腹ですよ、自腹(笑)。「ヒクソンがどういうことをやってるか見てきてくれ」と頼まれたからすげえメモして。それで道場に帰ったらみんな待ち構えていて。いま思うとマウントを返すやり方とか凄く初期的な指導なんですけど。その説明を俺がみんなの前でやってると先生が割り込んでくるわけですよ。そして「その動き、わかる!!」とかいろいろと説明をしだすんですけど、ぜんぜん見当違いで。 
――あらら。
ヤノタク 「身体の中心線がこーだから」とか言うんですけど、中心線なんて関係ないんですよね。まあ、俺はその功績を認められて特訓に参加するようになったんですよ。当時、選手が1軍で、選手候補が2軍、俺は3軍と呼ばれてたんですけど(笑)。特訓生の中でもミソッカスですよね。お情けで入れてもらったわけですから。
――当時、特訓生は何人くらいいたんですか?
ヤノタク 20人くらいいたのかなあ。一般道場生はどんなに減っても30人。最初はすし詰めだけど、素振りができるような感じにはなっていて。いつも盛況ではありましたよね。
――特訓生になってからは矢野さんの意識も変わったんですか?
ヤノタク 特訓生になってからは面白かったですよね。いちばん下からひとりづつ勝って上がっていくわけですから(笑)。いまから考えると寝技に関してはみんなゼロスタートなんですよ。逆にいうと練習したもん勝ち、考えたもん勝ちの世界。でも、ほかの人間は寝技をよくわかっていない先生の指導しか受けてないわけですよ。俺は習ったことに関して「じゃあ、こうきたらどうすればいいのか?」ってことを考えて独自で研究したんです。人生で初めて予習をしましたもん(笑)。
――そこから格闘技が面白くなって。
ヤノタク だってみんな勉強をしないんだもん。俺だけ勉強してるからどんどん成績が上がっていくわけですよ!(笑)。
――それはやりがいを感じますよねぇ。ちなみに先生の指導はどんな内容だったんですか?
ヤノタク 寝技だったら型。型を繰り返しやる。それは2~3回やると覚えちゃうんでそれ以上やっても無駄なんだけど。俺は動きの中でどう使えばいいか考えてたら。でも、みんなはスパーリングで型どおりに動くんですよ。そんなんだから楽っすよ(笑)。
――それだと矢野さんの寝技は目立つようになっていきますよね。
ヤノタク 結局それで成果が出てきて、最初のうちは先生も褒めてくれてたんですよ。それがどうも教えた以上のことまで俺がやってると気づいて微妙な雰囲気になってたんですよね。んで、新年会前に小柳津さんに呼びだされて「俺はいいと思うんだけど、研究するなと上からお達しがあった」と……。
――えっ、研究禁止!? 強くなるための格闘技なのに!
ヤノタク 自分はもの凄く練習熱心だったんで早くに道場に来て有志と練習してたりしてたんですけど。それすら許されない雰囲気になって。
――ついには正式に禁止令が下った、と……。
ヤノタク そんな空気は感じていたけどな(さみしく笑って)。そのとき「そろそろここにいられなくなるのかな……」って覚悟はしましたね。しょうがないから新宿のスポセンに行って隠れて練習してましたけど。
――それが烏合会の原点なんですね。
ヤノタク 練習熱心のほうが排斥されるというね(笑)。
――先生からすれば、弟子たちが何かに目覚めて自発的に行動することを、王国の崩壊としてとらえたのかもしれませんね。
ヤノタク でも、当時のボクはその先生の心境がわからなかったんですね。いまは理解できるんですけど。基本的にボクは先生に忠誠を誓っていたんで、自分の努力で身につけた能力でも「全部、先生に教わりました!」と言うつもりだったし。ナイフを持った暴漢が先生を襲ってきたら俺が盾になって死んでやると思ってましたから。
――そこまで心酔してたんですねぇ。
ヤノタク だって骨法で格闘技のイロハを教わったわけですから、俺は先生の弟子であることは間違いないわけだし。「ここまで信奉してる弟子を信じられないか」という悲しさはありましたよね……(しみじみと)。
――矢野さんは先生とコミュケーションを取る機会はなかったんですか?
ヤノタク いやもう先生はそういう立場じゃないですから。神棚に乗った人ですから。そこからたまに降りて指導してるもらう関係で。
――現在の格闘技ジムのように、選手とコーチが一緒に試行錯誤しながら技術なりを高めていく関係ではなかったということですね。
ヤノタク そこは一番弟子の小柳津さんたちがやり取りをしてましたね。そこで先生とどんな話があったかはわからないです。何かアイデアがあっても、ボクが直接先生に言うじゃなくて上の人から伝わるかたちでしたし。
――先生とのあいだに誰か入ることで、矢野さんの声がねじ曲がって伝わってるとは考えませんでした?
ヤノタク あのときは「先生は誤解しているかもしれない……」とは考えたんですけど、いまとなってはね、みんな中間管理職なんだなって。空気を読まないといけない。先生の意志を組んで行動しなければならないから、それはそれで大変な立場だったなとは思いますよね。
――そういうこともあって先生から心が離れていったんですね。
ヤノタク いや、最後の最後まで心は離れてなかったんです。ただ、俺が骨法をやめるときも酷い目に遭いましてですね。監禁まがいのことをされて。ハハハハハハ!
――えっ、どういうことですか! なんで町道場をやめるのにそんな事態になるんですか!?(笑)。

骨法語りはまだまだ続く! ヤノタクvs道場生の修羅場、そしてクライマックス――堀辺先生との“スポセン対決事件”! 衝撃の後編はコチラを掌打クリックだ!