演奏の仕事がないと、結果として書き物の仕事と授業しか仕事がなくなる。株主総会とかやってみたいのだが(やり方がわからないのだが)、そもそも株主が外にいないので出来ないし、自分でも株のやり方が全くわからない。株をやってる友人に株の話を丁寧にしてもらっても、絶対に途中で意味がわからなくなり、話が止まってしまう。一番わからないのが「空売り」で、恐ろしいのは「もうちょっと考えればわかりそう」なところだ。そして「こんなもん熟知してしまったらドラッグじゃないか」という予期不安が強く働くので避けている。兜町を舞台にした映画で好きなのはいっぱいあるが、あれも詰まる所、意味がわからないままに楽しんでいるだけだ。野球のルールを知らない者でも「メジャーリーグ」や「がんばれ!ベアーズ」は面白いに決まっている。
副業で持ってるカフェとかの営業状態のチェックとかにも行けない。副業を何もやってないからだ。服もコロナになってから1着も買っていない。どころか、「スムースエスカレーター」のMV監督として伊勢丹でロケして以来、伊勢丹にも1回も行っていないのだった。おそるべしコロナ禍。しかし、SUPUR(シュプール)が、「満を辞して」という感じでユーチューブチャンネルを始めたので、デパート飢餓感、ファッション飢餓感、グルメ飢餓感は全部ここで晴らすことが出来る。
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
菊地さんは『作家主義 ホン・サンス』収録の「ホン・サンス論」で、「文芸の外にあるもの、わたしたちが本来、見たくないものを撮っている」と語られていますが、私にとっては、ホン・サンスは、人間が生きるために、見ようと思っても見ることのできないようにされているものを撮っている、という感じがします。ホン・サンスの映画を見て、全体の印象として心地よいと感じらることはほとんどなく、今回の日記で、私は自覚も無く「愛を求めて見に来てしまう観客」なのかなと思いました。
このことが、とんでもない攻撃性として捉えられる一方で、「手に入れる事ができるかできないかの二択としての愛」に疲れている観客にとっての癒しになっているのかもしれない、と思いました。ホン・サンスの映画では、そんなことまで描いてしまって大丈夫なのかと心配になるくらいのものを観させられて、笑ってしまいそうになります。
エコロジーは、ゴミも見つめないといけない、ということの先に、こうした(私のような人にとっての)重みがあるとするならば、菊地さんが普段からよくエコロジーという言葉を使われている意味も、よく理解できるように思います。レヴィ=ストロース(ブリコラージュ)とフロイトの近接性といいますか。
現実の経済体制である資本主義と社会主義と関連付けて他の映画監督と比較されていますが、これについても非常に納得のいくものでした。ホン・サンスは「最後の後継者」と語られていましたが、私小説を可能にするような作家性も無く、かといって本人についてのイメージが全く無いわけでもない、ということが、「自由な普通の人」が生きている資本主義の経済システムの肯定の上に成り立っているような気がします。資本主義(というほど大袈裟ではないにしろ、アダム・スミス的な、人間が自動的に構築してしまう経済)をエコロジーの一部として受け入れているというか。資本主義を否定することで生まれる党派性は、これまで掃いて捨てるほど存在してきましたが、ホン・サンスにはその匂いが全くしません。この自由さにとても惹かれます。
同一性が綻んでいってしまうということと、恋、というものを表裏一体のものとして表現したというのが菊地さんの「次の朝は他人」論かと思いますが、その同一性の綻びを、観客が自分から修正し、そこにフレッシュさが生まれることをホン・サンスは信じており、そこにホン・サンスだけの品格がある。というのは、菊地さんにしか書けないものだと思います。こんなに素晴らしいホン・サンス論を読んだことがありません。
『逃げた女』では、こういったフレッシュさは私の力ではあまり感じられず、菊地さんがUOMOで書かれていたように、名作の感じがありました。女たちがあれこれ語っているけれども、誰にもこの主人公が考えていることが分からない、という静けさ、他人との関わりの中での孤独感が印象的でした。
ラジオデイズの質問で出そうと思って出せなかったのですが、「次の朝は他人」論で、『次の朝は他人』は、村上春樹の作品よりも村上春樹の先品に近いはずだということが、村上春樹の作品を読んでもいないのに分かる。それは村上春樹の作品がユング的であるから。と書かれていましたが、それは、ホン・サンスの作品もユング的である、ということなのでしょうか?同一性の綻びという点と、その補正を読者・観客に委ねるという意味で、二人の作品に似ているところはあると感じつつも、村上春樹の方が「ユニバーサルに面白い」力が圧倒的に強いように感じていて、違いも大きいように感じます。
