弱いなら弱いままで。
「辞めたきゃ辞めろ。だが、プロブロガーに惑わされるな!!」という記事を読みました。
実はぼく、この記事を読んでちょっと考え込んでしまったのですね。
いや、記事の内容には特に文句はないというか、正直あまり関心もないんだけれど、この記事は「プロブロガー」の宮本はやとさんを批判している内容であるにもかかわらず、ぼくが考える「批判のルール」をまったく守っていないんですよね。それは問題だとぼくは思いました。
もちろん、ここでいう「批判のルール」とはぼくがかってに考えだしたものなので、絶対に守れとはいえないんだけれど、それにしても人を批判する際にはやはり最低限のルールなりマナーがあると思うのです。
それを無視していると、ぼくなどは話の内容以前のところでつまずいてしまう。批判の正当性に対する信頼度がいちじ
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コメント
コメントを書くこんにちは、Alfredです。
ご指摘にある「批判のルール」ですが、これはまさに論文における「引用のグラウンドルール」そのものですね。
論文、特に文系の論文を執筆する際は「出典元の明記」と「“一字一句違わぬ”正確な引用」が絶対条件であり、これを怠ったあるいは不備があった時点でその論文は評価の対象外となります。例え内容が歴史に残る世紀の大発見であったとしても(むしろ重要度が高いほど)です。
文学の論文では、論述対象の作品または資料や論文を引用する際に、引用個所に誤字脱字といった誤植があった場合でも論者が勝手に訂正をすることは許されず、該当箇所に〔ママ〕というルビを打つというルールがあります。つまり誤字訂正でさえも資料の改竄とみなされ、論述の場においては偽証と扱われてしまうのです。
事実を積み重ねて論理的に真理を立証するという学問において、その真理を捻じ曲げる嘘や偽証は殺人に値する犯罪です(かの小保方氏が学問の立場から徹底的な批判を受けたのは、まさにこれが原因)。
文理の違いを問わず、高等教育を受けた人間であれば論文やレポートのひとつやふたつは必ず執筆しているはずなので、大人の世界において本来このことは常識であってしかるべきです。それが出来ていないという時点で、残念ながらその意見と発言者は「大人として信用に値しない」という事でしょう。
「言葉に対して繊細に」とはその通りですが、それ以上に人間社会に所属する存在として「批判・引用のルール」は極めて重要ですね。
>>1
件の記事ですが、ご指摘の通り意見の論拠が的確に示されていないという点が一番の問題ですね。試しにこの書き込みで、自分が受けてきた日本文学の論文作法に則った記述をしてみます。
例えば批判記事(http://www.hesocha.com/entry/decision-making 以下、批判と記述)次の部分ですが、引用が正確でないために恣意的解釈(ありていに言えば妄想)と取られても反論の権利はありません。
「周りの言うことに惑わされるな、自分で決めろ。」
原典記事(http://megalodon.jp/2016-0802-2022-14/www.miyahaya.com/entry/2016/07/29/121002 以下、原典と記述)でこれに対応する、似た意味の文章はおそらくこれでしょう。
多数派の意見に惑わされず、自分の気持ちに正直であってください。
あるいは次の部分です。
辛口で言いますと、両親や友人のために自分の人生を生きないでください。
誰かのために生きる人生は結果的に誰のためにもなりません。
自分だけの人生なんですから、自分のために生きましょう。
こうして自分の意見と出典を並べれば、果たして自分の意見が論理的に正しくそう解釈できるのかというのが一目瞭然です。この場合は原典で言うところの「多数派の意見に惑わされ」るという言葉に対して批判者の「周りの意見に惑わされ」るという解釈は一見まっとうなに見えますが、この「周り」という言葉の論拠であろう「両親や友人のために自分の人生を生き」ることや「誰かのために生きる人生」という言葉を先の部分と突き合わせてみると、同義となるかどうかが一気に怪しくなります。
あるいは原典の「自分の気持ちに正直であってください」という言葉は「自分で決めろ」という批判者の言葉と本当に同義でしょうか。例えば周囲を遮断して自分で考えた結果の選択として「自分の気持ち」とやらに嘘をついて「両親や友人のために自分の人生を生き」たとしても、それは確かに「自分で決め」た事になります。ここから導き出される事は、原典では「自分の気持ちに正直」である事が意見の核であり、批判者の解釈である「自分で決めろ」という事は原典の「自分のために生きましょう」という行動における手段のひとつでしかないという事です。この点だけでも原典と批判者との論点のズレが明確に表れており、批判は的外れで完全に破たんしてしまったという事になりますね。ネット界隈で言うところの〈はい、論破〉の状態です。
批評というのはここまで〈証拠〉を突き付けて初めて論証が可能となるものです。逆に言うと、ここまでしないと引用は証拠としての信憑性を担保されないものだという事を、件の執筆者にはこの点に関する認識が恐ろしく甘いと言わざるを得ないでしょう。 相手が何を言っているのかを的確に見抜いて的確に意見するというのは難しい事ですが、その根底にあるのは基本動作を正確に行うという誰にでも出来る事だというのが、今回の件の教訓ですね。