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【第162回 芥川賞 候補作】髙尾長良「音に聞く」
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【第162回 芥川賞 候補作】髙尾長良「音に聞く」

2020-01-10 14:36
     晩春の或る日、わたしは東山二条の自宅において伏見区在住の友人の訪問を受けた。彼は、わたしの記憶が正しければ、四十代半ばの独身者だが、若い頃から文学や音楽に没頭しては、些細なことで気を損ねて怒りを爆発させる、扱いにくい男として知られていた。そのような人間にままあることとして、彼は超然とした風体の上に厄介な矜持を身につけており、ひとつの仕事に長く従事できるような男ではなかった。わたしは久しぶりに彼に会ったため、懐かしさから色々と彼の近況を訊ねたところ、彼は古書を扱う業者の見習いのようなことをしている、と言った。彼は、知人の手によるという一冊の手記を携えており、この手記をわたしに見せることが彼の来訪の主目的だった。薄汚れた紙に細かい字でびっしりと書き記されたそれは、たかだか二十年前の手記にしては随分古びた様相を呈していた。彼は紙束の始末に困り、かと言って廃棄するには忍びず、知人と同性の人物に読んでもらえれば彼女も喜ぶだろうと思って、わたしのような文学好きの女性を頼ることにした、と話した。これだけ聞くと書籍や文字には疎い人間のようだが、彼が現在就いている仕事からして不慣れというはずはない。ちなみに彼の知人とは、この三人称で書かれた手記に出る有智子という女性である。
     わたしは手渡された手記を開いたものの、彼の前で頁を繰るのは居心地が悪かった。狭い室内に座っている彼の周囲には、人が年齢を重ねるに伴って増えてゆく過去の空気の残滓や、あたりを払う、と形容しても良いほどのよそよそしい気難しさ、鬱屈した焦燥感といった要素が堆積しており、それらに彼の元々大柄な身体つきも加わって、相対するわたしを圧迫したからである。わたしは何とか彼に察しさせようと、当たり障りのないことを喋っていたが、彼はなかなか気づかなかった。彼は一言も喋ろうとせずに、大きな眼でわたしの顔を――と見えて、実はわたしの背後を――見ているばかりだった。やがてわたしが、祇園にでも行ってきたらどうですか、と訊ねると、彼は面食らった様子で立ち上がった。確かにあのへんには用があった、と彼は呟き、部屋を出ていった。窓から望む岡崎疎水の葉桜の陰に彼が消えてから、わたしは手記に目を通した。


    〈第一部〉


     ウィーン八区のヨーゼフシュタットで市電を降りると、冷涼な空気が彼らを包んだ。黒い空は星を見つけるには曇りすぎていた。汚れた雪の積み上げられた通りを歩き続け、彼らがフロリアニ通りに近いアパートメントを探し当てた時刻には雪が降り出していた。
     アパートメントは姉妹が父の口利きで選んだ、古びてはいるが小綺麗な物件だった。姉妹にあてがわれた五階の踊り場に面した部屋には、黒い繻子の張られた椅子、引き棚、草花を象った木彫、一台のベッドが備えつけられていた。狭い空間を更に占拠しているのが窓辺に置かれたピアノであり、それは姉妹の渡航に際して父の知己から贈られたものだった。彼らは大家から短期の賃貸契約書を受け取り、諸々の取り決めの説明を受けた。「――お分かりと思いますが、最も重要なことは、ピアノには弱音器を付ける、ということです。」有智子は振り向いて妹を見た。真名はコートを脱いで白い牛革のジャケットを羽織り、ソファの端に身体を寄せて座っていた。その様子は、腰かけているというより、天鵞絨の表面に軽く触れているかのようだった。刈り上げた形の良い頭から小さな鼻と顎にかけては室内の灯りが行き届かず、旅の疲れで半ば閉じかけた薄い瞼は、安らかな考えを育んでいるように、もしくは大家の言葉を受け流し自分の内部の音楽に耳を傾けているように、無関心に満ち満ちていた。有智子は契約書を受け取り、署名した。
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