ジェリー・マリガンの『ナイトライツ』大好きです。菊地さんの日記を読んで以来、グレンファークラスにハマっています。ウィスキーに合う盤もいつかご推薦していただけたら嬉しいです。
>>1
入門編というより、ホン・サンスはどれから入っても同じなんですが笑、「次の朝は他人」「3人のアンヌ」「正しい日 間違えた日」「カンウォンドのチカラ」あたりですかね。それから「逃げた女」に進むのが良いかと。
>>2
「加齢とともに比例するプライド」とあり、それもホン・サンスは描いていますが、もっと根源的な、古い男性性が、もう青年期から持っている、性浴と比例したマッチョな自尊心(女性を客体視した上で)も当然のごとく、ゴロッと投げ出してますね。はっきりセリフで言われたりしますが「韓国の男ってみんなダメ」と云った感じです。
>>3
大変失礼しました笑、とまれ、ここまで来なくとも、ラジオデイズのコメントで充分です笑。何年か前に、路上の自販機を見て「なんだこれメビウスって」と言ったら、一緒にいたものから「ああ、それはセブンスターが名前変わってそうなったんだよね」と言われ、「えええええー!」となって、そのまま覚えていたのです笑。「セブンスターは残し、マイルドセブンがメビウスになった」というのが正しいのですね!それはそれでびっくりしました!笑
しかし、僕は結構色々な喫煙所で喫煙してますが、これは盛ってるのではなく、セブンスター吸ってる人、今の所1人も見ていません笑。遭遇率の多さでは、電子タバコを除けば、アメリカンスピリット、マルボロ赤、ピースライト、ハイライトマイルド、辺りが多いですね。セブンスター吸ってますか?
>>4
<韓国焼肉屋に行けば(当国は歓楽街のど真ん中に韓国人街が鎮座しております)、ホンサンス作品が上映される度に、作品の手作りポスターが焼肉屋に貼られていました。誰がそのポスターを作り、誰が貼ったのかは分かりません。隣には、Sojuを飲み続ける韓国人男性達。網の上では鶏の足が焼かれてます。オモニは、流し続けた韓流ドラマを見ています。>
↑ まだ世界は広いなあと思います。これはすごいですね。
<作品を見ていつも感じるのは、アクション(ト書き)とダイアローグ(台詞)のコード化です。(シナリオに起こし直すと顕著です。この間のラジオデイズの音声による再現が近いと思いました)その上で、ダイアローグを構築した時に交わされる会話の「運動」がものすごいな、と思います。>
↑ 僕もそう思います。ホン・サンスは、酒盛りのシーンだけは実際に酒盛りして、ダイアログ即興で撮影しているらしいのですが(実際は知りませんが)、はっきりと他のシーンとの差があります(何か、酒盛りのシーンだけ「休憩」しているような)。それはアクションとダイアログが交わった時に生じる激しい運動性が、さほどでもなくなるからだ。と考えています。
<(私がスペイン語字幕で鑑賞していることに、そのコード化と運動を感じる一因があるのかもしれません)>
↑ 逆に僕は、実に色々な世界中のコンテンツにスペイン語(と、アラブ語)字幕がついているのを、様々な局面で見ており、スペイン語の具体的な強さ(繁殖力)と、コード化の強さを感じたりしています。60年代東宝プログラムピクチャーのDVDには、「日本語字幕」が付いており、これは単に「もう、今では言わなくなってしまった言い回し」などを再確認できる、いわば歌舞伎の音声案内と同じ意義を持つ側面もありますが、「日本語のセリフを聞き、目でも文字列を追う」という行為が、ダイアログとアクションの新しい関係を形成して「しまっている」のも事実で、興味深いです(字幕は消すこともできるので、比べると映画体験が全然変わります)。
<勿論、コード化した上で、もう一度、そのコードを映像で再現するので、その時に完全にマジックが注入されるように思います。
ボルヘスの言う、炎と数学、の結晶のように。>
↑ 「戒厳令下の新宿」で引用しましたが、ルイスキャロルは「鉱物には主観がないので、炎の力がいる。それは天変地異を起こさせるほど強烈なものを」と言いました。僕は、ホン・サンスの映画を見るたびに、この言葉を思い出します。あの、鉱物的とも言える静けさを結晶化させているのは、炎と数学だと思いますね。
>>5
<菊地さんは『作家主義 ホン・サンス』収録の「ホン・サンス論」で、「文芸の外にあるもの、わたしたちが本来、見たくないものを撮っている」と語られていますが、私にとっては、ホン・サンスは、人間が生きるために、見ようと思っても見ることのできないようにされているものを撮っている、という感じがします。>
