
ドリー・ファンク・ジュニアさんがお亡くなりになりました。追悼の意を込めて2016年に掲載された小佐野景浩さんのザ・ファンクス語りを再掲します。
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・追悼“テキサスブロンコ”テリー・ファンク■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」
――75歳の人間風車!
小佐野 ドリーは私が小学生の頃から見ているプロレスラーのひとりで(笑)。初来日が69年ということは、私は小学2年生だから。
――小学2年生の小佐野さん……(笑)。
小佐野 ファンクスが揃って初来日したのは1970年。なぜおぼえてるかといえば、その開幕戦が横浜文化体育館だったんです。その当時の私は横浜市の鶴見に住んでいて、友達が見に行ったのが凄く羨ましかったんですよ(笑)。買ってきてもらったファンクスが表紙のパンフレットはいまでも持ってます(しみじみと)。
――ファンクスの父親はドリー・ファンク・シニア。息子が2人揃って当時のプロレス界の頂点だったNWA世界ヘビー級王者に就いたのは、英才教育の賜物なんですかね。
小佐野 たしかに2人とも父親以上のレスラーになりましたよね。シニアはあくまでテキサス州アマリロのプロモーター兼エースの域は出なかった。
小佐野 シニアってプロモーターになる前はレスラーをやりつつ、子どもたちを預かる寄宿舎の責任者の仕事をしてたんですよ。レスラーとして各地をサーキットをする生活は、自分の子どもたちのためにもよくない。だからといって、ひとつの地区に留まるのもいろいろと難しい。そこで寄宿舎の仕事を始めたんですね。その寄宿舎の子どもたちと一緒にドリーたちもレスリングをやるようになって。
――ドリーたちは寄宿舎の子どもたちに混じってレスリングをおぼえていったんですね。
小佐野 テリーもいつレスリングをやり始めたかはおぼえていないと言ってました。それくらい自然にレスリングをやっていたということですよね。成長した2人は学生時代にはアメリカンフットボールで名前を売っていて。当時のウェスト・テキサス大学(現ウエスト・テキサスA&M大学)はフットボールが強いことで有名で。
小佐野 シニアは息子たちに大学を卒業しなきゃダメだと。で、2人ともフットボールシーズンが終わったらすぐにデビューして、ドリーはちゃんと卒業したんですけど、テリーは卒業できなかった。なんだかんだプロレスラーの父親の姿を見て育ったことも大きいんでしょう。地元アマリロでシニアは誰からも尊敬されていたみたいですから。
――いわゆる名士ってやつですね。デビューしたドリーは28歳の若さでNWA世界ヘビー級王者になりますが、これって相当凄いことですよね?
小佐野 いやあ、大変なことですよ。以前も話したようにNWA世界ヘビー級王者は各地区を回ってその土地のチャンピオンの挑戦を受けて、興行を潤わさなきゃいけない。あのときのNWAってほぼ全米を網羅した大組織でしたしね。
小佐野 なぜ若いドリーがチャンピオンになれたのか。こればっかりはホントに謎。ドリーはそれまでアマリロでのベルトしか獲ってなくて大したタイトル歴がないわけですよ。それが28歳で世界チャンピオンになった。キャリアわずか5~6年ですよ。
――ドリーは若くして全米を背負える腕があったということですね。凄いなあ。
小佐野 いまの若いファンにわかりやすくいえば、オカダ・カズチカがいきなり新日本プロレスのトップに立ったどころの話じゃないんです。推測するに……
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