「レクイエムの名手」を出版したので、追悼の文章はもう書かないつもりでいまして、日々というものは、人が死んでゆく流れでもありますから、そうですねえリーコニッツなんかは、個人的に凄く堪えたので、追悼文ではなく、「レベッカ」を此処とブルーノート東京で演奏しましたけれども、それでもどんどん、最近は、不勉強にして全然存じ上げないお若い方などが亡くなったりして、ウチも両親(育ての親。は元気に生きていますが)も亡くなってかなり経ちますし、あとは愚兄がくたばって、テメエが死ぬだけですから、悲しませる人々の数が最小になるように生きてゆこうと思うばかりです。

 

 僕が初めて、観光ではなく演奏でパリに行ったのは、ティポグラフィカというバンドが解散すると決めた、その解散ツアーでした。海外ツアーというものは、リーダーとメンバーでは忙しさが違います。僕が世界中で旨いもん喰って、陶酔しながら勉強してる間に、山下洋輔や大友良英はプロモーターと打ち合わせだ、現地のメディアで取材だと大忙しで、僕の役割は、さながらツアーコンダクターというか、どこで喰っていいかわからないメンバー達を従えて、此処が旨い、彼処が旨いと、それはもう楽しく、毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれてやんなっちゃいながら食い歩いていただけで、ガンダムでニューヨークに行ったときは、何日滞在したかもう忘れましたが、ウルフギャングのニューヨーク本店ででっかいビフテキ1枚喰うのが精一杯で、毎日ぶっ倒れるほど取材やパネルがあって、シャワー浴びたらもう起きて。と行った感じでして、50過ぎてから山下や大友の大変さを知ったものですが、30代のパリなんかもう大暴れで、一人だけでアランデュカスの本店に行ったり(そのためだけに、演奏で使わないスーツとタイを持って行ったりしました。一番おしゃれなのは、現地で買う事だったでしょうが)、新旧のカフェ巡りで、腹がカフェオウレでチャポチャポになったほどでしたが、ティポグラフィカの解散ツアー(これは、フランスで3箇所演奏し、帰国して東京で一回だけ演奏する。というアクロバチックなものでしたが)で巡業した時、パリで同じフェスに出ていた渋谷毅オーケストラが<デュック・デ・ロンバール>というパリで最も有名な老舗ジャズクラブで演奏するので、聴きにゆこう、ということになりました。