↑ 「オー!スジョン」の、まるで日旭旗のような、ベッドシーツに残される経血の跡、は、ここでの「見たくないもの」で、追補にある「3人のアンヌ」での「綺麗でまだ少女性も残しているが、老いたユペールと、主観はガンギマリの2枚目なのに、顔相が、そこらのおっさんにしか見えない監督との、熱烈なキス」等々は「見ようと思っても見ることができないもの」ではないかと思います。
ホン・サンスはグロテスクを、パゾリーニやアントニオーニ等、イタリアの監督のようにスペクタキュラーとしてでなく、自然主義が孕む「汚物」として、大変なホスピタリティの中に転がしますが、<人間が生きるために、見ようと思っても見ることのできないようにされているもの>とは、<映画史と人類史が作ったコードの外にあるもの>と言い直せるかもしれません。
<ホン・サンスの映画を見て、全体の印象として心地よいと感じらることはほとんどなく、今回の日記で、私は自覚も無く「愛を求めて見に来てしまう観客」なのかなと思いました。>
↑ ホン・サンスは、女性ライターに「リアル(で、ミステリアス)だ」熱狂される族面もある一方で、「なんか騙されてる気がする」「どうしてもスッキリしない」「居心地が悪い」という反応も引き起こします。僕は前述、「愛」を複合体的、問題と問題解決的に捉えている観客にとって、かなり居心地を悪くするだろうな。と思いますし、それは繰り返しますが、映画史と人類史ががっちり形成してしまった「愛」のあり方と、ホン・サンスの感受性が引き起こすコンフリクトであると思います。韓国のゴダールと言われるのは間違いではありませんが、ゴダールの「愛」は、あの「人形浄瑠璃みたいだ」とまで言われた「女と男がいる舗道」ですら、いじましく、映画史が形成した「愛」をど真ん中に、だからこそかなりの韜晦を盛って盛って描いている事に対して、何か根本から違うと思いますし、他の韓国映画からも全く独立しています。
<このことが、とんでもない攻撃性として捉えられる一方で、「手に入れる事ができるかできないかの二択としての愛」に疲れている観客にとっての癒しになっているのかもしれない、と思いました。>
↑ アムールの国、フランスでは、長い間ベトナム料理は<庭を手入れした時に出るゴミの飾り付けだ>と唾棄されていましたが、ある時から評価が逆転しました。ホン・サンスの映画は、そのことも思い出させてくれます。
<ホン・サンスの映画では、そんなことまで描いてしまって大丈夫なのかと心配になるくらいのものを観させられて、笑ってしまいそうになります>
↑ 有名なズームも、ちょっと気が緩んだら「ガチョーン」みたいなギャグに見えてしまい、観客は困ってしまいます。「あれは笑っていいのかどうか?」という問いさえ、映画批評家はあまり語りません。答えがまだ見つからないからですが、ホン・サンスは、感情のあり方も、映画的にコード化された喜怒哀楽と違う、一種の自然主義の中にあると思います。
<エコロジーは、ゴミも見つめないといけない、ということの先に、こうした(私のような人にとっての)重みがあるとするならば、菊地さんが普段からよくエコロジーという言葉を使われている意味も、よく理解できるように思います。レヴィ=ストロース(ブリコラージュ)とフロイトの近接性といいますか>
↑ 反エコの図式的代表とされる、機械化文明は、「ゴミを量産する文明」として認識されていますが、これはエコロジカルに捉えれば「人間は(文明が進めば進むほど)ゴミを出す」という考え方になると思います。これは逆説的に、人類が「ゴミ」を規定する事になります。
なので、腐食や、動植物、昆虫などの生殖行為、死骸など、自然に生じる=エコロジカルな(人間の目から見た)グロテスクを、人間は何らかの形に解釈しないといけない。解釈は面倒臭く、また難しいので、多く保留になります。そこに表現の可能性が眠っており、フロイドもストロースも、この点には高い関心を払っています。ホン・サンスの表現には「性欲」「セックス」に対するグロテスクを衒いなくフィクスする事で(特に「映画的」な)「愛」という複合体を、自然な手さばきでほぐしていると思っています。
<現実の経済体制である資本主義と社会主義と関連付けて他の映画監督と比較されていますが、これについても非常に納得のいくものでした。ホン・サンスは「最後の後継者」と語られていましたが、私小説を可能にするような作家性も無く、かといって本人についてのイメージが全く無いわけでもない、ということが、「自由な普通の人」が生きている資本主義の経済システムの肯定の上に成り立っているような気がします。資本主義(というほど大袈裟ではないにしろ、アダム・スミス的な、人間が自動的に構築してしまう経済)をエコロジーの一部として受け入れているというか。資本主義を否定することで生まれる党派性は、これまで掃いて捨てるほど存在してきましたが、ホン・サンスにはその匂いが全くしません。この自由さにとても惹かれます>
↑ 同感です。ホン・サンスは、大韓民国の中では、ものすごい意識高い系の勝ち組社会(「富裕層」とかではなく)しか描きません。なので特権的だという批判もありますが、「自由な普通の人」たちが、SNSを手にし、個人がそのままメディア化されてゆく時代の中で(概ね誰もが資本主義体制を批判する媒体と化してゆく中で)、ホン・サンスは、いわゆる加速主義的なアクセルではなく、本当のスロー、というか、タイムレスを描いているので、「エコなんて金持ちの道楽だ」といった、高等遊民的なエレガンスともまた別な、何か生得的な倫理のようなものがあり、そこが際立っていると思います。
<同一性が綻んでいってしまうということと、恋、というものを表裏一体のものとして表現したというのが菊地さんの「次の朝は他人」論かと思いますが、その同一性の綻びを、観客が自分から修正し、そこにフレッシュさが生まれることをホン・サンスは信じており、そこにホン・サンスだけの品格がある。というのは、菊地さんにしか書けないものだと思います。こんなに素晴らしいホン・サンス論を読んだことがありません。>
↑ ありがとうございます。
<『逃げた女』では、こういったフレッシュさは私の力ではあまり感じられず、菊地さんがUOMOで書かれていたように、名作の感じがありました。女たちがあれこれ語っているけれども、誰にもこの主人公が考えていることが分からない、という静けさ、他人との関わりの中での孤独感が印象的でした>
↑ あれはダイアログとアクションの交差が極点的に高いせいで、時間軸や世界線の操作が不要に至った名作だと思います。
<ラジオデイズの質問で出そうと思って出せなかったのですが、「次の朝は他人」論で、『次の朝は他人』は、村上春樹の作品よりも村上春樹の先品に近いはずだということが、村上春樹の作品を読んでもいないのに分かる。それは村上春樹の作品がユング的であるから。と書かれていましたが、それは、ホン・サンスの作品もユング的である、ということなのでしょうか?同一性の綻びという点と、その補正を読者・観客に委ねるという意味で、二人の作品に似ているところはあると感じつつも、村上春樹の方が「ユニバーサルに面白い」力が圧倒的に強いように感じていて、違いも大きいように感じます。>
↑ ユング性はフロイディアンであればあるほど強く意識されます。僕は、今では当たり前になった、多元宇宙や世界線の多層、時間軸シャッフルの開放性の根源は、ほとんどユングにあり、フロイドは個人の物語を突き詰めた結果、汎用的な物語に到達したと思っており(=多くのアメコミ型ヒーロー譚の脚本が、ユング式の象徴よりも、フロイド的な母子、父子関係やトラウマとその昇華、言語による治癒を骨子としている事で、「ユング的」な物語性を両翼を担っている感があります)、ややアクロバティックですが、村上春樹の小説は「読んだことがないのに、読んだ気にさせる力」、つまり集合無意識の肯定が
前提化されていると感じています。
ホン・サンスは、まるで前提のように世界線の並走やタイムシャッフルを使いますので、僕個人にはユング的に思えます。音楽にこれを取り入れるのはかなり難しい。映画と小説には取り入れやすい気がします。そういう意味で両者は似ていますが、村上春樹の小説を読み、エッセイを読み、(特に)ラジオを聴き、ということを進めて行くと、村上春樹が、結構ベタなスペクタキュラーを振り回していることも分かってきて、前述アクロバティックな論法は「村上春樹の初期作品」という風に限定しないと効力が失われてきているな、とは思います。
>>8
僕は普段はピースのライトですが、年配の喫煙者がいらっしゃる飲み屋などではセブンスター吸ったりします。(「おーっ!セッタかーっ!懐かしいね〜!一本吸わせてくれる〜?」と大抵仲良くなれるので笑)
>>11
ピースライトは美味いですね!僕も一時期ずっとピースライトでした。セブンスターは、マジで笑、吸ってる人、一回も見てないので笑、売れてるとはとても思えないんですが、上田さんのように、昭和コスプレというか、昭和小道具というか、そういう使い方は良いかもしれませんね(わかばじゃやりすぎだし笑)
セブンスターは売れてますよ笑
私はからあげクンがあるコンビニのオーナー兼店長ですが、出勤前のドカタの方々が、ジョージアのエメマンとセブンスターとおにぎりを高確率で購入頂いております笑
dcprgのボックス楽しみにしております!
>>13
そういえばジョージアのエメマン飲んでる人も見たことがない!笑、僕が目にしない現場で売れているんですね笑、ありがとうございました!オリンピックが終わったらボックス届きます!